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夫の急死、それは地獄へのほんの序章に過ぎなかった。想像を絶する『不倫の真実』との闘いが始まった。Vol.2

 夫が数年前に脳溢血で急死しました。
 そして、夫に関する驚くような出来事が次々と明らかになりました。
 その事について、これから少しずつ投稿していこうと思います。

 これからお話しする事は全て、私の身に実際に起きた事です。
 私が自分に都合の良いように解釈していることや、記憶違いや勘違いもあるかも知れませんが、全て私の中での真実です。

 同じような経験をして苦しんでいる方に読んでいただいて、少しでも与えられる物や、何かの慰めになればと思っています。
 それ以外の方にも、「愛」や「結婚」、あるいは「不倫」というものが、どういうものなのかを考える機会にしていただけたら幸いです。



 ちなみに、全体のお話を書いた書籍をAmazonで販売しております。
 全体を先に知りたいと思ってくださった方は、ぜひご覧ください。



第1章 始まり 2.臓器提供


 あくる日になった。
 夫の容態はいつ急変するか分からない状態だと言われていたが、意外と落ち着いていた。
 そこで、着替えなどを取りに一旦自宅に帰ることにした。

 義弟の妻に車で送ってもらうことになり、自宅への帰り道の途中で大きなショッピングモールの横を通り過ぎた。
 そこはこの辺りでは一番大きなショッピングモールで、大きなフードコートなどもあり、地元では休日に家族で出かける定番中の定番の場所であり、私達家族もよくそこに買い物に来ていた。
 そのショッピングモールを眺めながら、もうこの場所に三人で来ることはないのかと思うと、改めて絶望感に襲われ、涙が出た。

 自宅に到着すると、母と姉が家に居て、掃除をしてくれたり、洗濯物を洗って干してくれたりしていた。
 私は母達に促されるままに風呂に入り、ベッドで休ませてもらった。
 私が寝ている間も、母と姉と義弟の妻の3人で片付けや掃除をしてくれた。

 その間にも、病院から電話がかかってきた。
 夫の友人達が面会に来ているが会わせても良いか、という問い合わせだった。
 もし会わせたくない人がいたら教えて欲しいとも言われたが、特に無かった。

 そして、夫の両親に夫の容態が落ち着いているので、自宅に戻っていると連絡すると、病院に戻る時に一緒に連れて行って欲しいと言われた。
 義母は元々車の運転をしないし、義父はその前の年に軽い脳梗塞をして入院して以来、長距離の運転を避けていた。

 昼過ぎになり、夫の両親を迎えに行ってから、皆で病院に向かった。
 車の中は意外なほど穏やかな雰囲気だった。
 夫が仕掛かっている仕事をどうするかや、棺を運ぶ和室にエアコンを取り付けた方が良いかなどの話をした。
 こんな状況なのに、穏やかな雰囲気であるのがなんだか不思議な気がした。
 皆、まだ実感が湧いていなかったのかも知れない。

 病院に戻ると医師からまた説明があった。
 夫の容態は落ち着いていて、しばらくの間、心臓が止まる事はないが、いわゆる脳死に極めて近い状態であるらしかった。
 それから、いつまで人工呼吸器を付けているのか決めなければならないということや、臓器提供という選択肢があると言われた。

 その頃には皆、完全に夫の回復は諦めていた。奇跡は起こらなかったし、これからも起こらないのだろうということも皆が分かっていた。

 その後、皆で夫の病室に行き、夫を囲んでいる時、私は臓器提供についてどう思うか訊いた。
 私は、どのみち夫は助からないのだし、他の人を救えるのなら臓器提供をしても良いのではないかと言った。
 夫の両親は驚いたようだった。特に義母は簡単には受け入れられないようだった。

 私はハッとして、自分の意見を言う前に、もっと夫の両親の気持ちを考えるべきだったし、もっと慎重に言葉を選ぶべきだったと後悔した。
 夫の両親は夫を産み、育て、私の何倍も夫と時間を共にしてきたのだ。
もし自分の息子が将来、若くして急に死んで、嫁が臓器提供しても良いと言ったら、どんな気がするだろうと思い、申し訳ない気持ちになった。

