正当化される暴力とまた増える罪状


昨日の夜、父親に右頬を打たれた。左頬も、右頬も、どちらも打たれた。殴られるというより、引っぱたかれるという感覚が近かった。痛さよりも、叩かれた頬の熱さが脳に伝わっていた。母親にここじゃない逃げ場所が欲しいと零してしまったことが原因で始まった家庭裁判で、また生活リズムを崩す理由を聞かれた。父親が部屋にいると、私はいつも恐怖で縮こまってしまう。理性的な考えより恐怖が上回って、判断が遅くなる。声が小さくなる。逃げたいという思いが大きくなって、親の発する一言一言が怖くて、やっとのことで受け答えをする。声が小さいと怒られる。それはお前のせいだろうと怒られる。ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞと怒られる。頭を殴られることもある。記憶に残っているのは、小学生の時に自分で考えろと言われ、言われた通り考えていたら思考中に良くする癖をしていないから考えてないだろと言われたこと。癖なんかで判断は出来ないし、何よりそんな言いがかりで殴られて黙っている訳にはいかない。しかし、私の口から出たのは早口の「考えてるよ!」という自己弁護だった。思えば小さい頃から父親は恐怖の対象で、母親は恐怖とはいかなくてもネチネチと嫌なことをしてくる。父親より理解していますよという顔をして全く見当違いのことを言ってくるから、私は彼女(以下母親を彼女と呼ぶ。彼女について、私は一人の大人、親としてでは無く一人の少女として見た方がいいと考えた)が苦手だ。頬を打たれた理由は、やはり彼女とのすれ違いだった。生活リズムを乱れさせる理由はこれまた死ぬほどに聞かれたことなのだけど、毎回律儀に私は答えている。「夜は怒られないから」「静かだから」全部本心である。彼女や父親から向けられる理不尽な怒りほど私を鈍らせるものは無い。それのない夜中、その時間のなんと素晴らしいことか。というふうに、私はどんどん夜中に安心感を覚え昼夜逆転が常となった。しかし、一番大きな原因は未だ親に話したことがなかった。父親はすぐ手が出る。昔からそうだが最近は私の抵抗も相まってそれが過激化しており、気に入らないとすぐ頭を叩かれたりする。言い訳をできる暇もないし後でしても酷い場合もう一発食らう。言い訳してんじゃねえと暴論。そうされるくらいだったら泣き寝入りするほうがマシで、そして昼夜逆転生活を選ぶ最大の理由、『家族と関わる時間が減る』を口にしない理由もそれだった。関わる時間が減れば、彼女の不安を私にぶつけているだけのランダム説教(何かと理由をつけて不安だ心配だこのままじゃ絶対にダメと言う。手伝うからねとも言われるがそうされてもこちらのメンタルが削られるだけなので丁重に断っており、そうすると何もさせてくれないと言う。喧嘩にしたくはないし長引いても私が堪えられず泣くだけで、母親の満足につながるだけだ。そうするのを避けるため始まったらすぐ逃げるようにしているが、それもそれで母親の不興を買う正解なしのクイズ)が始まらない。母親は息を吸うように私をディスり、そして本人にその気は無い。彼女の言う『会話』すら私にとっては針のむしろ言語バージョンで、それを避けようとしたり、泣いたり怒ったりしてもこれはあなたにとって『説教』だったのねと言われる。説教じゃないよ、会話だからねえと柔らかく言われたって不愉快なものは不愉快だ。善意から来ているのが本当に本当に苦しい。怒っても泣いても彼女の不興を買うし、聞いても後で私が布団を被って叫ぶ状況に追い込まれるだけである。だから最近は一言二言は聞いてやろうと精神で、そして耐えきれなくなる一歩前で逃げる。少しライフを残しておかないと捨て台詞で堪えが瓦解してしまうのだ。瓦解すると、私だって頑張ってる!と母親に言うことになり、そうすると母親の勝ちである。後で私の酷い発言だけを切り取って父親に報告すればいいのだ。私に言ったことは全て防御やら正論なのでセーフ。だって母親だもん教育だし仕方ないよね。ふざけんな。
こういう爆弾を抱えて過ごすということが、いかに苦しいか分かっただろうか。最近では少し、ほんの少しだけ収まった気もするが、その代わりチクられる頻度が増している。本人的には我慢してるつもりらしい。
長くなってしまったが、頬を叩かれる原因になった「生活リズムが崩れればお母さんと関わる時間が減る」という言葉の真意とはこれのことである。無論両親には理解できないことであるし、そしてその道の体験者の方にも親は(子供が、子供を、子供の考えをヤバい意味で凌駕する)理解できない生物だという点においてお墨付きを頂いている。
私が書いている文章の真意は大抵が認められたい、幸せになりたいである。人生は苦労の連続だのなんだのという言葉ではなく、私は人生とは自分でいくらでも幸せに出来るものだと思って生きたいのだ。悲観しても楽観視しても現状が変わらないのならせめて得をする考え方をしたいし、私は一瞬一瞬を楽しく生きる道を選んだ。だからこのnoteを書いている。いつか大人になった時、このnoteを元にして本を書きその印税で駄菓子屋で豪遊するつもりなのだ。苦労は買ってでもしろという名言があるが、私は逆に苦労を紙に移して量産して金を稼ぐのだ。それが本になった時、帯になんと書かれるのだろう。共感するものとして?それともマツコさんのような、辛辣で爽快なものとして?悩める中高生に読んでもらいたい一冊?とりあえず印税のために書店で買ってくれるだけで満足である。私としては、その本が親の知らないところで爆売れし富豪になって駄菓子屋で豪遊し、そんなんじゃ生きてけないと宣った我が両親に向かって、誰がダメ人間だっけ?と言ってあげるまでが復讐である。一番最後を実際にできるかどうかはその時の自分内の優しさとゲスさのバランスにかかっているが、まあ出来なくても両親のクズエピソードが量産されて世にばらまかれ私が富豪になれて苦しむことが無くなればハッピーだ。とりあえずここまで書いたので乗せます。未来に本として売り出されるであろう文章がまた増えました。


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