不安だけども。
雑記
おばあちゃん、おじいちゃんの家に行きました。妹も、親も居ず、1人で、です。
久しぶりに会うため、とても緊張しながら、高速バスを降りて、
おばあちゃんを見つけ、目が合い、すると、発する言葉を考える間もなく、
おばあちゃんは、「よく来たね〜!」と、両手をいっぱいに広げて、出迎えてくれました。
わたしは、何もしていなくて、ただその場にいるだけなのに、
おいしいごはん屋さんに連れて行ってくれたり、
ネックレスをくれたり、
色々話しかけてくれたり、
なんだか、ものすごく愛されている感じがして、
今、おじいちゃん、おばあちゃんとの写真を見返しても、
自分も、心底幸せそうな顔をして笑っていて、
北海道でまた1人の地へ行く今見ると、涙が出てきます。
一生分、自分の名前を呼ばれた気がする。
呼ばれるほど、自分の輪郭が明瞭になっていくように感じました。
何もしなくても、自分のことを大好きだと思ってくれる人がいるんだということが、体感として感じられて、
むしろ、そのギャップから、親と妹との関係が苦しく感じられて、
今は天から地へまっ逆さまに落ちた感じがしていて、
公共交通機関のなかにいるのに、気を抜くと、またも、涙が出てきてしまいそうで…。これは、孤独の苦しさです。
今まで、私は、なんとかかんとか、必要とされたくて、孤独の苦しさを埋めるために、自分が将来だれかの役に立っている理想像を頭のなかで固めて、固めて、
気を遣える人になりたいと、思ったりもして、
実家にいても、常に、妹の気を引くために、母の気を引くために、
本当は自分の話を聞いてもらいたいのに、
話題をあれやこれや考えたり、
一緒に出かけられる予定を考えなきゃと、頭を悩ませたり、
でも、そんなに一生懸命近づこうとしなくても、
おばあちゃん、おじいちゃんは、自分にとても興味を持ってくれることがわかって、
母のなかに、自分がいることは分かるけれども、それは、ほんのほんのすみっこにすぎないんじゃないか、
親はふつう、祖父母のように、自然と子に愛情を持ってくれるものなんじゃないか、
普通なんて存在しないとは分かってはいるけれど、
この心の拠り所のなさは、それでも、今まで生きてきた環境が合っていなかったような気がしてきます。
今まで、寂しさを、人の役に立つんだという、振り絞ったがんばりによって、紛らわせていたのが、
別にそんなことをしなくても、愛されるときは愛されることに気づいて、
むしろ、がんばりすぎることによって、自分の心がどんどん離れていくことにも気づいて、
なぜなら、理想像ばかりが頭に染み付いて、現実をみることができないから、
それが分かって、なんだか、拍子抜けというか、悲しいというか、家にいると悲しくて寂しいというか…。
やっぱり、祖父母は、祖父母であって、
たとえば、心をいざ本格的に崩してしまったら、会えなくなってしまうと思います。
家族に対しても、頼れば頼るほど、ずぶずぶの沼に沈んでいってしまうような気がする。
寂しさが、爆発しないようにと思えば思うほど、おかしくなってしまうんじゃないか、と怖くなる。
けれども、今までなんとかなってきたから、とりあえず、これからもできることをするだけ、ですよね。
本当は何かにしがみつきたくて、仕方がない。
けれども、しがみついた結果、傷つくのも怖い。
それでも、なんとかなりますように。
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