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「何かのために生きるのではなく、今生きていること、それ自体に感謝する」ことを求めて──上野誠『日本人にとって聖なるものとは何か』

〈神〉という言葉を使うから誤解と混乱が生じるのかもしれません、そんなことを考えさせる本でした。

日本の〈神〉は造物主である一神教の神とも、ギリシャ・ローマ的な多神教とも違っています。汎神論、アニミズムというものに一番近いのかもしれません。
それは「とめどなく生まれ出ずる神々」なのです。
では、私たちは、私たちの中に、また周囲にそのような神々を感じ取ることができるのでしょうか。これが上野さんの問いかけであるように思えました。上野さんが「古代思考」「古代的思考」と呼んでいるものが私たちの中に生きているのかどうかということなのだと思います。

記紀万葉を詳細に読み解きながら上野さんはこの「古代思考」がどのようなものであったのかを丁寧に追求していきます。
地名から枕詞の意味を考え、「社殿を持たない森(モリ)の神々、野の神々」の姿を追い、神のいます地「カムナビ」を訪ねます。そして出会った「ミモロ」というもの……。
上野さんによれば「「ミモロ」とは(略)祀ることによって、うまく鎮まってくれることもある神なのだが、人がどんなに丁寧、丁重に祀っても、鎮まってくれないこともある。人に害をなすこともあるのである」つまり「人が完全に掌握・支配できる存在ではないという」神なのです。このようなことを直観的につかめたものが「古代思考」ということを理解できたということになるのではないでしょうか。

上野さんは、この「ミモロ」と天皇との関係に着目します。「『日本書紀』の崇神天皇の条は、律令国家成立以前、仏教伝来以前の天皇と国家、国家と神祀り、神祀りと天皇の関係を語る伝えを集中的に記している条である」としてその関係を詳しく分析しています。上野さんは、国つ神としてのミモロの神と崇神天皇との経緯、そこには日本のマツリとマツリゴトの原型を探り出しています。この本の中でもとてもスリリングな一節です。その両者の関係から「国つ神の要求を察知する能力のない天皇は、天皇としての力がない」ということすら読み取っているのです。天皇すら御することのできない国つ神の存在。

そして上野さんは「人が祈り、かつ丁重に祀る神であっても、神には人の力ではいかんともしがたい」存在であるなら、さらに人が「神の臣下であるというなら、天皇と人との関係は、いかなるものと考えればよいのだろうか」という最後の問いに向き合います。
「大君は 神にしませば」で始まる六つの万葉歌を分析しそこに「言外に、神ならぬ身の天皇のお力は、まさに神であるかのごとし、という内容を含み込んでいる」とし、天皇の位置をこう結論づけています。
「天皇が自然の神々の上に君臨するのは、神として振る舞い、かの吉野の激流のうちに高殿を建て、国見をした時、その時にという限定つきなのである。(略)天皇は人であるが、儀式や行幸のなかで、時として神とたたえられることもある。その神と讃えられる天皇は、神そのもののように表現されることもあった、というくらいに考えておくべきだろう。逆説的にいえば、それは天皇が人の側にいる存在だったことを意味する」のだと。

上野さんの「古代思考」はまだ私たちの中にあるのでしょうか。「その木、森、山を自然とみるか崇拝物としてみるかで(略)つきあい方は変わってくる」。そのつきあい方には上野さんのいう「原恩」感覚が眠っています。「それは、何かのために生きるのではなく、今生きていること、それ自体に感謝する」ということでもあります。と同時に「極度に人間の意思を尊重し、すべてを行為の結果と考える傾向」にある近代合理主義への上野さんの違和感に通じるものでもあるのです。

書誌:
書 名 日本人にとって聖なるものとは何か 神と自然の古代学
著 者 上野誠
出版社 中央公論新社
初 版 2015年1月25日
レビュアー近況:朝からコパアメリカ・ブラジルvs.コロンビアの熱戦を。試合終了のホイッスル直後、敗戦したブラジルのネイマールが思い切り蹴ったボールが至近距離でアルメロにヒットしぶっ飛ばされたのをキッカケに、両チーム掴み合いに。数試合ネイマールが出場停止となるのは、セレソンにはまさに泣きっ面に蜂、です。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.06.18
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3610

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