 それに、夫が救急車で運ばれた時から今まで、どれだけ多くの人が夫を救おうと全力を尽くしてくれたことか。それをこれまで目の当たりにしてきたのだ。
 それが彼らの仕事なのだと言われれば、そうなのかも知れない。
だが、恐らく夫の脳はとっくに死んでいるのに、ここまで無事に心臓が動き続けているのには、何か意味があるのではないかと思った。

 それに、臓器提供をすれば、その時点で死亡した事になる。
 だが、そうでなければ、人工呼吸器をいつ外すかを決めたり、人工呼吸器を外した後、弱っていく夫を側で見ていなければならないはずだった。

 夫の両親が迷っていたら、義弟が言った。

「俺は良いと思うよ。実は、俺は健康保険証の裏の臓器提供の意思を表示する欄に、全て提供するように丸を付けてある」

「今の若い人達はこういう事に抵抗ないのかしらね?」

 義母がつぶやくように言った。

 そして、夫の両親は最終的には妻である私が決断しても良いと言ってくれた。
 いざと言う時はこんなふうに言ってくれるのが夫の両親だった。
 但し、義母が顔だけは手を付けないで欲しいと言うので、眼球の提供だけはしない事にした。私が義母の立場なら同じ事を言っただろう。

 その日の夕方、医師に臓器提供をしたいという意思を告げると、急に動きが慌ただしくなった。
 まずは、夫の臓器が提供できる状態なのかを詳しく検査されることになり、夫はその検査の為に度々、病室から連れて行かれた。

 夜遅くなってから医師より説明があり、夫の体は大変良好で、どの臓器も問題なく提供できる状態だと聞かされた。

 前日の夜は全く眠れなかったが、その日の夜は疲れて、夫の病室でぐっすりと眠った。

 翌朝、あるママ友が病院を訪ねてきた。

 彼女とは、子供同士が幼稚園の同じクラスで仲良くしていた。
 そして、彼女も5年ほど前に夫を心不全で急に亡くしていた。
 その後、彼女の子供達は別の保育園に移ったが、ママ友として交流はずっと続いていた。

 彼女は、夫が病院に運ばれた日の夜、他のママ友達と一緒に病院に来てくれたり、その後も私に励ましのメールをくれていた。
 そして、彼女の勤めている職場がその病院に近いから、いつでも来られるということだった。

「私に手伝えることがあったら、何でも言ってね」と彼女は言った。
彼女なら、今の私の気持ちを理解してくれているのではないかと思い、心強かった。 

 午後になると、日本臓器移植ネットワークという組織の女性二人が会いに来た。
 いかにもそういった組織に相応しい、丁寧で腰の低い人達だった。

 私は心配していた事を二人に訊いた。
 まず、臓器を取り出してしまうと、夫がどのような見た目になるかということだった。
 葬儀までの間に、息子や訪ねて来てくれた人達が、夫の姿を目にするからだ。
 夫の両親もそれをとても気にしていた。

 二人の説明によると、臓器を取り出しても臓器の上にはそもそも肋骨があるので、お腹の辺りが不自然に凹んで見えたり等の変化は、ほとんど無いということだった。
 そして、臓器を取り出すために体をなるべく良い状態で保とうとするので、むしろ通常より綺麗な状態で家に帰されるそうだ。

 それから、一度、臓器を提供する意思を示しても、臓器を取り出す直前まで、いつ気が変わって臓器提供を取りやめても構わないし、提供される相手もその事は承知しているという事だった。
 私はそれらの説明を聞いて安心した。

 だが、一方で、私は少しずつ体調を崩し始めていた。
 私は20年近く前からパニック障害を患っていた。
そのため、強い不安や責任のある立場に立たされると、めまいや吐き気などがして、その場にじっとしていられなくなるのだ。

 臓器提供の説明の途中で気分が悪くなり、話を中断してもらって、しばらく待合室のような場所のソファーで横になった。
 そして、数時間後にまた続きの説明を聞き、なんとか最後まで聞き終えると、臓器提供に承諾をするサインをした。

