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白鳥の湖

 それは子供の頃の印象で、とても大きな湖のようにおもっていたのだが、いま見ればそれほどでもないのかもしれない。そこにはいつも水鳥が泳いでいて、ワタルは子供の頃よく家族でその湖に遊びに行っては、売店で買った餌を水鳥に投げて遊んだのだった。

 ワタルが投げた餌が水面に落ちると、まるで餌に吸いつけられるように水鳥が集まり、首をのばして我先に餌を奪い合った。今度は別な方に餌を投げると、水鳥たちはくるりと一斉に向きを変え、また餌に向かって群がるように泳いだ。ワタルはそんな水鳥たちの様子が滑稽で面白く、いつまでも飽きることなく餌を投げ続けていた。そのとき、突然一羽の白鳥がばさばさと翼を拡げると、それが合図だったかのように、それまで滑稽だった水鳥が一瞬で姿を変え、まるで踊るようにして翼を羽ばたかせはじめた。ワタルは、なんだかその白鳥に何処かへさらわれてしまいそうな気がして、怖くなったのだった。

 公園でスワンを漕いでいるときワタルはよくそのときのことをおもいだした。

 成人して都会に働きにでたワタルは、ある日たまたまこの公園を通りかかった。公園の入り口に立てられた案内板には、公園の簡単な地図が描かれていて、真ん中にある池にはアニメキャラ風にディフォルメされた白鳥が泳いでいた。ワタルはその白鳥のイラストに惹かれて、スロープ状のゆるやかな階段を下って公園に入ったのだが、公園の池に白鳥の姿はなく、そのかわりに白鳥の形をしたスワンと呼ばれるボートが浮かんでいたのだった。

 一人でそんなことをするのは気が引けたのだが、ワタルは1回500円/30分を払ってスワンに乗ってみることにした。そんなことをしたのは、その日ワタルは何もすることがなく、朝からずっと退屈していたということもあったのだが、やはりその公園の池が、子供の頃に遊んだ湖を思い出させて懐かしかったからだろう。ボートのりばの係員は小柄な初老の男で、ワタルがひとりでボートのりばのゲートをくぐると「変なやつだな」という顔でワタルを見た。

 池を取り囲んだ木立の向こう側には、大きなロゴを掲げた商業ビルや背の高いマンションが頭を覗かせていた。スワンの中からそんな光景を眺めていると、ワタルはこの大都会の真ん中でついに一人きりになってしまったような、それでいて寂しいというよりはむしろほっとするような、いつまでもそこでゆらゆらと揺られていたいような心地がした。それ以来、仕事の休みの日には、この公園に来てスワンに乗るのがワタルの習慣になった。

 ワタルがボートのりばへ姿をみせると、最初のうちは「変わったやつだな」という顔をしていたボートのりばの係員も、そのうち「おっ!また来たな」という顔をするようになり、ワタルも「どうも」といった感じで軽く会釈を返すようになった。それは人見知りのはげしいワタルにとっては、とても珍しいことだった。

 そんなある日のことである。いつものようにボートのりばにやって来たワタルを見て「おっ!また来たな」という顔をした係員が、おやっとワタルの背後を覗き込んだ。ワタルが変に思って振り返ると、そこには白いワンピースを着た背の高い女の子が立っていた。

 いや違うんです。別々でお願いします。ワタルは係員にそう弁解しようとしたのだが、それより先に背の高い女の子が

「わたしと一緒にスワンに乗って貰えませんか」

そうワタルに向かって訴え掛けるようにいったので、ワタルは気が動転してしまい、助けを求めるように係員を見たが、その時係員はもうスワンを繋いだロープを手繰り寄せながら、二人を手招きしていたのだった。

 僕はナンパされてしまったのだろうか。ワタルの隣のシートではミサが真剣な顔をしてスワンのペダルを漕いでいた。

「白鳥を操るって書いてシラトリミサっていいます」スワンに乗り込むとき、ミサはそういって自己紹介した。

「なんだかスワンを漕ぐために生まれてきたみたいな名前ですね」ワタルがそういうと、ミサはえへへと笑った。

 実際、ミサはスワンを漕ぐのがとても上手かった。ぱたん。。ぱたん。。とミサがゆっくりとペダルを漕ぐと、スワンは水面を滑るように進んだ。ワタルは足をペダルに乗せているだけだった。変に力をいれると、せっかくのなめらかな動きが乱れてしまいそうな気がしたのだ。ワタルがミサの漕ぎ方をほめると、ミサは今日生まれて初めてスワンを漕いたのだといった。

