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鶴見俊輔さんが亡くなられました。私たちが失ったものは大きな良心と巨大なコモンセンスです──鶴見俊輔・佐々木マキ『わたしが外人だったころ』

あるラジオドラマがアメリカ中をパニックに陥れました。1938年のことでした。

「『火星人の侵入』は、イギリスの小説家H・G・ウェルズの原作にもとづいて、アメリカの俳優・劇作家オーソン・ウェルズがつくったラジオ・ドラマでした」
臨時ニュース風に演出されたこのドラマは、ラジオの聴取者にすっかり現実のことと思わせたのです。
その年、鶴見さんは、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州コンコードという町にいました。16歳の時です。

なれない英語、それも慣れハーバード大学へと入学します。そして始まった太平洋戦争。
鶴見さんは同級生とこんな会話をしたそうです。
「「戦争がはじまった。これから憎みあうことになると思う。しかし、それをこえて、わたしたちのつながりが生きのびることを祈る」と言いました。しかし、日本にもどってからも、わたしはアメリカ人を憎むことができないでいました。自分が撃沈や空襲で死ぬとしても、憎むことはないだろうと思いました」

敵性外国人として逮捕された鶴見さんですが、教授のはからいで獄中で卒業論文を仕上げました。便器を机代わりにして。
そして1942年6月10日、日米交換船で帰国することになります。母国で敗戦をむかえたいと思って……。
「その日は、ハーバード大学の卒業式の日でした。獄中にあるまま、わたしはこの大学を出ることができました」

帰国後の徴兵検査、海軍への志願、南方での軍務、難病に苦しむ日々……そして敗戦……。
鶴見さんはこう記します。
「どうして自分が行きのこったか、その理由はわかりません。わたしが何かしたために、死ぬことをまぬかれたということわけではないのです。なぜ自分がここにいるのかよくわからないということです」

これが書名の〝外人〟ということなのでしょう。
では〝外人〟とはなんでしょう?
ストレンジャー、アウトサイダー、フォリナー エクスペイトリアトそれにエトランジェ、どれも少し鶴見さんのいう〝外人〟とは違っているように思います。
独りでたっている人、誰にも寄りかからず生きている人、そんなように思えるのです。それは鶴見さんを、哲学者とか思想家(もちろんそうなのですが)という呼び方よりも、考える人という呼び方のほうが似つかわしいように思います。

戦後のさまざまな活動、思想の科学での言論活動、ベ平連等の社会運動等への参加。研究領域も、アメリカ哲学、転向研究、大衆文化、漫画等と多岐にわたっています。そこにはこの〝外人〟というものがいつまでも鶴見さんの心の底にあるからなのではないでしょうか。

佐々木マキさんのイラストは明るい色を基調としていますが、心が感じた恐怖、沈む軍艦、骨となった鳥、戦火の街、戦後の日本人の姿を、誤解をおそれずにいえば美しく描き出しています。その美しさは戦争の持つ非情さ、残酷さ、悲惨さ、不安にさいなまれる人間の心をリアルなイラストよりもっともっと私たちの心に浸透させてきます。絵本というものの持つ底力がここにあるのだと思います。

なんどもなんども広げたくなる本です。そして鶴見さんのいう〝外人〟とはなにを意味しているのだろうかと読む人なりに考えさえてくれる、世代を超えた絵本だと思います。

そして鶴見さんの訃報が入りました。お歳からいつかは……と思っていましたが、大きな明かりを私たちは失いました。闇夜がこれ以上深くならないように、私たち自身が気をつけ、なにが大切なのかを考え続けることが残された者たちの責務だとおもいます。大きな良心と巨大なコモンセンスの喪失、それが鶴見俊輔さんの死なのですから……。ご冥福をお祈りします。と同時に〝普通の人〟として考え続けることが私たちが鶴見さんから受け継いでいかなければならないものではないかと思います。

書誌:
書 名 わたしが外人だったころ
著 者 鶴見俊輔 (文)・佐々木マキ(絵)
出版社 福音館書店
初 版 2015年5月13日
レビュアー近況:夏の高校野球・東東京大会決勝、東京音羽の学校は準優勝。甲子園出場は、残念ながら叶いませんでした。護国寺脇の道路を汗びっしょりで坂道ダッシュしている部員たちをよく見ました。これから町会で出迎えです。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.07.27
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3725

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