ノンリー

ミュージシャン。ロックバンドSHURIKEN(手裏剣)ベース&ボーカル。千葉県出身。好…

ノンリー

ミュージシャン。ロックバンドSHURIKEN(手裏剣)ベース&ボーカル。千葉県出身。好きなものは鉱物、動物、植物、武術。ニューヨークにて25年人生を学ぶ。現在コネチカット州在住。2023年には日本でツアーしたいです。Samurai Rock & Roll!!!

最近の記事

カラオケにまつわる思い出

1) 以前嫁として義家族とのスキー旅行に参加した時の話。一家全員でミュンヘンにあるスキーリゾートに行った。私は千葉の海育ち。雪遊びはあまりした事が無かった。まあ皆んなが滑って居る間に観光でも出来るかな、なんて考えていたけど甘かった。スキーリゾートはオーストリアのザルツブルグから マイクロバスに揺られて3、4時間かかるところにあった。家族みんなは山頂からスイスイ滑っていたが、私は山の麓で初心者用のクラスに通った。(笑) 結局はラウンジでビールを飲みながらビデオで写し出されるエク

    • 赤いヌンチャク

      私が以前結婚していた元旦那は誰にでも優しく、彼を狙う寂しい女達が彼の周りを回遊魚の様に常時ウヨウヨ泳いでいた。 ある日、彼の独身時代の元同僚だった女が家族を連れて私達の町に遊びに来た。SNSで彼を見つけ15年振りに連絡をして来て再会。皆で楽しく食事中に彼女が明るく言い放った。「あのね、私達離婚したの〜!でも今でもお互い良い友達だから〜!」一気にテーブルが凍った。その場に同席していた無言の彼女の元旦那に私は同情した。こういう話は個人的にするものではないのかい? その離婚報告

      • ツアーの思い出2 オハイオ

        オハイオ。「おはよう」と似ているオハイオ。今回は某パンクコレクティブ(地元のパンク達がライブを観に来る場所)での思い出を記そうと思う。元は水道屋だった廃屋を人々が勝手に手入れしたライブ会場だった。もちろん違法である。街自体活気が無く、人通りは全く無かった。バーではないのでアルコールも売っていない。意識高い系の自主制作本は売っている。10代20代の若者達がほとんどで自由でとても活気があった。はしごを登って2階に行くと、スクワッターと呼ばれる勝手に住み着いた人々と彼らの飼っている

        • カラスの友達

          私は二十歳の頃一時東京の銀座にある貿易会社で中国語担当として働いていた事がある。行きも帰りもギュウギュウの満員電車に揺られ、会社もイマイチ居心地が悪く(「銀座のOLらしくしろ」と会計課の御局様にバンドマンの私は良く説教された)思い返してみても大変な毎日だった。 私はテレビドラマの話しかしない数人の女性先輩方との昼食を辞め、ウクレレを抱えて毎日ビルの屋上に向かう様になった。誰もいないし静かな屋上で人間から離れて唯一ホッとできる休憩時間に、私は1人で歌を歌って過ごした。 ある

        カラオケにまつわる思い出

          ハワイでイルカと泳いだ話

          20年前に息子を産んだ。両家族にとって初孫だったので義家族のフィーバーぶりはとても強烈なものだった。出産1ヵ月前に9月11日のワールドトレードセンター崩壊を経験した。川向こうに住んでいた我が家には化学物質が燃える匂いが窓を閉めていても入ってくるほどだった。 その間に息子はお腹の中でどんどん大きくなり、出生時には5キロを超えていた。未熟児ではなく、過熟児。私は助産婦&自然分娩を望んでいたのだが長時間粘っても出て来れず、私は段々グロッキーになって行った。最終的には病院で帝王切開

          ハワイでイルカと泳いだ話

          音楽人生記

          私は小さな頃から音楽が大好きだった。両親は小さかった私にピアノ、鉄琴、太鼓などのおもちゃを与えてくれていた。「お寺の鐘が」「ピンクの人と黒い人(トイレのマークの人物について)」という歌を4歳の時に作ったのが最初だと思う。 小学生時代は東向きの窓に面したオルガンを毎日弾いていた。周りのバーの大音量のカラオケの中で育ったので気がついたらメインとベース、両方が頭に入っていた。1年生の時にピアノ教室に通ったが、冷淡でスパルタな意地悪おじいさん先生ですぐに辞めた。私は褒められて伸びる

          音楽人生記

          謎のBFFペンダント現わる

          以前住んでた家から私の15〜20年ほど前の宝物たちが送られて来た。母からプレゼントされたエプロン模様のエプロン、友人たちからの手紙や写真、それから忘れていた作りかけの水晶のビーズで作ったネックレスや工具が入っていた。 天然石のビーズやらワイヤーの中に、なぜかこのペンダントが紛れ込んでいた。私には一切記憶がない。BFFとは最高の親友と言う意味である。チェーンの長さを見るとどうやら子供用だ。 てっきり娘のものが混ざってるのかと思い聞いてみた。すると彼女のものでは無いとの返事。

          謎のBFFペンダント現わる

          父,昭治。

          私の一番古い記憶は父の葬式である。彼は私が2歳になる前に亡くなった。私は親戚の皆が正装で集合しているのにはしゃぎ、でんぐり返しを披露していたそうだ。そこは記憶がないが。父はラーメンの出前配達中に倒れた。脳いっ血だった。1週間の昏睡の後に亡くなった。パパっ子だった私が「お父さんは?」と聞くと周りの大人達は「良い子にしてたら帰ってくるよ」的なぼんやりした事しか言わず、お葬式の時には「お父さんは星になったんだよ」とまたしてもハテナ?なよくわからないことを言った。「お父さん今病気で入