 その後も親戚や友人などが度々訪れていたが、私は具合が悪くて応対が出来ず、病院のスタッフが来客に対応してくれた。
 そのスタッフ達の勧めもあり、その夜、私は病院には泊まらず、近くのビジネスホテルに部屋を取った。

 ホテルの部屋に入ってからも、臓器移植ネットワークから電話が入ったり、母や義母に状況を伝えるために電話をしたりと忙しく、夜十時過ぎまで夕食をとる時間も無かった。
 全く食欲が無かったが、近くのコンビニに行き、カレーを買ってきて食べた。
 こういう時はカレーがするすると喉を通りやすいことが分かった。

 翌朝、チェックアウトして病院に戻ろうとしたが、強い吐き気やめまいに襲われた。

——  まずい。とうとう始まってしまった……

 怒涛のようなパニック発作がついに始まってしまったのだ。
こうなってしまうと、もうどうにも体が言うことをきかなかった。
 病院に戻らなければと焦れば焦るほど、体が震え、目の前が霞んできた。
 こうなってしまったら自宅に戻るしかなかった。

 泣きながら姉に電話をして、迎えに来てもらうことにした。
 病院にも電話をすると、夫の容態は安定しているし、その日は病状の説明などの予定は無いから、病院に戻らなくても良いと言ってくれた。

 家に帰ると、居間のウォークインクローゼットの隅に、夫のパジャマが転がっていた。
 その夫の匂いが染み付いたパジャマの匂いを嗅いで、抱きしめ、涙を流しながら、ソファーでしばらく横になった。

 しばらくして、姉に送られて息子が家に戻ってきた。
息子は夫が倒れた日からずっと姉夫婦の家に泊まっていたが、私が家に帰って来ていることを知って、家に帰りたいと言ったそうだ。

 その夜は久しぶりに息子と一緒に寝た。
 息子は『やっぱりママと寝るのが良いよ』と言ってしがみついてきた。
 私は久しぶりに息子の匂いを嗅いで、気分が落ち着いた。
 やはり、臓器提供をして、少しでも早く家に戻り、息子と一緒に居なければと思った。

 翌朝、夫の両親と共に病院に行った。
その日は一回目の脳死判定が行われる日だった。
 脳死判定とは、臓器提供に先立ち、脳波等を検査して脳が回復不能だと判断されることである。
 二度の脳死判定をして、完全に脳が死んでいると判断されてから、臓器摘出手術が行われる。

 それと同時に、臓器移植ネットワークの方で、臓器を受け入れる患者とのマッチングも進んでいた。
 提供する相手についての詳しいことはもちろん知らされないが、何十代の男性か女性かだけは最終的に知る事ができた。

 臓器提供が決まった途端、動きが随分と早いように思えるが、いつ夫の容態が急変するか分からないので、早い方が良いに決まっていた。

 臓器提供をする事が決まってしまえば私も早く無事に済んで欲しかったし、私と居たがっている息子をこれ以上待たせたくなかったので、着々と事を進めてくれて構わないと関係者達に言ってあった。

 最終的に、心臓、肺、左右の肝臓、膵臓、腎臓が移植されることになった。
 事前に手渡された資料によると、それぞれの臓器は病院からタクシーで駅に向かい、新幹線で運ばれるか、空港から定期便で運ばれる。
 だが、心臓だけは救急車で空港まで行き、チャーター機で運ばれる予定だった。
 それだけ心臓の場合は急を要するのだろう。

 ネットで検索してみたら、臓器摘出から移植を完了するのに許される時間は、心臓が四時間、肺が八時間、肝臓が12時間、膵臓や腎臓が24時間だそうだ。
 そして、他の臓器は心停止していても臓器提供が可能だが、心臓だけはいわゆる脳死状態でないと提供が出来ないという。
 ちなみに、飛行場で心臓が飛び立つところを見送るサービスもあると言われたが、希望しなかった。

 二回目の脳死判定は翌日の朝に行われ、完全な脳死状態だと判断されれば、その日のうちに臓器摘出手術が行われる予定になっていた。

 その頃になると、私のパニック障害の症状はどんどん悪くなっていた。
 臓器提供の前の最後の夜を、病室で夫と一緒に過ごすべきだったのかも知れないが、それも出来なかった。