「さっき生まれてはじめてスワンを見て、どうしても乗ってみたくなったんですけど一人で乗る勇気がなくて、それで思い切ってワタルさんに声を掛けたんです」ミサは器用にスワンの舵を切り、池の縁に沿うようにスワンを漕ぎながらそう話した。

「なんで僕に」ワタルはちょっと情熱的な返事を期待して聞いてみた。

「ほかに一人でスワンに乗ろうとしている人がいなくて」そういってミサはまたえへへと笑った。よく考えてみればそれはとても真っ当な答えだったので、そのぶん余計にワタルはがっかりした。

 ゆっくりと池を3周して、30分ぴったりにミサはスワンをボートのりばに戻した。

「わたしばっかり漕いじゃってすみません」にこにこしながらミサが謝った。

 ここは僕の方から誘わなければ。ワタルはそう考えて「どこかでお茶でも飲みませんか」と、ボート乗り場のゲートを出たところでこちこちになりながらいった。しかしミサが「わたしここで失礼します」と、一瞬も迷うことなく答えたので、ワタルは腹立たしいような、恥ずかしいようなその中間のような気がして、一刻も早くその場を立ち去りたくなった。

「それじゃあ」ワタルがそういって駅の方へ歩き出そうとすると「あのお」ミサが小さな声でワタルを呼び止めた。

「よかったら今度また一緒にスワンに乗ってもらえませんか」

ミサが訴えかけるようにいった。ワタルはこんどは嬉しいような、けれどもなんだか騙されているようなその中間のような気がして「まあ、いいですけど」と曖昧に応えると、ミサはえへへと笑って走っていってしまった。

 連絡先も交換してないのにどうするつもりだろう。そうおもってワタルはミサを追いかけたが、ミサの姿は木立の向こうにすぐに見えなくなってしまった。

 次の休みの日、いつものようにワタルが公園のボートのりばへ行くと、ミサがゲートの前に立っていて、ワタルを見てえへへと笑った。

「なんで僕が来るのが分かったの」ワタルがミサに尋ねると

「わたしって凄く勘がいいんです」ミサは真剣な顔をしてそういった。

 ワタルがミサと一緒にボートのりばのゲートを入ると、ボートのりばの係員が「よっ!御両人」といった顔で二人を見て、スワンを繋いだロープを手繰り寄せた。

 ミサは前と同じようにゆっくりとスワンを漕ぎ、ぴったり30分で池を3周すると、また同じようにゲートの前でワタルと別れて帰って行った。そして次の休みの日も、また次の休みの日もミサは同じようにゲートの前に立っていて、同じように帰っていった。

 最初はそんな偶然もあるかもしれないと考えるようにしていたワタルだったが、さすがにそれが何度も続くと、なにかおかしいのではないか、とおもうようになった。ひょっとすると、ミサは毎日ボートのりばの前で僕を待っているのではないだろうか。しかし何のために。そんなことをするくらいなら、あらかじめ待ち合わせれば良いだけではないか。だとすると、ミサは別に僕を待っているわけではないのかもしれない。適当に気に入った男がいれば声を掛けて、スワンの料金を驕らせているのではないか。しかし何のために。何のためにそこまでしてスワンに乗る必要があるのだろう。

 いくら考えても堂々巡りで、答えなど出る訳がなかった。ワタルは次第にミサのことが頭から離れなくなり、夜もよく眠れなくなってしまった。

 そして次の休みの日。ミサはいつものようにボート乗り場の前に立っていた。ミサはまたいつものようにゆっくりとスワンを漕ぎ、30分ぴったりでスワンをボートのりばに戻そうとした。しかしワタルは強引にスワンの舵を切り、力任せにスワンのペダルを踏みはじめた。

