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のんびり風子×カメラ軸=父との思い出


note初心者ののんびり風子です。
何かを書こうとパソコンに向かうけどいつも挫折。
始めたばかりでつながっている人も少ないわけで、どんどん書いていけばいいじゃないか!
ということで、今日は「カメラ」を軸に自分を振り返ります。

おぎゃーと生まれたときから、カメラが身近にあった普通女子のカメラ遍歴。なんとなく時代の流れを一緒に感じていただければ幸いです。

撮影歴は50年!?

私は1965年長女として生まれ、弟が生まれるまでの6年間は一人っ子。いつも父の子分として遊びにつきあわされた。父は「女は女らしく」なんていう考えは毛頭なく、いい遊び相手ができたと単純に喜んでいたようだ。
初めてカメラを手にして撮影したのは幼稚園のとき。おそらく4〜5歳くらいで、つまり、50年ちょい昔・・・。え、古っ!自分でもびっくりする(笑)。
しかし、歴が長いから上手いかというとそれはまた別。あくまでも私は好きだから撮っているだけである。どうぞ誤解なきように・・・

デビューはハーフサイズカメラ

父はいろいろなカメラを持っていた。当時はハーフサイズカメラ、オリンパスのPENをメインに使っていたようだ。
景色の記憶から幼稚園だったのは間違いない。散歩の途中にカメラを渡されシャッターの押し方を教わった。

それが私の記念すべき撮影デビュー。
白黒フィルムで天気や時間にあわせて父が露出などを設定する。わたしは、ファインダーを覗いてシャッターを押すだけだ。
何度か経験して慣れてくると、あっちに行け、こっちに行けと父に指図しながら、覗き窓のちょうどいい位置に父を収めるのが楽しくなった。
その頃はゲーム機なんかなかったので、面白い遊びのひとつだと思っていたのかも。
遊びは遊びでも、大人が使う機器を触らせてもらう、ただそれだけで大人の仲間入りをした気がして、その瞬間が好きだった。

何週間かすると、現像に出して紙に焼かれた写真が戻ってくる。
それを並べたりアルバムに貼ったりするのが楽しかった。
出かける時は必ずカメラを持っていく父。
毎回、1〜2枚は撮らせてもらっていたと思う。
なので、作品の良し悪しは別として、撮影歴にはカウントできるのかなと思っている。

8mmは編集が楽しかった

小学校時代の思い出は8mmの動画が撮れるカメラ。
新しもの好きの父はちゃんと8mmカメラをゲットしていた。聞けばコニカ8とフジカシングルの2台持ち。私の記憶はフジカシングルのシルエットだ。

できあがったフィルムを手回しのモニタでチェクして、切って貼ってまたチェックして・・・。モニタをみながら作業する父の横で絵が動くのを見るのが楽しかった。

フィルムをつなぐ手伝いをするのも工作感覚で好きだった。トリミング作業の後にでるフィルムの切れ端をいっぱい集めて、つないだら映画みたいになってすごくワクワクしたのを覚えている。
モニタは手動なので、ふざけて逆回しにしたり、早回しやスローモーションにしたり、アテレコでセリフをいったり、叫んだりすればコメディ映画風。毎回大笑いだった。

もちろん、映写機での上映も楽しみだ。身近な人が大写しになって動くのだからエキサイティング。日曜日の夕食後、家族みんなでちょっと前のことを懐かしんだりしたものだ。

ピンホールカメラとか、日光写真とか・・・

小学校時代はピンホールカメラ(針穴写真機)や日光写真などでも遊んだ。
「ピンホールカメラはカメラの原点だ!」と、この話になると妙に熱くなる父。必ず、イラストつきでカメラの仕組みについて解説を始める。何度も同じ話で、これだけは退屈だった。ごめん(笑)。
ピンホールカメラはすごい機械だとおもっていたら、うちのは父のオリジナルで一眼レフのボディを使って手作りしたそうな。

