ありがとう、これからも
意味深なタイトルですが、引退宣言でも、誰かを見送るnoteでもありません。
なんのnoteかというと、フォロワーさんが1000人超えました、ありがとうのnoteです。
この記事のタイトルを、「これからも」としたのは、できるだけこれからもフォローしていてもらえたらいいなという下心からです。
先に御礼を言っておくスタイル。
普段はフォロワー数なんて全然気にしていない風を装っていますが、たくさんの人に読んでいただけるのはやっぱりうれしくてありがたくて心強いです。
新たにフォローしてくださる方もいれば、私のnoteから離れてしまう人もいますが、それは仕方のないことだと割り切っています。
誰もが読んで気持ちのいい文章を書けているわけではないし、それぞれに事情がありますよね。
でも、私をフォローしてくださっている方々が、如月桃子のnoteをフォローしないのはもったいない!と感じてくれていたらいいな。なんてことをこっそり思っていて。
全然割り切れていませんね。ネチネチしています。
あらためて、こんな私のnoteをフォローしてくださって、ありがとうございます!
どうぞこれからも、よろしくお願いします!
まだフォローしていないのに、偶然この記事を読んでしまって、先に御礼を言われてしまったよという方は、ぜひこのいい機会にフォローしていただけましたら幸いです。
ちゃっかりしていますね。
母から、私の長所はちゃっかりしているところ、短所はうっかりしているところと言われたことがあります。
はたしてちゃっかりは長所なのか、韻を踏んでほしいなんて誰も頼んでないけどな、公務員試験のエントリーシートを書くために尋ねたときだったけれど、こんなこと書けるわけないだろ、とかいろいろ思うところはありますが、私がちゃっかりしていることはたしかですね。
こんな私ですが、今後ともどうぞご贔屓に!
ここからは少しトーンを変えて、noteに対する姿勢、これまでの反省、これからやりたいと思っていることをまじめにお話ししていこうと思います。
私がnoteを書き始めた頃は、できるだけ多くの人に私の書いた文章を読んでほしいと思っていました。
できるだけ多くといっても、まだその頃はどんな人に読んでもらうか、あまりイメージできていませんでしたが。
なんのために書いていたかと言えば、私の存在を認めてもらうためでした。
noteを書きはじめた頃は、学芸員の仕事をやめて、パートの仕事に就きながら、大学院に進学して学び直すことを決めたばかり。何者でもない自分、どこにも居場所のないと思っていた自分がたしかに存在していると、書くことで証明しようとしていました。
もっと正直に言えば、私の才能を認めてほしいと思っていましたね。社会からは評価してもらえない自分の価値を誰かに認めてもらいたかったのです。
はじめはただ闇雲に書いて、1年ほど書きつづけたら、少しずつコメントしてくれる人が現れて、言葉でつながることの楽しさ、心強さを感じるようになりました。サポートしてもらうことも増え、自分の文章が誰かの役に立つ喜びを知りました。
自分の言葉の力を信じることができるようになって、もしかしたら私のことを必要とする場所があるかもしれない、と思えました。
一方で、今振り返ると、その頃は注目記事にもたくさん選ばれて、思い上がっていた部分もあったなとも思います。
今はさっぱり選ばれなくなりましたが、当時は1〜2ヶ月に1回くらいのペースで注目記事に選ばれて、一度だけですが2日連続で注目記事になったこともありました。
少し自分の文章に酔っていたし、自分を過大評価してもいました。
ただ、あの頃無邪気に自分のことを信じられたことで背中を押してもらえたような気もしています。
なんの肩書きもない私の話に耳を傾けてくれる人がいる、私の言葉を求めてくれる人がいると知ったおかげで、もう一度自分の居場所を見つけようと思えました。
もう一度学芸員を目指そうと思えたのも、私が語る美術の話を面白いと言ってくださる人がたくさんいたからです。もういちど学芸員になるという夢を叶えた今も、noteでもらった言葉に励まされながら、その夢の延長線上に立っています。
noteで魅力的な創作をなさる方々に評価してもらえるのは、本当に心強かった。
でも、noteで才能ある人たちと交流できるのは本当にありがたいことである反面、毎日その才能に触れるのはプレッシャーにもなります。