 翌日も具合が悪くて、私は病院に行くことが出来なかった。
 臓器摘出手術に立ち会う事や、多くの人に囲まれる夫の通夜や葬儀の事を考えるだけで、激しいめまいや吐き気がした。
 それは、パニック障害の症状の一つの『予期不安』というもので、これから予定している事に不安を感じるだけでパニック発作が現れるというものだった。

 結局、臓器摘出手術には夫の両親と私の母、それから義弟夫婦が立ち会ってくれた。

 私のパニック障害は、30歳頃に始まった。

 私は当時、ハローワークの職業訓練を利用してCAD(キャド)を学んでいた。
 CADとは、コンピューターで建築物等の設計図を書くことである。
 私は手に職をつけて就職するために、新しく開講されたばかりのその職業訓練に興味を持ち、学校で学んでいた。

 ある日、その授業中に突然、とてつもない寒気がした。
 そして、目の前が真っ白になり、一瞬、意識を失ってその場に倒れ、胃の中の物を大量に吐いてしまった。
 私はすぐにその学校の中にある救護室のベッドに運ばれたが、その後も激しい目眩や吐き気に襲われ、何時間も起き上がることが出来なかった。

 翌日、近くのクリニックを受診したが、これといって問題は見つからなかった。
 医師には『たまたま体調を崩したのでしょう』と言われ、点滴をされただけだった。

 その学校を一週間ほど休み、また授業を受け始めた。
 だが、『また具合が悪くなって、大勢の前で吐いて迷惑をかけたらどうしよう』と思ったら、本当にまた具合が悪くなり、すぐに帰宅した。
 だが、帰宅するとすぐに具合が良くなった。いや、帰宅しようとするだけで具合が良くなった。
 それ以来、学校に行くとあっと言う間に具合が悪くなり、帰宅するということを繰り返し、その職業訓練は辞めざるを得なかった。

 最初は外に出ると具合が悪くなり、自宅に戻ると具合が良くなったので、精神的なものだけが影響しているのだと思っていたが、次第に家にいても具合が悪くなるようになってきた。

 ある時は、夕食を食べようとした途端に具合が悪くなり、激しい吐き気に襲われた。
 またある時は、ベッドに入り寝ようとした時、全身を虫が這うような激しい寒気が襲い、起き上がった途端、目の前が真っ白になって一瞬気を失った。
 一度具合が悪くなると、何時間も激しい吐き気やめまいに襲われた。

 それ以来、不安でほとんど家から出る事が出来なくなった。
 実際に外出すると、ほぼ毎回具合が悪くなり、すぐに家に戻るということが続いた。

 そんな中で、なんとか這うようにして、いくつかの大きな病院に行って診てもらい、MRIやCTなどを撮って多額のお金を支払ったが、原因は分からなかった。
 当時、パニック障害は今ほど知られていなかったせいか、自立神経失調症ではないかと言われた。

 地獄のような日々が続いたが、数ヶ月経つうち、具合が悪くなる頻度が徐々に少なくなり、少しずつ日常を取り戻していった。
 だが、完全にパニック発作が出なくなるわけではなかった。
 最初のうちはまだ楽観的に考えていた。
 一時的なもので、しばらくすればいつの間にか治ってしまうのではないかと考えていた。
 だが、20年以上経った今も完治していない。   

 今まで色々な事を諦めてきたし、限られた生活をしてきた。
だが、自分はそれほど不幸だとは思っていなかった。
 実家の飲食店で働き、地元をウロウロしている限り、大きな支障は無く生活することが出来た。そして何よりも、夫に出会い、幸せな結婚をして、子供にも恵まれたと思っていた。

 あくる日になった。
 夫の容態はいつ急変するか分からない状態だと言われていたが、意外と落ち着いていた。
 そこで、着替えなどを取りに一旦自宅に帰ることにした。 義弟の妻に車で送ってもらうことになり、自宅への帰り道の途中で大きなショッピングモールの横を通り過ぎた。
 そこはこの辺りでは一番大きなショッピングモールで、大きなフードコートなどもあり、地元では休日に家族で出かける定番中の定番の場所であり、私達家族もよくそこに買い物に来ていた。
 そのショッピングモールを眺めながら、もうこの場所に三人で来ることはないのかと思うと、改めて絶望感に襲われ、涙が出た。