「もう一回乗ろうよ」

 ワタルの漕ぐスワンは大きな水しぶきを上げて、池を真っ直ぐに突き進んだ。スワンから広がったさざ波が水草を大きく揺らし、池に写った空が複雑な縞模様に変わった。池の真ん中辺りまで来て、ワタルは太ももが痛くなってスワンを漕ぐのをやめた。スワンはそのまましばらく惰性で漂っていた。

「君、なんでいつも僕が来るのがわかるの」

ワタルは息を切らせながらいった。しかしミサは真剣な顔で水面を見詰めたまま黙っていた。

「君、なんでいつもすぐ帰っちゃうの」

ワタルはなるべくさり気ないような感じでいったつもりだったが、ミサはやっぱり黙って水面を見詰めていた。

「君、この近くに住んでるの?」

ミサは黙ったままだった。ミサは怒ってしまったのだろうか。ミサはもう二度と僕の前に姿を見せないかもしれない。そう考えると、ワタルは自分のしたことを後悔した。

「なんかごめんね。帰ろうか」ワタルがそういってスワンのペダルを踏もうとすると、ペダルは凍りついたようにぴくりともしなかった。ミサの足がペダルをしっかりと押さえ込んでいたのだ。

「見たい?」ミサが水面を見詰めたまま静かに口を開いた。

「どういうこと?」ワタルがミサを見ると、ミサはゆっくりとスワンのペダルを踏みを始めた。

「見せてあげる。わたしの本当の姿を」

ワタルはシートに押し付けられるような重みを感じて、気がつくとさっきまで水面だったスワンの底から、航空写真のような公園の池が覗いていた。ワタルは驚いてミサを見たが、そこはもうスワンのシートでさえなくなっていて、ワタルは白鳥の眼で見覚えのある都会の街を見下ろしていた。

 白鳥が何処を目指して飛んでいるのか、ワタルはすぐにわかった。それはワタルもよく知っている場所で、ワタルがいつもそこへ戻りたいとおもっていた場所だった。

 いくつかの山を越え、都会に比べると森や田畑に覆われた地面が目立つようになり、目的の場所が近づいて来たことがわかった。やがてこんもりと茂った森の中に、瓢たんを斜めに切ったような形の池が見え、白鳥はその池に向かって高度を下げ始めた。 

 池に近づくと、水辺に沿った遊歩道を歩く人の形が、次第にはっきりと区別できるようになった。その中に人が群がってしきりに何かしている場所があった。そこは池に張り出したデッキのようになっていて、デッキの周りに小さな米粒のように見えるのは、どうやら水鳥らしい。ワタルにはそれが、子供の頃、水鳥に餌を投げて遊んだ餌場だということがすぐに分かった。

 白鳥は水面に降り立ち、餌場に向かって泳いだ。他の水鳥に蹴飛ばされたり、突かれたりしながら餌場のデッキに近づくと、ワタルは、デッキから夢中になって餌を投げている子供の中に、幼い頃の自分が混じっていることに気がついた。

「あれは僕だ」

ワタルが思わず子供の頃の自分に向かって翼を拡げると、それがなにかの合図だったかのように、ほかの水鳥たちも一斉に翼を羽ばたかせた。子供の頃のワタルはその様子にびっくりして、餌を袋ごと放り投げてしまった。その餌の袋に水鳥たちが狂ったように飛びかかったので、餌場はひっくり返ったような騒ぎになった。ワタルと何人かの子供たちは、そんな水鳥たちの様子に怯えて泣き出してしまった。

「僕はこのとき、君が僕を何処かへさらって行ってしまうのじゃないかと思って怖くなったんだよ」

ワタルがそういうとミサはえへへと笑った。


 閉園時間が近づいて、ロープを通したスワンを桟橋に繋ぎ止めていた係員は、スワンが一台増えていることに気がついた。

 係員は、マニュアルにしたがってスワンの数を三度数え直したが、やはり間違いなくスワンは一台増えていた。係員はため息をひとつつくと「まあ、しょうがないか」そんな顔をして、暗くなりかかった空に瞬き始めた星を見上げた。  

 ボートのりばのスワンが一台や二台増えたり減ったりするのは、この業界ではそれほど珍しことでもなかったのである。

 係員はボートのりばのゲートを施錠すると、自転車に乗って帰っていった。(了)210202


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