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生成AIとCAD

 もうかれこれ10年くらい前の話になるでしょうか。
 
 打合せスペースに私の図面が置いてあったと同僚が持ってきてくれたのですが、当の私には覚えがない。オレ知らんよ、と言いつつも図面を見ると、確かに私の設計した部品だ。あれ?でもちょっと違うな、、、と眺めていたら隣の課の新人がやって来て、すみません私が置き忘れました、と。
 聞けば新しく展開する海外拠点に製品を移管する計画で、彼が担当として任されたのだと言う。図面はCADサーバからダウンロードしたものを、拠点の都合にあわせて一部修正したものでした。次は気をつけてね、と図面を渡しつつ、うすら寒いものを背中に感じていました。
 
 ドラフターから2D-CADへのシフトは90年代のうちに浸透して行きました。コンピュータを使えばきれいに図面が仕上がるし、修正も容易になります。さらにCADを利用すれば、現行の部品からアレンジして新しい部品の設計を進めることも簡単でした。CADの利用によって設計期間の短縮すら可能になったのです。もちろんその前に、設計図・部品図という名の設計データベースを充実させる必要がありました。
 
 部門リーダーは半ば強引に設計のCAD化を推し進め、担当は否が応でもCADの操作をマスターする必要に追われました。私も経験しましたが、方眼紙からディスプレイへの移行にあたり、顔半分がマヒする顔面神経痛に悩まされることに。等倍でモノを考えていたのが目視に頼らず、数値で追っかける様式に変わったことで、脳が混乱したのが原因だった様です。これもまた慣れによって解決していきました。
 
 CADの利用はもうひとつ大きな利点を生み出しました。熟練した設計者でなくても完成している図面をもとに、悪い言い方ですがコピー&ペーストで、未熟な設計者でも熟練同等の部品設計が可能になったのです。これまでは部品寸法ひとつひとつに設計意図があり、どういう理由でそうした値にしたのかを出図前にプレゼンする必要がありましたが、コピペは「前のモデルと一緒です」の一言であっさり承認が得られる慣例を生み出しました。
これをCAD化を推進するメンバーはこう呼びました。「設計品質の均質化」と。まぁ担当からしたら楽で良かったのですが。
 
 前述の新人とは別の若手の話ですが、彼の担当していた製品でなにかの拍子にボタンが押したままになる不具合が発生しました。原因を分析するのに彼が四苦八苦していたので、ちょっとだけ手助けをしてやることに。
 
私は質問しました。
「ボタンとタクトスイッチの間は、何ミリ隙間を確保してる?」
彼は即答します。「0.3ミリです。」
「よろしい。それでは、なぜ0.3ミリという値にしたんだ?」
彼は答えられません。「前のモデルと一緒にしました。」
そこで私はこう答えました。(これは先輩の受け売りなんですけどねw)

「メーカーの提出したタクトスイッチの図面は見たかい?」「いいえ。」
「おそらく図面には、メーカーの管理公差として0.25ミリという値が書いてあるはずだ。」
「ああ、それで0.3ミリにしたんですね、前のモデルは。」
「ところがね、我々のボタンにも、やっぱりバラツキがある。
 せいぜいバラついてもコンマ1ミリってところかな?」
「はい。」
「0.25と0.1。ワーストな組み合わせでは0.35ミリになる。つまりバラツキ次第では、接触した状態で組み立てられる事になるんだ。」
 
若手はきょとんとした顔でこちらを見る。
 
「俺が若いころは、隙間を0.5ミリにしろと教わった。確実に隙間を設けるために。今の値になったのは、0.5ミリでは感触がイマイチだという指摘が出たからだ。そこでカット&トライで、感触だけで0.3ミリという値が採用されたんだ。やっぱり、バラついたらアウトだったな。」
 
若手は納得できないと言いたそうな顔でこちらを見る。
「今更タクトスイッチに文句はつけられない。こっちのボタンを変更だ。」
「どうして、みなさんはそういう事をキチンと教えてくれないんでしょうか?」
 
 返答に困った。ベテランと言えど、この話を知っている人間は何人もいないだろう。私とてきちんと教育されたわけではない。何かのタイミングで、雑談ついでに聞いたに過ぎない。安全規格のように規格が決まっていればしっかりと理由浸透が図られているのだろうけど、これはそうではない、品位の話なのだ。品位を尊重すべきなのか品質を尊重すべきなのかはその都度、その時の担当者が決める事だ。
 
 まぁ憶えておきなさい。とだけ、彼には伝えておきました。
 
 昨今のAI騒動を見るにつけ、私はこの経験を思い出します。表面的には美麗な、まるでトップ絵師が描いたような素晴らしいイラストの数々。しかしそのテクニックは先達者が苦心の末に構築したもので、なぜそのような表現に至ったのか、先達者の意思までコピーする事はありません。生成されるAIイラストは確かに奇麗だけれど、ひとつひとつ並べてみればお判りになるでしょう。そこに個性はありません。そう正に設計のCAD化で行われた「均質化」が、判で押したような存在感のない、無残な姿を晒しているに過ぎないと感じるのです。

 アートには必ず制作者の意思が介在し、鑑賞する者がその意思を読み取ろうとすることでふたりの間に「会話」が生まれます。アートにおいてこの原則が変わることは、今後も決してないでしょう。ならばどうするのが最良なのか?それを考え、生み出すのが創作者の努めなのです。


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