日光写真は雑誌の付録にたまについてくるのが楽しみだった。自分で下絵を描いて、感光紙にのっけて太陽にかざす。自分の絵が写しとられる不思議なメカニズムに大興奮。だからといって、何かの役に立つというものでもないが、とにかく楽しかった。いつのまにか写真と名のつくものには興味を持つようになっていったんだなと思う。

オートフォーカスの小型カメラ登場

小学校の高学年の頃だろうか。その次に我が家にやってきたのは通称バカ○ョンカメラ。
今では差別的な語を含むので使えない愛称だが当時は普通に口にしていた。オートフォーカスのコンパクトカメラでジャスピンコニカとか面白い呼び方をしていた。カメラを選ぶのは父だったが、何台くらい買い替えただろうか・・・。一番長く付き合ったんじゃないかと思う。
これで一気に難易度が下がって、撮影する枚数も増えた。父からの受け売りで「ISO感度は400がいいよね」なんて、いっちょ前に口走る生意気女子になっていた。
一方、父は押し入れに暗室を作って白黒写真の現像に凝っていた。現像液に印画紙を浸すと徐々に絵が浮き上がってくる。それは、ただひたすらに神秘的だった。エアコンなんてものはなかったので夏は汗だく。たいへんだったけれど、今となってはいい思い出だ。

どこかにでかけるときは、私もカメラを持って歩いた。集合写真をとるときはいつも積極的に撮影係に立候補。自分が集合写真の輪の中に入ることにはあまり興味がなかったので、自分の姿が入っている写真は少ない。

下の写真は1979年、中学校の遠足。クラスの集合写真を撮っているところを友人がパチリ。

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使い捨てカメラなんてのもあった

20代、1986年「写ルンです」登場。これもよく使った。なにせ軽いのがいい。
駅のキオスクなんかにもぶらさがっていて、ここぞというときに気軽に買えたのもよかった。
種類は減ったが今もちゃんと売っている。デジカメとは違う風合いが、むしろ新鮮で今の人たちに受けているのかも。私にとってはただ懐かしいものだけど。
予備カメラとして旅行カバンに忍ばせたるのはもちろん、ボディボードにはまっていたので、腕につける透明プラスチックのハウジングを買って海の上で撮ったりして遊んだ。
後に防水バージョンも出てシュノーケリングでも大いに活躍した。

とうとう一眼レフを入手

二眼レフからトイカメラまで、小さな頃から父のカメラコレクションを見てきた。
大人になったら自分もカメラを持つんだろうなと漠然と考えていたが、とうとうチャンス到来!
職場の先輩がカメラを買い替えるので安く譲ってくれるという。
就職して2年目、24歳の夏のことだ。私の全ボーナスと引き換えにミノルタのα7700がやってきた。
本当に嬉しくて休日はいつも持って歩いていた。デジカメに凌駕されるまで10年以上は使ったんじゃないかな? 

新婚旅行はニューカレドニア。ここぞとばかりにポジフィルムを入れて持って行ったし、冒頭の自撮り写真はキャンピングカーが嬉しくて撮りまくった。出版社に転職した頃も取材に自分のカメラを持ってでかけた。腕前は別として、自分のカメラはやっぱり使いやすい。

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21世紀はデジカメ

21世紀なんて大げさだけど、当時は20世紀から21世紀に移り変わるというのはなんとなくワクワクしたものだ。
デジカメが定着しつつあるころ、私はデジカメ初号機としてオリンパスのC-4040ZOOMというのに飛びついた。「明るいF1.8の大口径光学式3倍ズームレンズを搭載」というのがよかった。
その頃からレシピサイトで自分の料理写真とレシピを披露するようになっていたので写りのいいカメラが欲しかった。これも結構愛用した。
その後、私の小さな手に収まる軽量コンパクトなカメラが欲しくなり、キヤノンのIXYシリーズへ。2代目を使っている頃、新たな刺客が現れた・・・。

ついにiPhone

デジタル時代はフルスロットル。スマートフォンもどんどん進化。
iPhoneについているカメラが意外にも使い勝手がよく、いつの間にかコンデジから卒業。とにかく荷物を減らしたい性格なので、機能のかぶるものはどんどん削っていきたいというのがその理由。
私は2010年発売のiPhone4から使い始めて、今はiPhone11。iPhoneカメラ歴もかれこれ10年以上。
動画も撮れるし、下手すると印刷原稿にも使えてしまうというハイスペックだが、SNSへの投稿がメインとなった自分には十分な機能で満足している。
一番多いのはレシピサイト用の料理写真だろうか。

