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山谷ブルース

「 今日の仕事はつらかった
 あとは焼酎を呷るだけ 」

 若い頃はフォークソングが好きで、FMをエアチェックしてよく聴いていた。アリス、かぐや姫、グレープ等々。中で、フォークの神様と呼ばれていたのが岡林信康だった。「山谷ブルース」という曲が良く知られていた。
 当時、この曲にはあまり興味を持てなかった。

 就職して配属となった職場に、酒好きで有名な人がいた。皆でスナックへ飲みに行っても女には目もくれず、ひたすら酒を飲む人だった。その人があるとき、「山谷ブルース」をカラオケで歌った。何とも武骨な曲だなと聴いていたが、歌い終わると「山谷って知ってるか?」と私に問いかけた。
恥ずかしい話だが、当時の私は知らなかった。

 山谷と言うのは東京の街で、日雇い労働者が住む木賃宿が立ち並ぶ場所だった。高度経済成長期からバブルにかけ、東京の都市開発を支える底辺労働者が集った。そこに毎朝トラックが横付けされ、土建屋のオヤジが日給ナンボで働き手を募る。話がつけばトラックの荷台に乗り込み、現場へと運ばれて夜にはまた山谷へ戻るという毎日だ。
 この人たちは今風に言えばホームレスの人たち。または冬場に仕事を求めて都会に出てくる出稼ぎ労働者もいた。地方と都会の労働格差が現代よりも顕著だった。

 今では焼酎もテイスト重視の高級品が並ぶが、昔は安酒の代名詞だった。戦後間もない物資窮乏の折、密造酒として出回った「カストリ酒」というのも、元々は清酒の酒かすから蒸留によって残ったアルコールを抽出する、言わば焼酎の工程から生まれたものだ。これが更に焼酎の地位を貶める事となった。

 つまり山谷ブルースという曲は、底辺労働者が安酒を呷って愚痴をこぼす、そんな冴えない曲だというのが初見の印象だった。

 この曲の意味を身を以て知ったのは、40代に差し掛かってからの事。リーマンショックによる不況で人員整理が始まり、私は設計部門からラインワーカーとして製造部門へ転属となった。
 収入も3割ほど減った。何よりエンジニアとして積み重ねてきた実績が、全くの白紙にされたのだという実感が辛かった。体の良い退職勧奨と言うヤツだ。自分を正しく評価してくれる希望の光を転職に求めた。しかし不況と年齢がそれを阻んだ。
 今はもう耐えるしかない。机もPCもない、ワーカーとしての毎日をただ過ごした。

 とにかく一日の作業を終えるとくたくたで、殊に足腰が軋む思いがした。骨の髄から伝わる痛みで熟睡もできない。痛みを和らげるには、酒が何より効果的だった。自ずと度数の高い酒を求めるようになる。毎晩、焼酎を呷った。
 一年ほどで、別の事業部が活況となり拾ってもらえた。漸く元の生活を取り戻した。

 今や底辺労働者と言えば、派遣労働者がその代名詞になっている。秋葉原の加藤も京アニの青葉も、そうした底辺層の人間たちだ。行き場のない痛みと、怒りが無差別殺人という凶行へと駆り立ててしまった。孤独がそうさせたと言う人もいるが、必ずしもそうではないだろう。ネットで苦しみを吐露する彼らを煽った、匿名の無慈悲な第三者がいたことを忘れてはならない。
 この無責任な連中に何のお咎めのないことが、これらの事件の真因を歪ませているのだ。

 いつの間にか「出稼ぎ」という言葉は、新聞の紙面から姿を消していた。山谷の木賃宿も、今では外国人旅行者がユースホステル代わりに利用していると聞く。良くなったのか悪くなったのか、それでも世の中は少しずつ変わっていく。

「誰も分っちゃ、くれねぇか。」

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