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「カエシテ」 第42話

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 この日の朝、加瀨は久し振りにアキの店に顔を見せた。
「あらっ、久し振りね」
 今にも壊れそうな引き戸を引き中に入ると、カウンターの中からアミが笑顔を向けてきた。この日は、両端に一人ずつ男性客がいた。中年と若者だ。
「あぁ、悪いね。最近は忙しかったからさ」
 加瀨は必然的に真ん中の席に腰を下ろした。両サイドの男は、共に焼き魚定食を食べていることで、店内には香ばしい匂いが漂っている。奥の中年は新聞、手前の若者は携帯を見ながら無言で定食を口に運んでいる。店内にはテレビも点いているが、誰も目は向けていない。
「そうなの。今までこんなに来ない時はなかったからさ。引っ越したのか、それとも私の味に飽きたのかと心配していたのよ」
「ちょっと、それじゃあ、まるでホステスみたいじゃないか。勘弁してよ。俺は単に常連客なんだから」
 メニューを選ぼうとしていた加瀨は苦笑いした。新聞を読んでいた中年はチラリと目を向けてきたが、携帯を見ている若者は無反応だ。
「それもそうね」
 アミは照れ笑いを浮かべた。
「で、どうする。久々に来たら何だか痩せたような気がするけど。顔の方も疲れているみたいだし。スタミナが付くようなものの方が良さそうね」
 その後でマジマジと顔を見ると、勝手に何かを作り始めた。どうやら加瀨に選択権はないらしい。
(まぁ、いいか)
 普通の店であれば慌てるところだが、加瀨は任せることにした。アミの腕を信頼していることもあるが、仮に高いメニューを作ったとしても料金は千円ちょっとだ。雑誌社でライターとしてしっかりとした収入のある人間にとって痛くはない。しばらく来ていなかったという負い目からもおとなしくしていた。
「どうせ、ここに来ていなかった間は、ろくな物を食べていなかったんでしょ」
 携帯をいじっていた若者が退店した後で、アミは厨房の中から聞いてきた。相変わらず手は忙しく動いている。
「まぁ、そうだけどね。でも、今はデリバリーとはいえ充実しているからね。しっかりしたものが食べれるんだよ。栄養バランスに関しては問題なかったと思うよ」
 店の奥のテレビに目をやり、加瀨は答えた。テレビでは情報番組が流れている。女が中年男に付け回され怖い思いをしたと顔を隠し、声を変えた状態で訴えかけている。何故、警察に行かずテレビで訴えかけているのか、疑問だ。
「そうかもしれないけど、やっぱり栄養は偏りがちになると思うわよ。デリバリーは。だからね。ほらっ、こういうバランスのいい物を食べないと」
 アミはそう言いながら、料理を盛った皿を加瀨の前に置いていく。野菜炒めにお新香と味噌汁だ。
「ちょっと、朝からこんなに食えないよ」
 目の前に置かれたメニューを見ると加瀨は大きな声を出した。朝は、『風見鶏』に来た時しか食べないが、野菜炒めはもっとも嫌いなメニューだった。いくら皿が小ぶりとは言え、大の苦手なメニューが出たことで逃げに入ったのだ。
「何言っているのよ。これくらい食べないと。まだ若いんだから」
 アミは笑顔を見せたものの、中年が立ち上がったため、レジへ向かった。
(仕方ないな。なら、食べるだけ食べるとするか)
 加瀨は渋々箸を伸ばしていく。
 すると、やはりアミの作った食事は美味しかった。仕事が多忙だったことで、ここ数日の加瀨は、アミに言った通り、コンビニ弁当やデリバリーで済ませていた。それも、決して一日三食ではない。二食の時もあれば、一食の時もあった。コンビニ弁当やデリバリーは味こそしっかりしているものの、アミの作る料理には暖かみが加わっている。そこが客を惹きつけているのかもしれない。
「やっぱりうまいな。ここのメシは」
 加瀨は次々と皿の中のメニューを口に運んでいく。出された時は文句を言っていたが、大の苦手な野菜炒めでさえ、ほとんどなくなっている。
「ありがとう。そう言ってくれるのは加瀨さんだけよ」
 会計を終え戻ってきたアミは嬉しそうだ。目尻を下げている。
「でも、余程忙しいのね。仕事の方は。ライターなんて記事を書くだけじゃないの」
 その後で心配そうに見つめてきた。
「いやっ、決してそれだけじゃないんだよ。ちゃんと取材もしないといけないから。記事を書く前には。それで、取材した内容を元に文章を作り上げていくわけ」
 相変わらず食事の手を動かしながら加瀨は答える。
「そうなんだ。でも、僅か数日でここまで顔が変わっちゃうなんて、ブラック企業なんじゃないの。雑誌社なんて怪しいイメージしかないから。ちゃんと労働基準法を守っているの」
「大丈夫だよ。うちは人がいないだけだから」
 加瀨は苦笑いしている。
「そうは言ってもさ。今の加瀨さんは疲れているわよ。仕事が楽しいのかもしれないけど、ほどほどにしておいた方がいいわよ。どうせ頑張ったところで美味しいところは上の人が持っていくんでしょうから」
 アミはしみじみと話していく。
「大体、人間なんていつ何があるかわからないじゃない。元気な人だって、車に轢かれて死ぬことだってあるんだから。もしそうなったとしたら、後悔だけの人生になってしまうんじゃないの。今のままじゃ。あの時もっとこうしておけばよかったって言っても遅くなっちゃうわよ」
「確かにそうだね。でも、大丈夫だよ。俺はしっかり目指している方向があるから」
 今の話は身に染みたものの、加瀨は笑顔を見せた。
「そうなの。それならいいけど。無理はしない方がいいわよ」
 それでもアミは不安そうだ。
「ありがとう。俺としては、いつかこの苦労が報われる日が来るように頑張っているわけだからさ」
 加瀨は笑顔で言った。今でこそ、ホラー雑誌の記事を書くライターにすぎないが、作家になる夢を秘かに持っていたのだ。記事を書く傍らで執筆活動もしている。そのための勉強として、取材にも積極的に出て話を聞きに行っているわけだ。そうして、創作の幅を広げていたのだ。
「ご馳走様。また来るよ」
「うん、ありがとうね」
 加瀨にそんな夢があることなど知ることなく、アミはいつものように笑顔で見送った。

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