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「呪いの言葉」が教育の進化をはばむ

手段よりも目的が大事

教育現場でよく聞くフレーズがあります。
「ICTはあくまでも手段。どういう目的で使うかが大事だ」という言葉です。
このアドバイスは一見、耳を傾けるべき合理的で賢明なものに聞こえるかもしれません。
しかし、じつはこの言葉は、成長や革新を妨げる「呪いの言葉」になりかねない厄介な言葉なのです。

呪いの言葉とは

「呪いの言葉」とは、良かれと思って発するものの、聞く人の進化や成長をはばむ言葉です。
例えば、「最初はとにかく我慢。あとで必ず報われる」 「母親なんだからしっかりしなきゃ」「今いる場所でがんばれない人間が、他の場所に移ってがんばれるはずがない」といった言葉がそれに該当します。
これらの言葉は、相手のために良かれと思って使われている場合もありますが、その背後には個人の選択の自由や行動の自由を削ぎ落とし、奪い去る力が働いています。

呪いの言葉を解くために―遊ぶように学ぶ

「ICTはあくまでも手段」という言葉も同じです。
確かに、手段は目的を果たすためのものです。
しかし、新しい手段を試さなければ、その効用を発見する機会は生まれません。新しい手段が潜在的に持っている可能性を見出す努力をしなければ、結果的に目的を実現する可能性を狭めてしまうかもしれません。

成長や革新を妨げる「ICTはあくまでも手段」という「呪いの言葉」を解くには、いったいどうすればいいのでしょうか。

それは、「手段」と「目的」を分離する考え方を解除することです。

未知の道具が出現した時に、人間としてなすべきは「遊ぶ」ことです。

「遊び」において手段と目的は一体となり、行為そのものが目的であり手段ともなります。

「遊ぶように学ぶ」姿が素敵なのは、「現在」を「未来」のためのたんなる手段にしていないからです。

今を犠牲にせずに「今・ここにあるハッピー」を実現しつつ、それが同時に「これから・どこかで実現するはずのハッピーの準備」にもなっているからです。

目的至上主義的な「呪いの言葉」に対しては、このような視点を大事にして、教育の未来を拓く新しい可能性の灯を消さないようにしたいものです。

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん

梁塵秘抄(1180年ごろ)



         未


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