noteの街で、才能のある人はきらきらと輝いていて、自分の存在がくすんで見える。
自分はなんてちっぽけなんだろう、私なんてなんの価値もないやと、noteをはじめた頃の原点に立ち戻ることもしばしば。
創作大賞に応募されている作品なんか、全部読むのが怖いです。
みんな努力と才能の塊なんだもん。
読んで打ちのめされたくて、noteをやっているんだっけと思うことすらあります。
それでも、自分を誰か認めてくれと叫んでいた頃とはちがって、いまの私は、自分の投げかけた言葉をどこかでだれかが受け止めてくれるだろうと信じられます。
自分の才能を無邪気に信じられていた頃ともちがっていて、私は自分の凡庸さを認めることもできます。
そうは言いながらも、投稿する前の不安はいまだにあるし、たとえ凡人にしかなれなくとも努力するのを諦めたくはないとも思っています。
私は、もっとセンスがよくなりたいし、もっと賢くなりたいし、もっと優しくなりたい。
まだまだ足掻きたいのです。泥臭く。図太く。
だけど、それは今を蔑ろにして、前だけを向いていくということではなくて、今を慈しみながら、毎日のちいさなしあわせをひとつひとつ味わいながら進んでいきたい。
これまでも、これからも、いまこの瞬間も全部大事にしたい。
私、ものすごく欲張りですね。
30歳になって、もういい大人なのですが、まだ全部全部手を伸ばしたいのです。
こうしてnoteを書きつづけていますが、私はどこに向かっているのかよくわかっていません。
もうnoteのおかげで、夢は叶えたし。
もう、これ以上は望めないなってくらい、素敵な人たちに出会えたし。noteをやめたって、私の夢やこのつながりが消えるわけじゃないだろうなと思うし。
そう思って、実際去年は本気でnoteをやめようとしていたんですけどね。
仕事で忙しいし、仕事でも文章を書く機会はたくさんあるし、承認欲求も満たしてもらえる。仕事をはじめたらnoteにかけられる時間も情熱も減ってしまっている。
でも、戻ってきちゃいました。
やっぱりここは私にとって大切な場所だから。
まだ夢のつづきを語っていたいし、noteで出会えた人たちとお話ししたい。
話を書く前から、読んでほしい人たちがたくさん思い浮かぶんです。
でも、はじめに思い浮かぶ読者は、私の母かな。
普段母とのLINEなんて1、2行しか書きませんが、noteでは饒舌に近況を報告します。
母は私が書くこともそうですが、やさしいみなさんからのコメントを見て、安心しているようです。
母のように温かく見守ってくれている人がnoteにはたくさんいます。
母のように、というのは親しみを込めすぎている気もするのですが、思っているとおりのことなのです。
noteでは、お母さんに見守られながら遊ぶ子どものように、ぷかぷかと安心して言葉の海を泳ぐことができます。
なにか大きな目標があるわけではありませんが、これからは少し冒険もしてみたいなと思っています。
いつもできるだけ如月桃子として書くときは、できるだけ、やわらかく、ふんわりと書いているつもりです。
でも、少しそんな枠からはみ出る話もしてみたい。
透明感があると言っていただくことがしばしばある私の文章ですが、実際の私はかなりドロドロ濁っていますので、文章でももっと濁った部分もみつめてみたい。
もっと美術の話もしてみたい。日常エッセイよりも、美術の話は読まれにくいしコメントもされにくい。自分の職業人としてのプライドもある。だから、最近はつい日常エッセイばかり書いてしまうけれど、本当はもっと美術の話もたくさんしたいのです。
日常エッセイと同じくらい気軽に読めるような、美術の話を書けたらいいな。
それから、いつか書いたものをまとまった形にもしてみたいな。いまのところ、本をつくって売ったり、有料記事を書いたりは職務規程上気軽にできませんが、いつかを思い描きながら素材を積み重ねていきたいです。美術の本、日常エッセイの本、本の本をつくってみたいな。
noteではこれからもたくさんの試行錯誤、実験をしていきたいと思います。
こうして、試行錯誤しようと思えるのも、読んでくれる人のおかげです。
仕事では失敗が許されない場面もたくさんあります。
でも、私はここでなら安心して転べる。
転んでも手を差し伸べてくれる人がいることを私は知っています。
これまでも、これからも、ありがとう。
どうぞこれまで以上に、これからも仲良くしていただけたらうれしいです。