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「キリマンジャロ」編曲

編曲:非おむろ
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ドイツのニューエイジ・ミュージック系ユニット Cusco(クスコ) による1981年リリースのアルバム曲「キリマンジャロ」を小学五年生の音楽の教材として輸入した人物及び経緯の全ては霧に包まれ五里を征く。そんな中でも時は流れて、最早〝伝統〟として市民権を得ている。滅茶苦茶な話だ。歴史よ! 時間を捏造され、空間を改竄された歴史よ! 御機嫌いかが!?

嘗てアルファ・ツイッタラー種田山頭火(さねたやま へどぴい)は、

   分け入つても分け入つても青い山

というツイートでバズった。分け入った一歩目と分け入った百歩目と分け入った一万歩目で、仮に同じような青い山が眼前に展開されていようと、それは、同じ筈が無いのである。仮に、道に迷いて、〝空間的に同一座標だとしても〟、体力が、時間が、異なるのだ。

藝術における反復技法の効果の支配を逃れ得ないのは、時間も同じである──怖ろしいことに、主観・客観を問わず。

廿幾分に曲を編み直した、弊「キリマンジャロ」であるが、繰り返しだらけでありながら、一切繰り返しがない。一歩目も百歩目も一万歩目も景色が、経験が、変わらない……〝訳が無い〟のだ。

実際のところ、重複せぬパート毎の組み合わせのアレコレで、本当に二度と同じ小節は無い。(一つか二つ、あっても見過ごせや!)

この曲は〝自分の為の作業用BGM〟というコンセプトも若干あるが、どんな曲も〝自分の為の作業用BGM〟たりえて、どんな曲も〝自分の為の作業妨害用BGM〟たりうるのだから、まあ、野暮な事、気障な事は云いっこ莫(な)し。

皆様もマウンテンデュー……じゃなかった、キリマンジャロを飲みながら、まあ、乗りましょうや!
フォークリフトにでも!

 

   分け入つても分け入つても青い山ならよかつたのに

                       メカ天智天皇


なおマサイ人は「ンガジェガ(ンガジェンガ、ンガイエ・ンガイ、神の家)」と呼ぶこの標高5895 mのKilimanjaroであるが、「キリマ(kilima)」はスワヒリ語で「山」を指し、「ンジャロ(njaro)」はチャガ語で「白さ」を示す。


規模、記簿。
舞う、臙脂。
士等、白。


遙かに遐(とお)く、見(まみ)ゆることの叶わぬ、壮大なキリマ・ンジャロ。その規模は士等をして簿に記しむること能(あた)わず。白。嗚呼、其(その)真白き坦桑尼亜(タンザニア)なる霊峰を、臙脂に犯す夕焼けを、今一度、心に描こう。「キリマンジャロ」。吾等が、「キリマンジャロ」。


 

汝(なれ)、霧満蛇漏(キリマンジャロ)尓(に)赴けざるを嘆く勿れ。
日本の「キリマンジャロ」は、吾等が「キリマンジャロ」は、此処に──小学五年生の見る泡沫の夢として──霧を纏いて鎮座在(ましま)している。

刮目せよ!
刮目せんかいボケ!
おらッ!

                                    
          (2022/05/02 辰野及び箕輪及び南箕輪にて 非おむろ)

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