 自宅に到着すると、母と姉が家に居て、掃除をしてくれたり、洗濯物を洗って干してくれたりしていた。
 私は母達に促されるままに風呂に入り、ベッドで休ませてもらった。
 私が寝ている間も、母と姉と義弟の妻の三人で片付けや掃除をしてくれた。

 その間にも、病院から電話がかかってきた。
 夫の友人達が面会に来ているが会わせても良いか、という問い合わせだった。
 もし会わせたくない人がいたら教えて欲しいとも言われたが、特に無かった。

 そして、夫の両親に夫の容態が落ち着いているので、自宅に戻っていると連絡すると、病院に戻る時に一緒に連れて行って欲しいと言われた。
 義母は元々車の運転をしないし、義父はその前の年に軽い脳梗塞をして入院して以来、長距離の運転を避けていた。

 昼過ぎになり、夫の両親を迎えに行ってから、皆で病院に向かった。
 車の中は意外なほど穏やかな雰囲気だった。
 夫が仕掛かっている仕事をどうするかや、棺を運ぶ和室にエアコンを取り付けた方が良いかなどの話をした。
 こんな状況なのに、穏やかな雰囲気であるのがなんだか不思議な気がした。
 皆、まだ実感が湧いていなかったのかも知れない。

 病院に戻ると医師からまた説明があった。
 夫の容態は落ち着いていて、しばらくの間、心臓が止まる事はないが、いわゆる脳死に極めて近い状態であるらしかった。
 それから、いつまで人工呼吸器を付けているのか決めなければならないということや、臓器提供という選択肢があると言われた。

 その頃には皆、完全に夫の回復は諦めていた。奇跡は起こらなかったし、これからも起こらないのだろうということも皆が分かっていた。

 その後、皆で夫の病室に行き、夫を囲んでいる時、私は臓器提供についてどう思うか訊いた。
 私は、どのみち夫は助からないのだし、他の人を救えるのなら臓器提供をしても良いのではないかと言った。
 夫の両親は驚いたようだった。特に義母は簡単には受け入れられないようだった。

 私はハッとして、自分の意見を言う前に、もっと夫の両親の気持ちを考えるべきだったし、もっと慎重に言葉を選ぶべきだったと後悔した。
 夫の両親は夫を産み、育て、私の何倍も夫と時間を共にしてきたのだ。
もし自分の息子が将来、若くして急に死んで、嫁が臓器提供しても良いと言ったら、どんな気がするだろうと思い、申し訳ない気持ちになった。

 それでも、私は臓器提供のことを前向きに考えていた。
 こんなに夫を失くすのが辛いのだから、他の人だって死にたくない、あるいは家族を失いたくないと思っているに違いない。臓器提供で救えるならいいじゃないかと思った。

 それに、夫が救急車で運ばれた時から今まで、どれだけ多くの人が夫を救おうと全力を尽くしてくれたことか。それをこれまで目の当たりにしてきたのだ。
 それが彼らの仕事なのだと言われれば、そうなのかも知れない。
 だが、恐らく夫の脳はとっくに死んでいるのに、ここまで無事に心臓が動き続けているのには、何か意味があるのではないかと思った。

 それに、臓器提供をすれば、その時点で死亡した事になる。
 だが、そうでなければ、人工呼吸器をいつ外すかを決めたり、人工呼吸器を外した後、弱っていく夫を側で見ていなければならないはずだった。

 夫の両親が迷っていたら、義弟が言った。

「俺は良いと思うよ。実は、俺は健康保険証の裏の臓器提供の意思を表示する欄に、全て提供するように丸を付けてある」

「今の若い人達はこういう事に抵抗ないのかしらね?」

 義母がつぶやくように言った。

 そして、夫の両親は最終的には妻である私が決断しても良いと言ってくれた。
 いざと言う時はこんなふうに言ってくれるのが夫の両親だった。
 但し、義母が顔だけは手を付けないで欲しいと言うので、眼球の提供だけはしない事にした。私が義母の立場なら同じ事を言っただろう。

