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僕と『孤独』

京都で働いていたころ、会社の先輩に繋げてもらい知り合った1人の女性がいる。ライター・土門蘭さん。当時から「音読」(おとよみ)というフリーペーパーを発行されていた。

土門さんとは2回くらいしか会ったことはない。しかも飲み会。それでも、妙に印象に残っていて、FACEBOOKでの投稿や記事のシェアをひそかに楽しんでいた。

土門蘭さんの新書「経営者の孤独。」

そんな彼女が近日、新しい本を出した。小さな声を届けるWEBマガジン「BAMP」にて連載していたコラムを書籍化したものだ。

経営者1人1人への丁寧なインタビュー。合間合間で語られる土門さんの感想や気づき。対話形式で綴られる言葉たちを読んでいると、彼女の横で一緒に取材しているような気持ちになってくる。気づけば毎日、お風呂と通勤電車の中で、欠かさず読み進めていた。

僕と『孤独』について考えてみたくなった

僕は経営者ではない。経営者であった過去もなければ、家族に経営者がいるわけでもない。だが、読み進めていくうちに「僕にとっての孤独ってなんだろう」と自然と考えている自分に気がつく。

そんな思考とリンクするように、親との関係、寂しさ、コミュニティ…登場する経営者1人1人から、さまざまな視点で「孤独」が語られていく。その語りに呼応して、僕もまた、色々な切り口から「孤独」を考えていく。

この本は、経営者たちと土門さんからの贈り物だ。そしてきっと、贈られた僕たちが「僕の/私にとっての『孤独』ってなんだろう」と考え、文章にすることが、そのお返しとして相応しいではないかと感じた。だから

僕にとっての『孤独』とはなにか
『孤独』との付き合いはどう変化してきたか

これをテーマに書いてみたいと思う。まずは、僕にとっての『孤独の原体験』である、小さいころの話から始めてみたい。

- 母に言われ続けた一言

僕は小さいころから好奇心が旺盛で、勉強でもゲームでも人づきあいでも、興味を持ったらとことん突き詰めるタイプだった。いつも「なんで××なんだろう?」と考えていたように思う。

「なんであの子は勉強ができるんだろう?」
「どうしてアイツはドッヂボールで最後まで残れるんだろう?」
「こんなにたくさんのビルをいったい誰が建ててるんだろう?」
「どうして同じ時間に目が覚めて、意識しなくても呼吸できるんだろう?」

小学生らしい身近なことから、今となっては考えることもしないような哲学的な問いまで、ありとあらゆることが毎日僕の頭を駆け巡っていた。

考えたことは、だれかに話したくなるものだ。そしてただ話したいだけだから、【それが話していいことなのか、話しちゃいけないことなのか】なんてことは、これっぽっちも考えていなかった。

「ねぇねぇ、今日学校の友だちと話したんだけどね…」嬉々として母に報告すると、決まってこう言われた。

「外で家(うち)の話をしちゃだめ。なに言われるかわからないんだから。」

小さいころの僕は、素直に聞き入れていた。外では家の中のことはしゃべらない。そういうルールなんだと思うようにしていた。

でも、思うようにしていただけで、疑問は消えなかった。

「なんで家のことを外でしゃべっちゃいけないんだろう?」そう考えるけれど、答えは出ない。家で起きたことを話したくても、話せない。母の言葉が脳裏を過って、言いとどまる。そのたびに僕は、寂しさを感じていた。

母にこう言われたとき、なんでいけないんだろうと考えているとき、ふと空の上から自分を見ているような感覚になることがあった。そのときはいつもこう感じていた

(なんだか1人ぼっちだなあ)


これが、僕の『孤独の原体験』だ。

- 親元を離れてもついてくる『孤独』

中高、大学、社会人…歳を重ねることで、母からこの言葉を言われることはほとんどなくなった。僕が母にいちいち報告しなくなったからだ。

オープンで好奇心旺盛なもともとの性格が少しずつ解放されていき「フラットでなんでも話しやすい壁のない人」という印象を持たれるようになった。

それでも、『孤独』は消えてくれなかった。

日ごろは感じなくなった。ただ、どうしようもなく孤独が呼び起こされる場面は無くならなかった。ただみんながどう思うのかに興味があって話したことに対して、クラスメイトや職場の先輩から「なんで知ってるの?」「話しちゃダメでしょ、あそこでは」と責められるたびに、孤独が戻ってくる。

その事実自体に良い悪いの判断なんて存在しないはずなのに
相手によって「話して良いことと悪いこと」に分断される

このことに、僕はとても、とても大きな『寂しさ』を感じる。僕が家で遊んでいたり学校や塾で勉強したりする中で感じたことは、僕にとっては紛れもない「事実」であって、良いことでも悪いことでもないはずだ。なのに、母によって、クラスメイトや職場の先輩によって、話してよいこと・悪いことという「判断、審判」が下される。そのときに僕は孤独になる。

