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探究と国語科教育

 2022年夏、愛媛県の済美平成中等教育学校で授業見学をする機会に恵まれた。土曜日の2時間目から4時間目まで、国語、社会、理科の授業を順番に見学した。特別にICT活用で有名な学校というわけではなく、愛媛大学教育学部附属中学校で開催されることになっていたロイロノート・スクールという学習支援アプリの勉強会に参加するついでに、どこか受け入れてくれるところはないかとMessengerというコミュニケーションツールのグループで参加校に呼びかけたところ、快く名乗りをあげていただくことができたのだ。
 中学1年生は、まだ端末を使い始めて3ヶ月あまり、中学2年生も1年あまりというところになるわけだが、すでに自由自在にiPadをつかって協働的な学びを実現していることに驚かされた。特に驚愕したのは、最初に見学した中学2年生の国語の授業で教育出版『伝え合う中学国語2』に収録されている「ガイアの知性」(龍村仁)という教材を使った授業が始まってすぐに起きた出来事だった。

 教師による導入が終わり、各グループが思い思いに協働学習を開始した際、近くにいた中学2年生が、教師から指示が出たわけでもないのに、こともなげにiPadの2画面表示を使い、左側にロイロノート・スクールを、右側にGoogle スライドを出して話し合いを始めようとしたのだ。

許可を得て撮影

 ロイロノート・スクールには、前時の学習活動として取り組んだ「人間」の知性と「鯨や象」の知性を比較したベン図が映し出されていた。
 これからその生徒は、シンキングツール機能をつかって自ら分析したベン図を参照しながら仲間と話し合い、クラウド共有されている右側のGoogle スライドを共同編集しながらグループの意見をまとめようとしているのだ。
 ロイロノート・スクールやGoogle Workspace for Education を使ったことがないと、この生徒の端末活用のどこがすごいのかが伝わりにくいかもしれない。そこで、外形的なことに焦点をしぼって価値付けるとすれば、教師の指示で操作するのではなく、自ら考え、必要だと思った操作を自ら選び、自らの判断でただちに実行していることが素晴らしいのである。
 これだけではない。このあと生徒たちは、スライドの背景に動物の知性に関連するイメージとしてイルカやゾウの画像を背景に取り込みながら、検索機能などを使って自由に情報にアクセスし、本文を参照し、人間と動物を比較することを通して「知性」についての自分たちの考えをまとめていった。
 済美平成中等教育学校の中学2年の国語の授業では、思考・判断・表現をする際に、自ら選ぶことができるという条件、また選択したい操作が可能であるという条件がしっかりと確保されていたのである。
 ちなみに、iPadの2画面表示の話を、夏休み明けに訪れた都内の公立小学校でしたところ、「うちの2年生もやってますよ」と言われた。これはおそらく特殊なケースではない。2022年夏、済美平成中等教育学校の中学2年生と同様に、GIGA端末を手にして1年あまりの区立小学校の2年生の中にも、文具として日常的に情報端末を使い始め、自分が考えたいことに合わせて活用するすべを知っている子どもがいる。おそらく同様の現象は、全国のさまざまな現場で出現し始めているに違いない。
 こうした状況が広がることによって、検討すべき課題として浮上するのは、「教科の本質」ということをどのように受け止めていくかということである。

 探究のためのICT活用として最も基本的な手法は、検索機能である。たとえば、 三浦哲郎の「盆土産」を読む中学生が、冒頭の場面に登場するカジカガエルについてよりよく知るには、実際にカジカガエルがいる渓流が近くにない限り、YouTubeで動画を検索するのが最良の方法である。絲山秋子の「ベル・エポック」を読む高校生が、最後の場面に登場する「小さな恋のメロディ」について知ろうとするなら、YouTubeでBLANKEY JET CITYの歌を聴くのがいちばんである。
 ところが、カジカガエルの姿をYouTubeで調べた中学生が、カエルの鳴き声に興味を抱き、次々にカエル動画を視聴し始めるというようなことがあるかもしれない。BLANKEY JET CITYの曲から映画「小さな恋のメロディ」に興味が移り、いつのまにか高校生がBee Gees の曲を聞き始めるということもあるだろう。
 中学2年生の国語科の学習指導要領の「A 話すこと・聞くこと」の(1)アに「社会生活の中から話題を決め,話したり話し合ったりするための材料を多様な方法で集め整理すること。」とある。また「B 書くこと」の(1)アにも「社会生活の中から課題を決め,多様な方法で材料を集めながら自分の考えをまとめること。」とある。検索して調べるという学習活動を否定することはできない。しかし検索することによって興味や関心が広がり、探究の枠組みが大きくなっていく蓋然性は増える。「ガイアの知性」に論じられているような問題について「材料を多様な方法で材料を集め整理する」とすれば、その過程で環境学や生態学など、理科や社会などの他教科にかかわる情報についての探究活動が一部の生徒の中に生じることは避けられない。
 印刷製本された国語辞典しか手渡さないとか、教師が準備した資料だけを使わせるという制約があれば別であるが、さまざまな媒体の容易にアクセスできる情報端末を手にした好奇心旺盛な生徒たちにとって、「知りたい」という気持ちの発露は避けられない。その際に「国語科の本質」という言葉を盾に取って、知りたいことに対する主体的な探究心によって形成される「学びの本質」がそこなわれるようなことがあってはならない。教科教育というものは、それぞれが相互に独立し、部分と部分が別々に機能することによって成立するものでない。だからこそ、カリキュラム・マネジメントが必要なのだ。
 情報モラルという言葉の使用頻度の伸びが鈍化し、代わりにデジタルシチズンシップという言葉が急速に教育現場に広がりつつある。危険を回避するために制限を加えて管理を強めるというニュアンスが強くなりがちな情報モラル教育に代わって、安全を担保しながら使用するための条件をととのえ、市民として情報にアクセスする権利を適切に育むデジタルシチズンシップ教育が台頭しているのだ。「生涯にわたる社会生活に必要な国語の知識や技能を身に付けるとともに、我が国の伝統的な言語文化に対する理解を深めることができるようにする。」という学習指導要領に記載された文学国語の目標を果たすためにも、新しいテクノロジーを積極的に導入したICT活用が必要であることは、もはや議論の余地がない。

 教科書とノートを机上に準備させて、板書を黙々と「視写」させる授業がもたらす教師の安心・安全を手放し、22世紀にいたる生涯にわたって社会生活に必要な知識や技能を育むための国語科教育にシフトすべきである…などと、あえて書きつけなくてもよい状況が一刻も早く訪れることを願うばかりだ。



            未


【注記】
 先月(2023年3月)刊行された『早稲田大学国語教育研究』第43集の特集「探究的な学びとICT」のために書いた「国語教師はICTといかに向き合うべきか―探究的な学びとデジタル・トランスフォーメーション」の草稿の一部(第五節)である。ウェブ閲覧用に改行を増やすなど、若干の加筆修正がほどこされている。

第一節「教師の安心・安全と児童生徒の未来」はこちら
第二節「ICTとはなにか」はこちら
第三節「教育のデジタルシフト」はこちら
第四節「文学教育と探究」はこちら


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