 その日の夕方、医師に臓器提供をしたいという意思を告げると、急に動きが慌ただしくなった。
 まずは、夫の臓器が提供できる状態なのかを詳しく検査されることになり、夫はその検査の為に度々、病室から連れて行かれた。

 夜遅くなってから医師より説明があり、夫の体は大変良好で、どの臓器も問題なく提供できる状態だと聞かされた。

 前日の夜は全く眠れなかったが、その日の夜は疲れて、夫の病室でぐっすりと眠った。

 翌朝、あるママ友が病院を訪ねてきた。

 彼女とは、子供同士が幼稚園の同じクラスで仲良くしていた。
 そして、彼女も五年ほど前に夫を心不全で急に亡くしていた。
 その後、彼女の子供達は別の保育園に移ったが、ママ友として交流はずっと続いていた。

 彼女は、夫が病院に運ばれた日の夜、他のママ友達と一緒に病院に来てくれたり、その後も私に励ましのメールをくれていた。
 そして、彼女の勤めている職場がその病院に近いから、いつでも来られるということだった。

「私に手伝えることがあったら、何でも言ってね」と彼女は言った。
 彼女なら、今の私の気持ちを理解してくれているのではないかと思い、心強かった。 

 午後になると、日本臓器移植ネットワークという組織の女性二人が会いに来た。
 いかにもそういった組織に相応しい、丁寧で腰の低い人達だった。

 私は心配していた事を二人に訊いた。
 まず、臓器を取り出してしまうと、夫がどのような見た目になるかということだった。
 葬儀までの間に、息子や訪ねて来てくれた人達が、夫の姿を目にするからだ。
 夫の両親もそれをとても気にしていた。

 二人の説明によると、臓器を取り出しても臓器の上にはそもそも肋骨があるので、お腹の辺りが不自然に凹んで見えたり等の変化は、ほとんど無いということだった。
 そして、臓器を取り出すために体をなるべく良い状態で保とうとするので、むしろ通常より綺麗な状態で家に帰されるそうだ。

 それから、一度、臓器を提供する意思を示しても、臓器を取り出す直前まで、いつ気が変わって臓器提供を取りやめても構わないし、提供される相手もその事は承知しているという事だった。
 私はそれらの説明を聞いて安心した。

 だが、一方で、私は少しずつ体調を崩し始めていた。
 私は二十年近く前からパニック障害を患っていた。
 そのため、強い不安や責任のある立場に立たされると、めまいや吐き気などがして、その場にじっとしていられなくなるのだ。

 臓器提供の説明の途中で気分が悪くなり、話を中断してもらって、しばらく待合室のような場所のソファーで横になった。
 そして、数時間後にまた続きの説明を聞き、なんとか最後まで聞き終えると、臓器提供に承諾をするサインをした。

 その後も親戚や友人などが度々訪れていたが、私は具合が悪くて応対が出来ず、病院のスタッフが来客に対応してくれた。
 そのスタッフ達の勧めもあり、その夜、私は病院には泊まらず、近くのビジネスホテルに部屋を取った。

 ホテルの部屋に入ってからも、臓器移植ネットワークから電話が入ったり、母や義母に状況を伝えるために電話をしたりと忙しく、夜十時過ぎまで夕食をとる時間も無かった。
 全く食欲が無かったが、近くのコンビニに行き、カレーを買ってきて食べた。
 こういう時はカレーがするすると喉を通りやすいことが分かった。

 翌朝、チェックアウトして病院に戻ろうとしたが、強い吐き気やめまいに襲われた。

——  まずい。とうとう始まってしまった……

 怒涛のようなパニック発作がついに始まってしまったのだ。
こうなってしまうと、もうどうにも体が言うことをきかなかった。
 病院に戻らなければと焦れば焦るほど、体が震え、目の前が霞んできた。
 こうなってしまったら自宅に戻るしかなかった。

 泣きながら姉に電話をして、迎えに来てもらうことにした。
 病院にも電話をすると、夫の容態は安定しているし、その日は病状の説明などの予定は無いから、病院に戻らなくても良いと言ってくれた。

