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行政権力によるメディアへの干渉も取りざたされている中で、決して世論に流されることのない輿論を作る必要があるのです──佐藤卓己『輿論と世論 日本的民意の系譜学』

〝世論〟は何と読むのでしょうか? 〝せろん〟? 〝よろん〟? 今はどちらで読んでもいいそうです。ですが本来は全く異なる意味だったのです。〝よろん〟は〝輿論〟、〝せろん〟は〝世論〟と書かれていました。戦後の漢字制限で〝輿〟の文字が使えなくなり代用として〝世〟の文字が使われることになったのです。そして、そこからこの2つの言葉の意味の混乱と誤用が始まったのです。その変遷とあり得べき〝輿論〟の姿を求めたのがこの本です。

では輿論と世論とは本来どのようなものだったのでしょうか?
「輿論は公衆の社会的意識が組織化されたものであり、世論とはまだ認識の対象となっていない心理状態、つまり気分や雰囲気の表出である」
つまり「輿論では何を言っているかが問題だが、世論ではどのように言っているかが重要である」というものだったのです。

佐藤さんはこの2つの言葉がどのように使われ、「大正期から「輿論の世論化」が進行していた」ことをさまざまな文書から明らかにしていきます。その歴史はひと言でいって「昭和史は理性的輿論が感情的世論に飲み込まれていった過程である」というものでした。

そして戦後、輿論は漢字制限というもとに世論というものに統一され、吸収されたかのようになっていきました。世論というものは空気、雰囲気というものです。かつて山本七平さんは名著『「空気」の研究』の中で、私たちをしばる〝空気〟というものに触れて、
「われわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(略)議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の規準となるという形をとっている場合が多いからである」
とその正体を剔抉しています。これは太平洋戦争末期の日本海軍の戦艦大和沖縄特攻作戦の決定の時のことを例としていわれたものですが、殷鑑遠からず、私たちは〝空気が読めない〟ということをしばし耳にし、言ってもいるのではないでしょうか。

世論は責任主体が曖昧で、極めて機会主義(日和見主義)的なものなのです。それは世論調査にもはっきりと現れているように思います。「郵送方式という古典的手法で行われた」世論調査では60%が「直観で答える」と回答しています。この判断に空気、雰囲気というものが含まれていないとは誰も言えないのではないでしょうか。

安保法制、改憲論議、TPP等、これから与野党問わず必ず口にされる言葉に〝民意〟ということがあると思います。恣意的に使われかねない民意という言葉とその内容を私たちはとことん吟味、検証する必要があると思います。世論と化した民意にならないようにしなければなりません。選挙の当落は確かに民意を現していると思います。けれどその民意が世論化されたものであったり、既得権の反映(家業化された政治家)であることもあるということを忘れてはならないのではないでしょうか。
行政権力によるメディアへの干渉も取りざたされている中で、決して世論に流されることのない輿論を作る必要があるのです。

「自らの責任で支持する意見を担うことは、周囲の空気を読むことより何倍も骨の折れる作業である。それだけの時間と労力が輿論を生み出すためには必要なのであり、人々がその自覚を持つ限りで「輿論は民主主義の基礎」となるだろう」
それは「一人からはじまる輿論」であり「世間の空気に対して、たった一人でも公的な意見を叫ぶ勇気」を持つことなのでもあるのです。

書誌:
書 名 輿論と世論 日本的民意の系譜学
著 者 佐藤卓己
出版社 新潮社
初 版 2013年7月10日
レビュアー近況:ドラマでリメイクされる『ド根性ガエル』、実写化だけでもクラクラしましたが、前田敦子さん演じる京子ちゃんがバツ1で「中学生の頃とはまったく変わった」という設定を聞き、卒倒しそうです(ただ、アニメ1期では眼鏡屋のくに子ちゃん共々、相当腹黒いトコロもありましたが)。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.05.28
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3556

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