- 『寂しさ』の正体

「経営者の孤独。」の中でも語られていたが、寂しさは期待とのギャップで生まれる感情だと思う。

寂しさを感じるということは、僕の中に大きな期待(願いと言い換えても良い)が存在しているのだろう。その期待はおそらく

事実に対してどう認識したか、どう感じたか。そのこと自体は判断・審判されることなく、無条件に受け入れられたい。できることなら、僕と相手で認識や感じ方を交換しあって、その違いを面白がりたい。

というものだ。めちゃくちゃ簡単に言えば

僕「この間こんなことがあってさー。とってもへこんだんだよねー」
相手「そうかー(受け止め)。私は逆にテンション上がるけど、そういうの」
僕「え、まじで言ってんの?!どういうことよ」

こんなやり取りがしたいのだ。プライべートでのちょっとした会話、仕事の進め方についての相談、どんな場面でも。

- 寂しさと『怒り』

この期待は、小さいころから僕のこころに存在していたのだと思う。小学生の僕も、30歳を超えた今の僕も、この部分はきっと変わらないままだ。

思い返してみると、この期待によって『寂しさ』を感じるときもあれば、『怒り』を感じるときもあった。元々温厚な性格なので、10歳を過ぎたくらいから、怒りという感情を強烈に抱いた記憶は数回しかないのだが、数少ないその経験を思い起こすと、怒りを覚えるときに共通していたのは

僕の「××さんにはこうあってほしい」という期待を裏切る、もしくは著しく蔑ろにしていると感じる行動を相手が取った

ということだ。つまり、寂しさを感じるときとの違いで言うと

  寂しさ=行動の主体は『私』、それに応える客体は『相手』
  怒り=行動の主体は『相手』、それに応える客体は『私』
  ただし、どちらも期待は『私』の中にある

ということになる。ここでいう『私』は、広義で捉えている。僕自身が他人とは思えないほどに近い存在だと感じている他者も『私』の範疇に入る。

- 期待をせず、そのままを受け入れる

このことになんとなく気づいてから、僕はまず『相手』に期待するのをやめた。なんとも冷たい人間のようだが、あくまで「僕の中にある期待を相手に叶えてもらおうとするのをやめた」という意味だ。相手がどうであれ、目の前の人やその人のやることをまずは受け入れることにした。こうすることで『怒り』を感じることはほぼ無くなった。

では実際、相手と対峙するプロセスのなにが変わったのかについては正直、うまく説明することができない。まだ感覚的なのだ。いつか良い表現が思いついたら、文章にしてみたい。

そしてつい最近、少しずつ『私』に期待するのもやめられるようになってきている。これまた諦めの極致のような発言だが、まったくネガティブな意味ではない。相手を受け入れるのと同じように「私自身が”ただある”ことによる価値を少しは受け入れられるようになってきた」という意味だ。

世の中的には自己肯定感が上がった、と表現されるのだろうが、だいぶ感覚は違う。肯定も否定もしていないからだ。良いも悪いもなく、ただ信じている。こんな感覚だ。

こう思えるようになってから『寂しさ』を感じる瞬間も少しずつ減ってきている。もちろん、つい期待してしまうときはあるので、相変わらず『怒り』や『寂しさ』を感じること、そこから一連の症状が出てしまうことはあるが、それでも回復はかなり早くなった。

冒頭に書いた母への対峙の仕方も、ここ最近はだいぶ変わった。表面上のやり取り、たとえばLINEでの会話だけを見れば、なにも変わっていない。ただ、僕の中で母に勝手な期待はもうしていないし、ありのままの母を受け入れることができつつある。「価値観が違うんだな、そりゃ親とはいえ僕とは違う他人だから当然か」とフラットに感じてコミュニケーションできるようになってきている。まあ、たまにイラっとはしてしまうのだが(笑)

いま僕は『孤独』を感じているだろうか?

そろそろ文章を綴じようと思う。ここまで、小さいころの『孤独』の原体験から、『寂しさ』と『怒り』という感情の正体と『期待』との関係、そしてこれらとの付き合い方の変化について、僕なりに感じたことを書いてきた。

さて、そんなストーリーを経たいまの僕は、孤独を感じているだろうか?小さいことと比べて、どうだろうか?

よくわからない、というのが率直な気持ちだ。ただ確実なのは、年齢を重ねるごとに、書籍『経営者の孤独。』の中でも語られている「連帯」を感じる瞬間は増えている。怒りや寂しさを感じることが減り、僕自身を受け入れられるようになってきたのも、周囲にいてくれる人たちの存在、その方々との「連帯」によるものが大きい、むしろほぼ100%そのおかげだろうと思う。

『経営者の孤独。』は周りへの感謝を思い出させてくれる1冊

この本を読み、問いを投げかけられ、考えたことにより、これまでの人生、そしていまの僕を見守ってくれている周りの人々に対する感謝の気持ちが湧いてきた。結果、とても今僕は温かい気持ちになれている。

土門さん、贈り物をありがとう。

皆さんもぜひ『経営者の孤独。』を手に取って読んでみてください。そしてお互いの孤独について、話しましょう。




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