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妄想

突拍子のないことで、急に不安になりました。

「もし、目が見えなくなってしまったらどうしよう」

でも、自分のなかでは、突然、どうしてこんな心配ごとが出てきてしまったのか、の経緯はある程度は分かっています。

最近は、自分を癒す術(自分の気持ちを安心させる術)を、視覚情報に求めるようになっているからだと思います。

将来、とっても不安なんです。

自分の能力を活かして、社会の役に立たなければ、という、プレッシャーが拭えない。

社会の役にたつべしという言葉は、とある一部の界隈の言葉でしかなくて、

別の界隈を見てみると、自分を大切にすることを優先しているところもある、ということも知っています。

けれど、自分で自分に、プレッシャーをどうしても、かけてしまう。

しかし、一つ、社会の役に立てなくても、大丈夫だと、自分で納得できる考え方を見つけました。

それは、野生動物の生き方をのぞいてみることです。

たとえば、森の中で生きるキツネ。

キツネは、子供のころは、母親から、たっぷりの愛情のもとで、ぬくぬくと、安心感のなか育っていきます。

しかし、親離れの時期になると、優しかったお母さんが、急に、凶変して、子どもを巣穴から追い出すようになる。

こぎつねは、半ば強制的に、突然、自力で、食を調達しなければならなくなります。

生き残ることのできるキツネは、とっても少ないそうです。

自然界は、本当に厳しい、とキツネの生き方を見て、痛感するのですが、

今、注目したい点は、そこではなく、

もし仮に、自分が、自力で食糧を調達できたとして、たとえば、農業でも、釣りでも、なんでもーー

そんな、毎日のなかには、きっと、少なくとも、社会の役に立たなきゃという、強迫的な観念は浮かんでこないと思います。

人は社会のなかに埋もれているから、

社会の1ピースとなって、充実感を持って働かないと、自分がだめだめだと、思い込んでしまうことが多いと思います。

人の役に立たないと、劣等感の底に沈んでしまう。

けれど、現実的には難しくても、もし、森の中のキツネのように、自分で生きられるようになったら、

人の役に立っている実感がなかったとしても、自分はだめだなんて、思わなくてなるのではないか、と思いました。

そのように、考えていくと、たとえ、自分に、ぴったりと合っていない仕事だっとしても、

自分のできる限りを尽くして、家に帰ってきて、狩りという名のスーパーの買い出しに行けたら、それで充分なのではないか、と思います。

そんなこんなで、自然界の、精神的なプレッシャーのない、世界がすてきだなぁという気持ちも大きくなり、

図書館で、野生動物の写真集を眺めることが多くなりました。

私が、キツネだったら、犬だったら、猫だったら、ウサギだったら、と妄想を膨らませます。

などとしていたら、冒頭の、目が見えなくなったらどうしようという、不安がやってきました。

以前、大学に、生まれた頃から全盲の方が、講義にいらっしゃったんです。

私は、視覚情報に左右されることが多いため、今までは、心を安心させる術を音楽に求めていたので、

もし、目が見えなかったら、すべてがつながって感じられるかもしれないなどと、

目が見えないことに対して、前向きな思いを抱いていたのですが、

少し、目が見えない世界へ行ってみたいとも思ったのですが、

野生動物の写真を見ることが癒しの今、目が見えなくなってしまったら、

頭に、浮かぶ、鳥が空を飛ぶ姿が、だんだんと不明瞭になっていって、

自分はどこを頼りに生きていけばいいのだろうという、足がつかない感覚に陥ってしまったんです。

まあ、耳が聞こえなくなることも、大いにあり得る話ですが…。

今は、またも、テスト期間であるため、自分でも思いも寄らない不安がやってきてしまうのだと思います。

けれど、仮に、目が見えなくなったとしても、耳が聴こえなくなったとしても、

言葉は使えるな、と思ったので、一旦、不安からは離れて、テスト勉強と課題の遂行をがんばってこようと思います。

2023.1.19



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