 家に帰ると、居間のウォークインクローゼットの隅に、夫のパジャマが転がっていた。
 その夫の匂いが染み付いたパジャマの匂いを嗅いで、抱きしめ、涙を流しながら、ソファーでしばらく横になった。

 しばらくして、姉に送られて息子が家に戻ってきた。
 息子は夫が倒れた日からずっと姉夫婦の家に泊まっていたが、私が家に帰って来ていることを知って、家に帰りたいと言ったそうだ。

 その夜は久しぶりに息子と一緒に寝た。
 息子は『やっぱりママと寝るのが良いよ』と言ってしがみついてきた。
 私は久しぶりに息子の匂いを嗅いで、気分が落ち着いた。
 やはり、臓器提供をして、少しでも早く家に戻り、息子と一緒に居なければと思った。

 翌朝、夫の両親と共に病院に行った。
その日は一回目の脳死判定が行われる日だった。
 脳死判定とは、臓器提供に先立ち、脳波等を検査して脳が回復不能だと判断されることである。
 二度の脳死判定をして、完全に脳が死んでいると判断されてから、臓器摘出手術が行われる。

 それと同時に、臓器移植ネットワークの方で、臓器を受け入れる患者とのマッチングも進んでいた。
 提供する相手についての詳しいことはもちろん知らされないが、何十代の男性か女性かだけは最終的に知る事ができた。

 臓器提供が決まった途端、動きが随分と早いように思えるが、いつ夫の容態が急変するか分からないので、早い方が良いに決まっていた。

 臓器提供をする事が決まってしまえば私も早く無事に済んで欲しかったし、私と居たがっている息子をこれ以上待たせたくなかったので、着々と事を進めてくれて構わないと関係者達に言ってあった。

 最終的に、心臓、肺、左右の肝臓、膵臓、腎臓が移植されることになった。
 事前に手渡された資料によると、それぞれの臓器は病院からタクシーで駅に向かい、新幹線で運ばれるか、空港から定期便で運ばれる。
だが、心臓だけは救急車で空港まで行き、チャーター機で運ばれる予定だった。
 それだけ心臓の場合は急を要するのだろう。

 ネットで検索してみたら、臓器摘出から移植を完了するのに許される時間は、心臓が四時間、肺が八時間、肝臓が十二時間、膵臓や腎臓が二十四時間だそうだ。
 そして、他の臓器は心停止していても臓器提供が可能だが、心臓だけはいわゆる脳死状態でないと提供が出来ないという。
 ちなみに、飛行場で心臓が飛び立つところを見送るサービスもあると言われたが、希望しなかった。

 二回目の脳死判定は翌日の朝に行われ、完全な脳死状態だと判断されれば、その日のうちに臓器摘出手術が行われる予定になっていた。

 その頃になると、私のパニック障害の症状はどんどん悪くなっていた。
 臓器提供の前の最後の夜を、病室で夫と一緒に過ごすべきだったのかも知れないが、それも出来なかった。

 翌日も具合が悪くて、私は病院に行くことが出来なかった。
 臓器摘出手術に立ち会う事や、多くの人に囲まれる夫の通夜や葬儀の事を考えるだけで、激しいめまいや吐き気がした。
 それは、パニック障害の症状の一つの『予期不安』というもので、これから予定している事に不安を感じるだけでパニック発作が現れるというものだった。

 結局、臓器摘出手術には夫の両親と私の母、それから義弟夫婦が立ち会ってくれた。

 私のパニック障害は、三十歳頃に始まった。

 私は当時、ハローワークの職業訓練を利用してCAD(キャド)を学んでいた。
 CADとは、コンピューターで建築物等の設計図を書くことである。
 私は手に職をつけて就職するために、新しく開講されたばかりのその職業訓練に興味を持ち、学校で学んでいた。

 ある日、その授業中に突然、とてつもない寒気がした。
そして、目の前が真っ白になり、一瞬、意識を失ってその場に倒れ、胃の中の物を大量に吐いてしまった。
 私はすぐにその学校の中にある救護室のベッドに運ばれたが、その後も激しい目眩や吐き気に襲われ、何時間も起き上がることが出来なかった。

