SLEUTHとSHERLOCK

『推理小説は崇高な精神のための最高の娯楽』

つまり
崇高な精神を持つ人類は
最高の娯楽として推理小説を愉しむ

ではその"推理小説"に求められるものとは何か

【推理小説】
なんらかの事件・犯罪の発生と、その合理的な解決へ

【推理】
既にわかっている事柄をもとにし、考えの筋道をたどって、まだ未明の事柄を推し量ること

【小説】
作者が自由な方法と様式で、人間や社会を描く様式。

アンドリューにとって
"それ"が真実かどうかは関係なくて、彼はただ娯楽=推理小説を求めていた 

現実で虚像を描ききった(=ドップラー警部への扮装)、マイロはアンドリューにとって最高の娯楽を与える存在そのものだったのに、マイロは"法律(逮捕)"という事実/結果で立ち向かおうとする。

それにアンドリューは耐えられない 
最高の【娯楽】なのに、、
なぜ彼(マイロ)は娯楽を手放すのか、、    

娯楽に取り憑かれたアンドリューと
結果で彼に打ち勝とうとするマイロ、、、
過程と結果、、

ここでふと私はあれを思い出しました

大学1年生の時にベネディクトカンバーバッチ編(笑)
SHERLOCKと原作の『緋色の研究』の作品研究をしました。※かなり省いて当時の私の持論を述べていきます

●緋色
⇨色が混じり合い、単色を取り戻すことはできない
⇨世に溢れる真実と嘘、正義と悪のように。

何かがどちらという定義はできない。
何もかもが二面性・多面性であることを表している

●シャーロックとワトソン
⇨この2者もそう
一見、シャーロックが変人でワトソンが常識人だと思われる   

でも良く見ると
シャーロックは常に真実を見ている、真実だけを。
※カンバーバッチのSHERLOCKは現代社会が舞台になっていてそこの演出が秀逸。さいくぅ〜

作中はSNSやマスメディアの描き方が面白いんだけど、シャーロックは見向きもしない。なぜならそこに真実はないから。所詮顔の見えない名前もわからないSNS、彼は常に画面の向こう側にいる"奴"を見ている。モリアーティー!ふぅ!

その一方でワトソンは、
戦場帰りの戦士で後遺症に悩まされている。
今もカウンセリングに通っているし、色々と割愛するけれど彼が持つ"杖"は荒ぶる戦士心を押さえ込む自制心の役割をしていると思う。
その狭間で顔を覗かせるワトソンの暴力性。
犯人はすぐに処刑されるべき、殺されるべきだという発言もする。SNSやメディアの意見も受け止める。

シャーロックと比べて"常識人"であるはずの彼が。

それは一体なぜか。

それは彼の心身を蝕む
戦争、そのものが匿名性の何物でもないから。

国のためだというがじゃあ一体
誰のために戦っている?
国の顔はあるか?
戦争の頂点にいる人間の顔を見たことはあるか?
いまこちらに銃口を向けている人の顔は?名前は?
自分が殺してきた人の顔は?
彼らの家族の顔は?

そんなことどうでもいい。
殺すか殺されるか
それが戦争。
ワトソンはそんな世界で生きてる。


シャーロックとワトソン。
どちらが正義でどちらが悪か。

それはどちらでもない。
どちらも悪でどちらも善。
緋色のように混ざり合い
2色で1色を作り出す。

緋色の研究とは
緋色が何色からできているかを分解することではない
緋色が緋色であると理解すること

アンドリューにとっての
推理小説もそうだったのではないか、
彼にとって大切なことは
推理小説を読むことでも推理することでもない
生み出すこと、描き出すこと、
そこに真実を持ち込む必要はない

マイロはそこにたどり着けない

愛する女性と幸せになるため
いや、
自分が幸せになるため
現実でアンドリューに対抗しようとする

たしかにアンドリューは逮捕される

でもあの後マイロは幸せになったのか

もちろん
犯罪を犯した人は逮捕され、罰せられるべき。

ただ、
崇高な精神を持ち続けたのはどちらか。

そこに正義と悪はあるのか。 

必要、あるのか。

今日はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?