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George Martin Instrumentally Salutes "The Beatle Girls"

昨年9月の台風で床上浸水の被害に遭って、30年近く使ってきたレコードプレイヤーが水没。持っているレコードの大半は早めに2階に避難させていたので助かったけど、プレイヤーがなくて聴けない状況が先日まで続いていた。引っ越しと新居の立ち上げ、息子の高校進学と、物入りな状況が立て続けに発生した上に自分の仕事は不調で収入減と、経済的な不安が大きすぎて自分の楽しみのためにお金を使うことがとても考えられず、精神状態はネガティブの極致だった。それが先月になってようやく少し持ち直し、金で買える楽しみは買った方がいい、という心境になった。レコードだ、レコードを聴くのだ。安い古レコードを手に入れてきては盤を綺麗にして針を落とすのがあんなに楽しかったじゃないか。プレイヤーもちゃんと動作すれば安い中古で全然構わない。かくして、某ネットオークションで手頃なものを見つけて購入、めでたくアナログレコードを聴ける環境が10か月ぶりに復活した。

初めてかけたレコードは迷うことなくビートルズ。やっぱり嬉しい。もっと早くこうしていればよかった。精神状態が上向いてくると自分で自分を喜ばせることができるようになって、さらに良い気分になれるというサイクル。もちろん逆のときは正反対のことになって、どん底まで落ち込む。延々とそんなことの繰り返しである。

今やどんな「幻の名盤」でもネットで検索すれば音が聴けてしまうデジタル万能時代、それでもまだアナログでしか耳にすることができない作品も存在する。たしかこれもそうじゃなかったかな、と引っ張り出したのが「George Martin Instrumentally Salutes "The Beatle Girls"」というレコードである。この記事を読んでくださっている方々には説明不要であろう、ビートルズ・サウンドの偉大なる立役者、ジョージ・マーティン先生によるビートルズ楽曲のインスト化作品である。ビートルズのイージーリスニングなんて世の中にあふれすぎていて、ビートルズのレコードなど一枚もなかった実家にもパーシー・フェイスのビートルズカバー集レコードがあったぐらいだけど、やはり「当事者」によるものは別格。この作品、上品なシャレの効いたラウンジ風味のアレンジがとても心地よくて、自分は大好き。

ビートル・ガールズに囲まれたマーティン先生のポーカーフェイスも良い

本作品の発売は1966年11月。収録曲12曲のうち8曲は当時の最新作「Revolver」からの選曲である。66年11月のビートルズは、過酷なツアー活動に終止符を打ってスタジオ作業に思う存分専念できるようになり、「Strawberry Fields Forever」のレコーディングを始めていた時期。翌年には言わずと知れた「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」が控えている。72年生まれの自分はこのことを既成事実として受け止めるだけである。リアルタイムでこのカオスとクリエイションに立ち会った人々(制作側も、リスナーも)がどんな気持ちだったのか、自分には想像することしかできない。ジョージ・マーティンはその最前線にいた一人。「Revolver」制作中のビートルズの驚異的な変貌ぶりを目の当たりにしつつ、プロデューサーとして全面協力していたのである。

それとほぼ同時に作られたであろうこのレコードは、そんなことなどなかったかのようにひたすら旧世代からの作法を引き継いだ「軽音楽」に徹している。かといって、自分はこれを聴いていて馬鹿馬鹿しい気持ちになったりすることは一切ない。これはこれで一本筋が通っているのである。先鋭的な音楽を一般の耳に馴染みやすいように日和らせた紛いものでもなければ、おふざけのパロディでもない。ビートルズの音楽作りに間近に立ち会った最良の理解者として、その本質を見事に捉えている。バッハの時代から連綿と続く西洋音楽の伝統の継承者としてのビートルズ。自分がこのアルバムで一番好きなのは「She Said, She Said」の全然ロックじゃないアレンジである。

ディストーションギターが吠えまくり、リンゴのドラムが炸裂するハードなビートルズバージョンとはまったく正反対、トリッキーな変拍子もそのままに違和感なく聴かせるスムーズなアレンジが粋としか言いようがない。ブレイクの部分で聴けるピアノはおそらくマーティン本人の演奏だと思うのだけど、音楽家としての品の良さに溢れていて、ほんとに大好き。やっぱり、この人あってこそのビートルズだった。いくつもの幸福な偶然の出会いが重なった末に生まれた奇跡の中の奇跡がビートルズ。間違いない。

……あれ、考えてみればこの作品はアナログでしか聴けないと思っていたのに、YouTubeにあるのはどういうことだ。少なくとも最近まで配信には載っていなかったはず。調べてみると、1994年に一度CD化されたのち、昨年(2023年)になって日本でCD再発されていたらしい。

アナログでしか手に入らないという有り難みは薄れてしまったけど、配信で広く手軽に聴けるようになったのはいいことだ。64年の同趣旨のインスト集「Off The Beatle Track」とのカップリングにボーナストラック5曲も加え、全29曲も入っている。ボーナス曲の中では「P.S. I Love You」が極上の湯加減でとても気に入った。


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