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つながったわたしの分人

こんにちは、のなこです。

最近、ヨガの勉強で瞑想をしているときに、ビビビと感じたことがありました。
(最近といえども1ヶ月以上前なので少しうろ覚えです)

それは、「本質的な私」は変わらないこと、刺激や役割で求められるものなどは違ってくるけど、本当の私はそこにいるということ。

私は、出産前と出産後で、自分の人生が大きく変わったように感じていました。(この感覚については整理してまたnoteにしたい💪✏️)

たとえるなら、私の人生の横グラフが出産を機に留まり、そのグラフの真下からまた新しい横グラフが出てきた感じ。つまり、私の人生は出産前と後で繋がっていない、ような‥。
出産前の私の人生はどこかパラレルワールドにまたあるような‥。

出産前後で私の人生が分断されているような感覚だったんです。それがいい悪いではなくて。


でも、瞑想をしていて、「本来の自分はずっとそこにいる」と誘導を受けていたら、
ああ、私は変わってないんだなってストンと腑に落ちて、とても安心しました。
自分が自分であること、変わったこともたくさんあるけど、でも本質的な私はずっと私であること。

繋がった感覚。
私と私が繋がった感覚。
またひとつ自分軸が整った感覚。

つなげること

そう思うと、私はつながること、つなげて考えることが苦手なことに思い当たりました。

時間

たとえば、過去と今と未来が繋がっていること、この時間に対する認識も弱いです。
未来がつながっていると思えず、今まで刹那的に生きてきました。

今の積み重なりの先に未来がある。
なにより「今」がいちばん大切。
未来はそのあとに、わかんないけどなんか適当にあるんじゃないかな、というような、、
とりあえず今を積み重ねたら未来があるんじゃない、見えないけど。みたいなかんじです。

人とつながりを保ち続けること、も、苦手ではないけど、先の関係を見据えて今の関係をつくる、という意味ではあまり意識してきませんでした。
今楽しくしていることの先に、結果としてずっと仲良くしている人たちがいる、というような‥。
そう思うと今も親しくしてくれている人たちがいることは、とても嬉しくてラッキーなことです。

ばらばらな分人たち

「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。

平野啓一郎 分人主義オフィシャルサイト




そして私はどうやら分人同士を結びつけることが得意ではないです。
平野啓一郎さんも「私とは何か」のなかでそう書かれていたかな‥。

だから会社では子どもの話はあまりできません。自分から話さなくとも自然に開示できればいいのでしょうが、うまくできません。

子どもを連れて、友達と出かけるのも苦手です。母としての私と、友達としての私がぶつかり合う。どちらを優先していいのかわからなくなって頭の中が混乱する。

ヨガで知り合った人には子どもがいると話せない。

私の中の分人たちはつながっていない。分人同士の世界をつなげられない。

そこで出会っている人々に対して、他の分人たちは関係ないし、言う必要がない?と感じてしまうし、何より言い出すタイミングがわからない‥。

これを自然にやっている人を見ると素直にすごい!と思います。とてもナチュラルに自然にされています。

会社の行事に子どもを連れてきたり、ちがう分人同士の世界や人をつなげて、人と人の出会いを提供する人など。


少し脱線

話は戻りますが、この分人主義、改めて引用部分を読むと
「中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。」とかかれていますね。

私がヨガで感じた、本質的な私、とは対をなすのか、、、?
むしろ、私は分人にこだわりすぎて、私を見失っていたのか、、
「出産前の私」と「出産後の私」という分人たち、、
混乱してきました。

「私とは何か」を読んだのも数年前なので、意味や解釈の取り違えもあるのかも‥。

さいごに

いろんな考え方がありますが、今の私は「つながること」、「つながったこと」に安心しました。
でも、時と状況によっては、分人として分けることで安心することもきっとあるのでしょう。
生きやすい考え方をその都度選んでいきたいな。

私は、下半期、『つながる』そして『育てる』
そんなことを意識してみようと思います。


ではでは、またね。

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