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本がずっとあった。

こんばんわ。

お久しぶりに2つ目の記事。

本について考えるキッカケがあった。本屋大賞が今年も発表され、本屋に足を運んだ。3年位前から毎年受賞作品を買いに行くようになった。

私は本屋が好きだ。本が好きで、本の触感や匂いも好きだ。

思い返すと生まれて言葉が話せない頃から、私の側には本があった。家には昔話集や童話集、カセットテープまであった。そして幼い頃の私は、毎日、眠りにつく前に母親に本を読んでもらっていた。本当に毎日。それも数冊。母親も大変だったと思う。

中学に上がるくらいまで誕生日プレゼントは本だった。漫画以外。図書館ににあるようなハードカバーの本。伝記モノやら実際にあった話やら推薦図書。家の学習机の棚は教科書じゃなくて「本」でいっぱいになった。

漫画買っていいよと言われてからしばらくは、活字本と距離ができた。それも束の間、今度はエッセイを読み漁った。さくらももこのエッセイは記憶するまで読み返した。本といえばフィクションしか知らなかった私にとっては、新しい世界だったのだ。

結局本の虫に戻った私が次に出会ったのは。

戯曲、台本だった。

ト書きとセリフの応酬と簡単な背景。動きや機材についての指示。あとは何もない。今まで、本というのは全部書いてあったのだ。描写も主人公の思いも背景も容易に言葉から想像することが出来た。でも、台本にはそれがなかったのだ。言葉のやり取りや簡単な設定から想像して創造する。台本は読む人のためのものでなく、表現する人のためにあるのだと思う。表現する人は、それを楽しんで観てもらうために使う。読む、読み込む、そして作る。台本という本は、これまでの私の本に対する概念とはかなり違った。読んで、作って、表現するためのツール、原点だった。そんな台本とは10年以上、一緒にいた。

今、私の横にいるのは、書店で購入した本屋大賞受賞作品。様々なタイプがいたが、物心ついてから本が近くに居なかったことはない。最近じゃスマホやiPadで本が読めるようになったがどうもダメだ。私は本に触れていたいのだ。触り心地や匂いを感じながら、読みたいのだ。台本もそうだった。端末だと驚く程覚えられない。身体に入ってこないのだ。

今後ますますデジタル化が進んで、本片手に時間を潰す、なんてことも世の中からなくなってしまうかもしれない。

それでも私は、変わらず書店に足を運ぶのだろう。そして本を買い、触感と匂いを感じながら、読み耽る。

私のそばには本がずっとあった。これからも、ずっとある。

ずらっと本の並んだ棚が、愛おしく誇らしい。


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