          父,昭治。

          公園で会った不思議な女の子

          昭和の子供だった私は公園が大好きだった。6歳の時はほぼ年子だった弟と週末の朝に日も明ける前から家を抜け出しこっそり公園に遊びに行った。夜露に濡れた公園は当たり前だが誰もおらず貸切状態で私は大好きだった。そして数時間後には帰宅。何事もなかったかの様に過ごした。遅く起きて来る母は何も知らなかった。 昭和の公園には色々と面白い遊具が有った。小学四年生だった私は千葉県市川市に住んでいた叔父を訪ね、マンションの公園で遊んでいた時の話。私は小さい従兄妹たちを上の写真の様な地球儀の中に座

          公園で会った不思議な女の子

          記憶の片隅で

          私達は毎日色々な情報を取り入れ、流して行く。例えば上の模様。何だかお分かりだろうか…?神聖幾何学にも見えるこれは、ドリフの8時だよ全員集合の背景である。美しいねえ。 時々ふと昔の出来事が蘇る時がある。小学生の私は松濤館流空手を習っていた。中学校内に有ったとても古い木造の剣道場で夜に週3回。私達は床を拭くことから始め、瞑想、練習をした。木の窓枠にはまったガラスは風が吹くとカタコト揺れ墨の様に暗い夜が外に広がっていた。練習生は小・中学生から高校生や大人もおり、皆家族の様に仲が良

          記憶の片隅で

          ツアーの思い出(ロスアンジェルス カリフォルニア州 アメリカ)

          2013~2020の7年間、私はニューヨークハードコアのアーバンウェイストと言うバンドで私はベースを弾いていた。2013年、初めての西海岸ツアー。毎晩各地でライブをした。曲を筋肉が覚え、どんどん腕が上がった。 共に回るバンドの人々は、元ギャングだった人もメンバーにいるバンドだった。ロサンジェルスのバッドなボーイズの彼らとバンに乗り、数週間を共にした日々はとても良い思い出だ。全身に刺青が入った、筋肉モリモリの強面の面々(自称ロスのバッドボーイズ)は慣れるととても良い人達ばかり

          ツアーの思い出(ロスアンジェルス カリフォルニア州 アメリカ)

          あきひろお兄さんの華

          杉田あきひろさんをご存知だろうか? 日本で子育てをしていた2003年頃。私は幼児番組の「おかあさんといっしょ」を毎朝テレビで見ていた。私は特にあきひろお兄さんのパフォーマンスが大好きだった。全てがとても良いのだ…。明るい笑顔も、間も、歌声も、彼の持っている氣、面白い歌も優しい歌も完璧だ。素晴らしい。私は心の中で劇団の団長になり、彼を看板スターにする妄想などをした。  2003年に歌のおにいさんお姉さんが交代した時、我が家は大混乱に陥った。毎日あきひろお兄さんをテレビで見て

          あきひろお兄さんの華

          植木について

          私の両親は植木が大好きだった。父は盆栽、君子蘭、松葉蘭を、母は月下美人、金のなる木、朝顔を愛でた。父の死後、母がテレビで音楽を聞きながら口笛を吹きつつ彼の残した植木の世話をしている姿を今でも良く覚えている。 最近私は剪定と植木に肥料をやる事を覚えた。年に2回の植え替えもバッチリだ。鉢の中の土は栄養が無くなると干からびて痩せこけて見える。そして憎き子バエが何処からか湧いたりする。以前人から「人生はおむつの様な物である。汚れた時が変える時だ。」と聞いたことがある。室内観葉植物の

          植木について

          古い魂

          私は今までニューヨークで日系もしくはミックスの子供達のベビーシッターや音楽教育、ママヘルプなどをして来た。子供達が素晴らしいのは、魂の輝きだ。こちらもリアルでいないとたやすく見透かされてしまう。 A君は小学一年生のとても落ち着いた男の子。「あのね。”100%勇気” じゃダメなんだよ…。勝つのは、”100%本気”の人!!!」ある日急にこんな事を教えてくれた。すごい…。すごすぎる…。本当に学ぶことが多いのだ。因みに駆けっこレースの勝ち方は、「最初から一気に飛ばさない。ゴール直前

          人生に無駄なことは一つも無いのだ。

          私はバーの隣で育った。ジャンジャン横丁という飲屋街の手前で、父が以前食堂を経営していたのだ。そこはコの字型になった袋小路で小さなバーが2階建てにビッシリ入っていた。昼間は野良猫ぐらいしかいないゴーストタウン。だが夜になると全てのバーに灯りが灯りパーティーは毎晩大騒ぎだった。芸者の姐さん達が綺麗に着飾って仕事に向かって行くのを目にしたり、酔った客の喧嘩や歌うどら声、ホステス嬢達が車をお見送りする時の「おやすみなさ〜い。ありがとうございました〜。」なんていう甘ったるいトーンの声を

          人生に無駄なことは一つも無いのだ。

          祖母のお灸&祖父の予言

          私が4歳だったある日。東京亀戸に有ったマンモス団地叔父宅にて祖母、母、叔母、従姉妹達と皆でワイワイ楽しく集っていた。そして、何故か私と祖母だけで当時彼女の経営していた手芸店に2人で歩いて帰る事になった。 団地の中央に公園が有り、私は特にそこのジャンボ滑り台が大好きだった。そこを通りかかった時に沢山の鳩が餌を啄ばんでいるのを見かけ私は「鳩だ〜!!!」と叫んで走って鳩を見に行った。祖母は一言「行くよ。」と行ったのだが、私の町では見かけない色とりどりの鳩の大群に大興奮で鳩の事しか

          祖母のお灸&祖父の予言