 翌日、近くのクリニックを受診したが、これといって問題は見つからなかった。
 医師には『たまたま体調を崩したのでしょう』と言われ、点滴をされただけだった。

 その学校を一週間ほど休み、また授業を受け始めた。
だが、『また具合が悪くなって、大勢の前で吐いて迷惑をかけたらどうしよう』と思ったら、本当にまた具合が悪くなり、すぐに帰宅した。
 だが、帰宅するとすぐに具合が良くなった。いや、帰宅しようとするだけで具合が良くなった。
 それ以来、学校に行くとあっと言う間に具合が悪くなり、帰宅するということを繰り返し、その職業訓練は辞めざるを得なかった。

 最初は外に出ると具合が悪くなり、自宅に戻ると具合が良くなったので、精神的なものだけが影響しているのだと思っていたが、次第に家にいても具合が悪くなるようになってきた。

 ある時は、夕食を食べようとした途端に具合が悪くなり、激しい吐き気に襲われた。
 またある時は、ベッドに入り寝ようとした時、全身を虫が這うような激しい寒気が襲い、起き上がった途端、目の前が真っ白になって一瞬気を失った。
 一度具合が悪くなると、何時間も激しい吐き気やめまいに襲われた。

 それ以来、不安でほとんど家から出る事が出来なくなった。
 実際に外出すると、ほぼ毎回具合が悪くなり、すぐに家に戻るということが続いた。

 そんな中で、なんとか這うようにして、いくつかの大きな病院に行って診てもらい、MRIやCTなどを撮って多額のお金を支払ったが、原因は分からなかった。
 当時、パニック障害は今ほど知られていなかったせいか、自立神経失調症ではないかと言われた。

 地獄のような日々が続いたが、数ヶ月経つうち、具合が悪くなる頻度が徐々に少なくなり、少しずつ日常を取り戻していった。
 だが、完全にパニック発作が出なくなるわけではなかった。
 最初のうちはまだ楽観的に考えていた。
 一時的なもので、しばらくすればいつの間にか治ってしまうのではないかと考えていた。
 だが、二十年以上経った今も完治していない。   

 今まで色々な事を諦めてきたし、限られた生活をしてきた。
 だが、自分はそれほど不幸だとは思っていなかった。
 実家の飲食店で働き、地元をウロウロしている限り、大きな支障は無く生活することが出来た。そして何よりも、夫に出会い、幸せな結婚をして、子供にも恵まれたと思っていた。


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主な登場人物

(年齢等は2019年6月時点)

・N子(主人公であり、著者) 
 47歳の主婦。結婚15年目。
 実家が営む日本料理店でパートタイマーとして働く。
 背が高く、ツンとすましているように見られがちだが、おしゃべりでおっちょこちょい。
 20年近くパニック障害を患っているが、理解ある夫と可愛い息子に囲まれ、念願の一軒家にも住み、悪くない人生を送っていると思っている。

・K男
 N子の夫。N子より三歳年下の44歳。
 父親が経営する塗装業の会社に勤務。離婚歴があり、前妻との間に娘がいる。
 背が低く、ぽっちゃり型。細いタレ目でいつもメガネをかけている。
 街づくりに積極的に参加し、器用で知恵や行動力もあり、人に頼られると張り切る性格。 

・A子
 N子のママ友。 五年前に夫を心不全で亡くす。
 中肉中背。美人ではないが、女子力が高く、色気があるタイプ。
 夫を亡くして他の保育園に移った後も、N子を含むママ友達と交流が続く。
 2年前に50キロほど離れた自分の地元に引っ越す。

・S子
 N子のママ友であるとともに、N子の息子が通った幼稚園の副園長。
 小柄で細身だが、丸顔で、笑うと両頬に出るえくぼが可愛い。
 N子とは、小学校でも息子同士が同じクラスで、関係が深く、仲が良い。

・S子の夫
 婿養子。寺の副住職。背が高く体重もあり、体格が良い。
 K男に家のリフォームを頼むなど、N子やK男と家族ぐるみで仲が良い。


登場人物相関図

(年齢等は2019年6月時点)

相関図(note)


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