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やさしくいてせかい

「ここどうぞ」

僕の前で座っていた彼女が席を譲ったのは、高齢者でもお腹の大きな女性でもなく、僕の隣に並んで立っていた、リクルートスーツの小さな女の子だった。

え、と僕が発する前に、え、と漏らした女の子が顔を上げる。
断られる間もなく、「座って、わたしここで降りるから」と言った彼女は、ハンドバッグを手にして立ち上がった。そこそこの人数が立つ電車の中、彼女が女の子のために隙間を作る。

僕たちの降りる予定ではなかった駅が、車内アナウンスで繰り返された。
無表情のまま降りて行く彼女の後を急いで追う。

「ちょちょちょ」

「はやく、出発しちゃう」

電車を降りるとすぐ、彼女はひとつ隣の車両に飛び乗った。

「ごめんね、せっかく座らせてくれてたのに」

「いや、それはいいけど」

不可解できょとんとしたままの僕に、彼女は少し困ったような顔でそう言った。
知り合いではなさげだったよね、どうしたの、そんなふうに話しかけようとしたけれど、彼女が口を結んでいるのを見て僕も口を閉じた。

がたんごとん。
最初に電車の揺れをそう表現したのは誰なんだろうな。おえらい文学者様なのかな。


目的の海辺についた。少し湿ったような冷たいような、特有の空気が心地よい。
季節はまだ夏ではないが、ちらほらとカップルや友達グループ、ジャージでジョギング中のおじさんたちが見受けられた。それだけのことでも、同じ海を前にしているというだけで、それも当然だよな、気持ち良いもんな、と口角が持ち上がる。

大きな空と海に向けてぐっと伸びをすると、んーっと彼女の気の抜けた声が聞こえた。同じタイミングで彼女もそうしていたらしい。

「いいなって思うの、こういうの」

海岸沿いのベンチに腰掛けて、彼女がふとそう言った。

「自然とか、空気とか。ゆっくり噛み締められるって。大事に生きてるーって感じがする」

僕はうん、とだけ返事をする。そっと脇を盗み見ると、彼女はすうと目を細めてゆっくりと海を眺めていた。

「去年の今頃、大変だったから。わたし、毎日の通勤路で桜が咲いてることにも、散り際になって初めて気付いたの」

僕は気付かれないようにゆるりと視線を戻す。

あのころの彼女はいつも泣いていた。
僕が彼女の異変に気付いて無理やりすくいあげてやれたのは、いつだって少し水が溢れてしまってからだった。彼女は感謝してくれるが、溢れる前にコップをひっくり返してやれなかったことを僕はいつも悔やむ。

常にギリギリのところで限界を行ったり来たりしていた彼女はいつもぼろぼろだった。
彼女の赤い頬も、荒れていない肌も、隈の薄くなった緩やかな目元、よく上がる口角。そういった全てを見るたび、僕はほっとする。

「今年桜が咲いてることに気付いたとき、泣きそうになったの。幸せだなって」

「うん」

「当時、コンビニで夜食を買ったんだけどさ。夜11時とかかな、もう疲労困憊よ。意味もなく泣き出しそうなくらい。味の濃そうなお弁当たちを見比べて、どれも美味しそうに見えない中からひとつ選んで、お願いしますってレジのおばさんに渡したの。それから死んだ目でカード渡して会計して、あったかいお弁当渡しながらおばさんにっこり笑ったの、『今日も一日お疲れ様でした』、って。…もう泣いちゃいそうでさ」

風が彼女の声をさらう。

穏やかな声が震えているのは、きっと海辺の強い風のせいに違いなかった。

「世界には綺麗なものもたくさんあるのに、わたしたちは忘れがちなの。世界が優しくないから」

波が音を立てる。
返事を要しない話なのは分かっていたので、また僕はうん、とだけ小さく頷いた。

「綺麗なものには気付けなくても、やさしさに触れるとはっとするの、あ、世界は捨てたもんじゃないんだなって。そうして少しずつ助け合ってかなきゃ、みんなしんどいじゃない」

小さな女の子を思い出した。リクルートスーツに身を包んだ、黒髪をひっつめた女の子。
飛び降り際にちらりとだけ確認した彼女は、また俯いて空いた席に腰掛けようとしているところだった。きゅっと結ばれた唇には、何かしらそういうものが含まれていたのだろうか。

彼女の柔らかな髪に手を伸ばす。

えらいえらい。

言わずにそっと頭を撫でると、いい匂いのするそれがそっと僕の肩に乗った。

久しぶりのその感覚が嬉しかったのか切なかったのか、なぜだか鼻の奥がつんと痛んだような気がして一度だけすんと鼻をすすった。

いつもありがとう。

小さなそれは風の囁きだろうか。ちらと彼女のつむじを見下ろすと、目が合った。にっこり微笑まれて、僕も笑う。




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ここでだけはお外に出してあげたくて。
誰かに優しくされた分を、またどこかで還元しながら生きれたらすてきですよね

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