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じんせいってなあに

私の人生は、いつも見えない綱を渡っているような感覚と、現実味のないふわふわとした場所を、足は確かに歩いているみたいな、そんな2種類の感覚が常に付きまとう。
見えなくて、不安定で、おぼつかない道を切り開いた、選んだって言われるけど、それはこの綱の先にしか縋れないからなのにとか。このふわふわとした足場がいつか消え失せて真っ逆さまに落ちていくんじゃないかとか、あまりの感覚の無さに自分が歩いた足跡さえ見つからなくて、おそろしくなったり。
これは案外堪えるもので、例えば皆が月日が経つことによって感じる「長いこと歩いてきたなあ」みたいな誇りを交えた嬉しい疲労が私には無い。そういった感覚を味わえない。
日々は一瞬一瞬で繋がっていて、私の感覚の中ではその瞬間を逃さないように抱きしめなければ日々の移ろいもろくに感じられない。なのでどうにか腕の中に納まらせるために眠り、食事をして、一生懸命に健康になっている。でも、頑張って健康になって日々を捕まえようとしても、その日々の中でひとつでも尾を引くような後悔があれば今度はそっちに取りつかれてしまう。その後悔が落ち着くまで待って、小さい子を相手にするようにあやして、振り払って振り払って、ようやく日々の輪郭を思い出した頃にはひと月経っているなんてざらだ。誰かに助けを求めたいし、出来ることならこの感覚を誰かに分かって欲しい。ずっと連絡を途切れさせないようにするのって難しいよねとか、人の顔ってなんであんなに気にしちゃうんだろうねとか、バイトしてるとお金の使い方が荒くなって性格が悪くなるのにバイトしてないとお金が無くて困るねとか、諦めたい理由はひとつだったのにいつの間にか増えていくことがあるよねとか、本心と本心のバトルが一番大変だよね、とか。そういう、取り留めのないことを話せる相手が欲しい。気まぐれに本を開いて、毎日においていかれそうって嘆く人物がいたらどれだけいいか。でもきっとそんな本がないから私は今こうして文章を書いているんだろうし、それでもそんな本がどこかにあると信じたいから本を買い漁ってしまう。じんせいってなあに、と聞かれて、人の一生だと答えるのはあまりに正しすぎる。苦悩だよと言われたら生きる気が無くなるし、希望だよと言われたらいつか呪うことになるだろう。じんせいってなあに?少なくとも今は、日々のことだよ。

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