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無職的、無目的散歩のススメ


散歩。外をだらだらと目的もなく歩くことを散歩という。基本的にお金はかからない。足が痛くならないように履く靴と、最低限通報されない程度の服があればよい。つまりは人間として基本的な装備があれば、誰でも楽しめるのが散歩のよいところ。晴れでも雨でも雪が降っても、歩く気力さえあれば実行できるのが散歩なのである。


なにを当たり前な、んなこと知っとるわい、そう憤る方もおられるかもしれない。そのお怒りはごもっとも。物心のついた方で散歩を知らない方はおそらくいらっしゃらないことだろう。ただ、私が言いたいのは、現在において純粋な「散歩」というものは以外と行われてはいないのではないか、ということだ。この純粋な散歩、というのはあくまで私が思う散歩のことであり、私が実行している散歩のことに他ならない。


私が外を歩くときはスマホを持ち歩くが、基本的に使うことはない。連絡等があればまた別だが、音楽を聴いたり、Google検索しながら歩いたり、写真を撮ったりすることもほとんどない。ただただ足を動かし、外の空気を鼻腔から吸いながら、意識を弛緩させ歩く。晴れた空に、見慣れた景色に、羽ばたく鳥に、どこかへと向かうのであろう車に思いを馳せ、適当なことを考えながら目的もなく歩く。これこそが、私の思う散歩なのである。

もちろん、同行者はいない。友達がいないからではない。恋人や結婚相手がいないからでもない。いや、いないのだが。そういうことではなく、ただ一人で、のんびりと歩を進めることを私は趣味として、心を癒す行為として楽しんでいるのである。

人は、なにも考えようとしていない、いわゆるリラックス状態において脳が活性化するという。入浴している時、シャワーを浴びている時によいアイディアが浮かびやすいのは、そうした理由であるとのこと。一生懸命に頭を捻る時間よりも、なにもしようとしていない時間の方が素敵なことが思いつく。人間の体というのは、不思議に出来ているものである。


だが、それが本当のことだとしても、なにも考えない、というのは人間においてなかなかの困難事であり、仮に解決すべき事案や立ち向かうべき事象がある場合には、無思考でいるというのはおそらく意識しても難しい。むしろ意識した時点で、無思考は無思考でなくなってしまう。瞑想が昨今ふたたび注目を集めているのは、そうした無思考状態を意識的に作り出したいという願望があるからなのでは、という感じがする。人間が人間である以上、上手い考えも下手な考えもどうしても浮かべてしまうものである。特に、仕事や家庭、人間関係などにお悩みの、現代社会に生きる方々にとっては。


そこで私は、散歩を推したい。散歩は上記のリラックス状態に入りやすいことに加え、歩くことで肉体も健康になる。疲労が少ないために、ジョギングのように三日坊主になる可能性も低い。いやまあ、無職にとっては人の目という一番の敵はあるが。それはまあ、慣れればなんということはない。慣れるまでが大変ではあるのだが。



散歩に行く時には、スマホを持っても使わない。音楽という刺激も得ない。ただただ、目の前の景色や自然に入ってくる音に耳を傾け、ボーッと歩く。一応、車や人には注意を向けながら。田舎なら、なおよい。人の視線を意識した瞬間に、無思考にはノイズが入ってしまうためだ。


考えるにしても、簡単な思考ならよい。「あの花、きれいだなー」とか「今日はポカポカしてていいなー」とか。そうした何事にも帰結しない、考えとも呼べないことを脳裏に浮かべながら、目的地も定めないままに歩む。その行為自体が頭をリラックスさせ、思わぬアイディアを生み出す。現に私も、幾度の散歩中に自宅にこもっていては思いもつかないような発想が浮かんだこと多数である。別に、使い道はないのだが。無職だし。


外の匂いを味わい、空の青さを思い、疲れた、もういいやと体がメッセージを発した段階で踵を返す。自由で無料で健康にもよい、純粋無垢な散歩という行動。みなさまも意識的に、無意識的な散歩を楽しんでみてはいかがだろうか。

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