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旅先でも大活躍。

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いいなと思ったらすぐに撮れるのがスマホのいいところ。写真は夏の千畳敷カール。

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コンデジ以上に気軽に撮影できるので、データの管理に苦戦する。撮りすぎ注意とわかっているけど、楽しくてついシャッターを切ってしまう。撮影時の設定の手間は少ないが、逆に色調の補正などに手間暇かけていくといい作品ができそうだ。

未知の世界、アクションカメラ

カメラとつきあい始めてから半世紀、今は動画の時代になった。子どもの憧れの職業はYouTuberなんていわれたりもしているほどに、みんなが気軽に動画を撮影してSNSでシェアできるようになった。
こうなってくると、父から譲り受けた新しもの好きの血が騒ぎだし、昨年2020年、とうとうアクションカメラ「GoPro Hero9」に手を出した。
基本は動画の撮影になるので勝手が違い四苦八苦。しかし、これまでになかったような構図で撮れたり、気軽に水中で撮影できたりして面白い。編集もiMovieやGoPro Quickなどで簡単にまとめられるので、後は場数を踏んで慣れていくしかない。いずれかっこいいVlogが作れたらいいなと思っている。

初GoProでキャンプにでかけ手探りでまとめた動画。GoProのアプリに放り込むとそれらしい編集とBGMが挿入できる。アプリでざっくり作ってから、シーンのチェックと調整をして作り込んでいくのが私のやり方。


風子とかけてカメラと解く、その心は?

この記事のタイトルは最終的には「のんびり風子×カメラ軸=父との思い出」とした。書き始めたときは「のんびり風子×カメラ軸=キレイのコレクション」などと、ずいぶん背伸びをしてみたのだが方向性が大きくずれてこの結果。

目に見えたものが別の媒体に写しとられる。それが、面白かったんだと思う。小さな頃からファインダーをのぞき続けて、いろいろなシーンを気ままに切り取ってきた。風景、動物、人物、料理・・・とさまざまだが、目で見て「キレイ」と感じたものは「残したい」と思う。

SNSなどに投稿するのは、その写真を見て、もしひとりでも同じように癒されたり、共感してもらえたら嬉しいからだ。いろいろな意味でこれからも腕を上げていきたいと思うし、いろいろなカメラを触ってみたいなと思っている。

なんて、かっこいいことをいってみたが自分のカメラ歴を振り返ってみれば父との思い出がいっぱい詰まっていたことに気づいた。カメラの楽しみを教えてくれたのは父に他ならない。

今回noteを書くにあたり、父と久々にカメラのことを話した。父は自分の得意だったことを聞かれて喜んでいた。そしていろいろなことを思い出して楽しかったと言っているので親孝行もできたようだ。

父には話をきかせてもらったお礼に「箱カメラ組み立てキット」という青写真がとれる子供向けのキットを送ってみた。どんな風に遊んだか、次の長話が楽しみだ。

余話:カメラ遺伝子

自分は父からの影響で写真が好きになったと思っていたが、どうやら私の祖父も新しもの好きでカメラが好きだったことがわかり、血筋なんだなと妙に納得した。

祖父は昭和初期のころからカメラを持っていた。
仕事でアメリカ出張する際は16mmで動画を撮影していたらしい。しかもカラーで。
ナイアガラの滝の観光の様子や謎の美女が映っていて記憶に残ったと父は語った。

しかし、それ等は戦争ですべて焼けた。焼け跡に、溶けて流れ出たレンズが綺麗な宝石の様のようだったと父は言った。
これは見た人にしか語れない、美しいけど切ない描写だ。そして「悲しかった」とつけ足した。

軽いのりノリでカメラの話を聞き始めたが、最後の話が心に刺さった。
忘れないために余話として文字に残しておく。

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