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「適切に個別最適化された評価」をめぐって(1)

「公正に個別最適化された学び」という文科省のスローガンをもじって、「適切に個別最適化された評価」というフレーズをデスクトップに置いて眺めながら、「評価」について考えてみます。

「評価」は誰のものか?

もちろん「評価」は第一義的に学習者のものです。統合型校務支援システムの導入によって大量の教育データが利活用されることになれば「評価」の可能性が広がっていくわけですが、データの管理主体があくまでも「学習者本人(または保護者)」であるということを忘れてはいけません。「(または保護者)」というのは、あくまでも付随的なものでしょうから、第一義的には「学習者本人」がデータの管理主体であり、「評価」に関しても同様に「学習者本人」が利活用できるのが理想です。

一方で、現実問題として学習者を利用可能な「リソース」として「格付け」し、進級させたり進学させたり就職させたりするための「評価」もあります。一般に「成績」と呼ばれる「評価」です。

「定期試験の平均点は65〜75点、標準偏差は10.0〜15.0程度になるように作成してください」とか「GPAが2.0に近づくように成績をつけてください」などという内規があるのは、「成績」としての「評価」が学習者本人のものではないことを示唆しています。

「こんな試験では差がつかない」と言っている教師は、はからずも学習者を利用可能な「リソース」として「格付け」しようとする自らの「欲望」を告白しているわけです。

そもそも定期試験の目的は、学習した内容が定着しているかどうかを評価することでしょうから、義務教育の最終段階である中学校における定期試験の「成績」に差がつくというのは、由々しき事態であるはずです。

定期試験の「成績」は、学習者を評価するものであると同時に、教師の教育活動の評価でもあるはずです。

定点観測のように毎年同じ定期試験を実施しては、「今年の生徒はダメだなぁ〜」などと職員室でぼやいている教員がいるとすれば、「成績」によって評価されているのが生徒だけではないことが理解できていないということになるでしょう。年ごとに異なる児童や生徒を相手にするわけですし、学習履歴や学習環境も異なります。今年の生徒がダメだとぼやく前に、今年の生徒の力を伸ばすことができなかった自らの教育活動の課題がどこにあるのかを分析するべきなのです。

評価は、学習者本人のものであると同時に、教育者のものでもあります。

同時に、学習者本人に対する評価であると同時に、教育者に対する評価でもあるのです。

資質・能力の3つの柱と評価

新しい学習指導要領がうたう「資質・能力の3つの柱」に関して、以下のような表現上の際に着目することができます。

(1)「知識及び技能」の習得
(2)「思考力,判断力,表現力等」の育成
(3)「学びに向かう力・人間性等」の涵養

(1)に使われている「習得」という言葉は、「知識及び技能」に関する評価の宛先の重点が、教育者よりもむしろ学習者に置かれているニュアンスがあります。

一方で、(2)に使われている「育成」という言葉は、「思考力,判断力,表現力等」に関する評価の宛先が、教育者にあるかのようなニュアンスが感じられます。

言い換えれば、(1)に関する評価は、定点観測的なものでも一定の効果が得られそうですが、(2)に関する評価は、教育者と学習者の相関の中で生じるさまざまな要因が影響を与えることになるので、よりきめ細かい対応が必要になりそうです。

そして(3)になると、学習者と教育者、さらにはそれを取り巻く環境が影響を与えることになるので、さらに評価のあり方は難しくなります。

少し乱暴な議論ですが、学習者も教育者もまったく同じであっても、学習する環境が変わる(たとえば、新しくてピカピカの校舎と教室になる)ことで、「学びに向かう力」が急激に伸びることがあり得るわけです。

あるいは、教育者も教育環境もまったく変わらなくても、家族の努力によって家庭環境が改善されたことで心理的に安定し、学校生活の中で発現する「人間性等」に関して顕著な改善傾向が見られるということもあり得ます。

もちろん、教育者の働きかけ方ひとつでも、「学びに向かう力」は大きく左右されるでしょう。

涵養される「学びに向かう力・人間性等」というのは、学習者本人の状態を評価するものではありますが、評価によってその是非が厳しく問われるのは、教育者や教育環境の側であるとも言えるわけです。

(たぶん、つづく)


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