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これは犯罪だ! 合理性を追求する経済学の罠──我々はなぜ騙されるのか?|『経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ』(佐伯啓思)

まずこれを読んでください。

──「自由貿易が国民全体に大きな利益をもたらすことは、アダム・スミスの『国富論』以来、世界が経験してきた共有の理解だ。日本自身これまで、自由貿易で最も大きな利益を得てきた国のひとつといえる」。だからTPPに反対するなど論外である。──

上記は『産経新聞』に寄せた竹中平蔵氏の論説の一部です。さて、これは“常識”なのでしょうか。佐伯さんの問いかけはここから始まります。「だが私には、この短いセンテンスのなかにすでに五つの誤りがあるように思われる」と。誤りはなにかというと……。

──1.アダム・スミスは、決して単純に「自由貿易が国民全体の利益になる」などとはいっていない。
2.「自由貿易が国民全体の利益になる」という命題そのものが、現代では少なくともそのままでは成り立たない。
3.「(自由貿易の教義は)世界が経験してきた共有の理解だ」というのもまた間違っている。
4.「日本自身でこれまで、自由貿易で最も大きな利益を得てきた」という点もそのままでは正しくない。もしもそれを認めてしまうなら、そもそも構造改革は一体何だったのか、ということになるのではなかろうか。構造改革論者は、日本経済は閉鎖的で官僚主導的で自由競争的でない、と論じてきた。ということは、日本経済は自由競争をやっていなかったことになる。
5.さらにいえば「だからTPPに反対する理由はない」というとすれば、これもまた違っている。まず、TPPは厳密な意味で自由貿易とはいえない。むしろブロック経済の様相が濃い。──

このうちTPPについては議論の曖昧さにも大きな問題があります。その指摘は本を読んでいただくとして、私たちはこれらの疑問をなぜ持てなかったのでしょうか。

それは“経済学的思考(=現代経済学)”が私たちを誤らせているからです。この“経済学的思考”は数学的精緻さを追求し、合理性という点では揺るがないように見えます。それゆえに私たちは“普遍的な真理”のように思いこんでいるのです。この思い込みに根本的な批判を突きつけたのがこの本です。

私たちがなんの疑いも持たない、“合理的な”、“経済学的思考”とは、簡単にいえば「市場中心主義(新自由主義)」と呼んでいるものです。「自由な競争的市場こそは効率的な資源配分を実現し、可能な限り人々の物的幸福を増大する」というものです。そして、ここで生まれてきたのが「効率性」「競争主義」「個人主義」「能力主義」「成長主義」等の考え方(思考のフレームワーク)です。

これらは本当に正しく、普遍的なものなのでしょうか。この思考に前提とされているのは次の3つのことがらです。
1.人々は与えられた条件のもとでできるだけ合理的に行動する。行動に必要な情報は可能な限り合理的に利用する。
2.経済活動の目的は人々の物的満足をできるだけ増大させることであり、この場合に、モノ・サーヴィスの生産・交換・消費という「実体経済」が経済の本質であり、「貨幣」はその補助手段でしかない。
3.人々の欲望は無限であり、消費意欲は無限である。これに対して物的生産の条件となる資源は有限である。したがって経済の問題とは、稀少資源をできるだけ効率的に配分するという点に求められる。

佐伯さんはこの3つの前提は「本質的に間違っている」と考え、ひとつひとつその誤謬を明らかにしていきます。論述を追っていくと私たちがいかに“合理性のしもべ”となっているのかがよく分かります。「すべての経済的効果を、基本的には、個々人の合理的行動から説明」しようとし、その上で「人間の行動を合理的なものとして説明し、その結果としての市場パフォーマンスを合理的に説明する。そうすれば、『合理的な科学』としての経済学」もできあがるのだと。

少し考えれば分かるようにこれは逆立ちしています。“合理的な科学”として経済学を完成させるために、合理的な行動をする人間というものを仮定したと呼ぶべきなのです。この考えを徹底的に推し進めたのがアメリカの経済学者たちでした。その経済学を後押ししたのはアメリカ経済の強さというものでした。

──一九世紀から二〇世紀初頭へかけての「イギリスの経済学」が「イギリス経済」と不可分だったように、「アメリカの経済学」は「アメリカ経済」から切り離すことはできない。──
つまり、「アメリカの経済的な覇権」によって「市場競争中心主義」が経済学の中心とされていったのです。
そして、この「市場競争中心主義」の経済学は奇妙な「命題」を帰結するのです。それは、
1.失業は存在しない。
2.政府は景気を刺激することはできない。
3.景気変動は存在しない。
4.バブルは存在しない。

というものです。なぜこうなるのかはこの本に詳述されていますが、“合理性”のみを追求するとこのような命題が導き出されるのです。もちろんこれは事実にそぐわない命題です。けれど「この現実離れした理論」が重用され現実の政策を動かしたのです。今、私たちが問題にしなければならないのは、このような合理性=市場至上主義の迷妄からさめることなのです。

この本の後半ではどのようにして新しい思考を作り出すことができるかが追求されています。貨幣の本質は単なる交換手段ではないということを論証し、「稀少性」という考え方に「過剰性」というものを対置します。ここからの佐伯さんの論述、その思考から生み出した提言はきわめて実践的で私たちの新しい道をしめしているように思えます。

グローバル経済、過剰な自由競争に翻弄されることなく「ネーション・エコノミー」を強化すること、それでこそ私たちにとって「善い社会」を構想することができるのではないかと。

──「欲望」にせよ、「稀少性」にせよ、あくまで「市場」と深く結びついているといわねばならないであろう。経済学でいう「稀少性」とは、ただ人の無限の欲望に対して資源が足りないとうことを一般的に述べたものではない。そうではなく、稀少性の概念はあくまで市場における選択という概念と不可分なのである。──

「成長」「効率性」「競争」等といったものに目をくらませられることなく、どのような社会を目指すべきか、佐伯さんの提言を深く考えるべきだと思います。自分たちの持っている(持たされている)常識の危うさを感じさせる一冊でした。(貨幣、さらにはこの過剰性というものをめぐる論述は幾度も読み返してほしい、この本の核心です)

[初出]講談社BOOK倶楽部「今日のおすすめ」2016.6.21
http://news.kodansha.co.jp/20160621_b01

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