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「青く、濁る」(1984年・身延町/ゲリラLIVE ver.)鳥居ぴぴき&石見透

鳥居ぴぴき&石見透
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1984年というと、昭和59年。(当然、平成の大合併の前の)山梨県南巨摩郡身延町(やまなしけん みなみこまぐん みのぶちょう)を訪れた際に、新規ヘリポート建造に関して一悶着を起こしている団体と団体に、昼下がり、殆ど巻き込まれるような形で遭遇した。通り雨もあって、山麓に溢れかえった人々は、二進(にっち)も三進(さっち)もいかないような状況だった。
 雨が上がり、鳥居さんは地元の豆腐を平らげたのち、上半身の衣類を脱ぎ捨てて、ゲリラライブを始めた。初めは怒り狂って鳥居さんに南天のど飴を投げつけたり南天ワインを掛けたりする方が多かったが、次第に人々は鳥居さんの歌声と演奏に魅了され、暴動は収まっていった。
 その週はたまたま正規スタッフの過半数がおたふく風邪で寝込んでいた為、臨時アルバイトとしてその時鳥居さんの靴磨きを担当していたアルバイトの私(石見透)も歌や演奏に参加しなければならないような人手不足の状況だったが、流石に当時あれだけカー・ラジオやカラーテレビで頻繁に流れていた「青く、濁る」ならば、合わせの練習無しでも何とか対応出来た。
(そりゃそうだ。私のみならず、音楽をほんの少しだけでも、そう、先っちょだけでも齧っていた者ならば、一流だろうが三流だろうが五流だろうが何流だろうが、当時、鳥居ぴぴきのナンバーを壊れたレコードのように楽器屋で試奏しては、店員さんに煙たがられていたものだ。鳥居さん本人が来るならば兎も角、割合を見てみれば殆どが素人の、芋を洗うかの如き腐る程の大人数が、ひっきりなしに鳥居ナンバーを試奏したのでは、店員さんも嘸(さぞ)かし神経衰弱に悩まされたであろうことは想像に難くない。)

 たまたま蔵を掃除していたらカセットテープが出て来た訳だが、この音源は、確か鳥居さんが四度目のアンコールに応えた時のもの。この日の最後のナンバーとなった。曲が終わると、いつしか雨上がりの青空が夕焼けの橙色に変わっていて、秌(あき)の始まりを告げる赤蜻蛉(あかとんぼ)を、その年においては初めて、見たのをよく憶えている。
 あの後、近くの温泉街の駅の前の小さな定食屋で、「さくら」と「もみじ」の丼を食べた。木に非ず。肉の方だ。その名も「馬鹿丼」。どう読むかは店主には聞けず、
「これをお願いします。」
という発声で、鳥居さんや私を含む一行、全員が注文した。

 美味しかった。


                      文責:非おむろ
                      総責:鳥居ぴぴき


「青く、濁る」(1984年・身延町/ゲリラLIVE ver.)鳥居ぴぴき&石見透

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