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「悲哀の月」 第18話

 翌日。
「ちょっと話があるんだけど、いいかしら」
 里奈は、雨宮に話を持ちかけた。この日の彼女は休みだった。雨宮は仕事だったが、帰ってきた頃に連絡を入れ、わざわざ彼の住む部屋を訪ねてきたわけである。
「どうしたの。何かあったの」
 雨宮としても動画制作の担当になったことを伝えたかったが、先に話を持ち出されてしまったため、とりあえず聞くことにした。
「実はね。私、明後日から担当病棟が変わるの。今までは入院病棟だったんだけどね。明後日からは、コロナ病棟になるの」
「えっ、コロナ病棟ってまさか、あのコロナウィルスの感染者を受け入れる病棟のこと」
 驚きのあまり雨宮は目を大きく見開いた。コロナの感染者と死亡者は日に日に増えている。連日、ニュースで報じられているため、雨宮も気にしていたのだ。妻がその病棟を担当するというのだ。とてもではないが、自分の話は切り出せなかった。
「うん、そういうこと」
 夫の心配をよそに里奈は説明していく。
「私は医療従事者の端くれとして、コロナに立ち向かっていきたいの。確かに感染は怖いけどね。病院側としても万全の体制を取ってくれるから」
「そうは言ってもさ。未知のウィルスなんだろ。コロナって。まだ完全にわかっていない点だって多いそうじゃないか。それなのに大丈夫なのかよ。そんな危険な病棟を担当して」
 雨宮の心配は尽きないようだ。
「大丈夫よ。病院なんだから。世間よりもずっと情報はあるのよ。その情報を元に対策を取っているんだから」
 里奈は必死に不安を取り除こうとする。
「里奈はそう思っているかもしれないけどさ。俺はとてもじゃないけど、そんな気持ちにはなれないよ。まさか、病院側に無理矢理押しつけられたわけじゃないよな。もしそれなら俺が言ってやるぞ」
「そんなことはないわよ。私が志願したんだから」
 里奈は笑みを見せた。
「そうなのか。でも、世の中ではマスクが不足しているじゃないか。病院は大丈夫なのか」
「まぁね。一応、確保してあるから」
「そうか」
 頷いたものの、雨宮は未だに不安そうだ。何かつけ込む点はないかと探している。
「大丈夫よ。今は大騒ぎしているけど、いつかは必ず収束するから。それまでの辛抱よ。世界では治療薬の開発も始まっているし」
 里奈は必死に理解を求めていく。
「だからさ。健介には少し不安な気持ちにさせてしまうことになるけど、私は大丈夫だから。それだけはわかってほしいってこと」
 気持ちを伝えたが、雨宮の顔は晴れない。
「だって、私は健介と披露宴を挙げるんだから。あれほど時間を掛けて打ち合わせをしたのよ。それなのに、こんなことでフイにするわけがないでしょ。絶対に挙げるわよ。コロナが収束したら」
「そうか。わかったよ」
 披露宴の打ち合わせをしている時の彼女を思い出し、雨宮は少しだけ信じる気持ちになれた。
「でも、一つだけ約束してくれ。少しでも体調がおかしくなったら、すぐに辞めてくれよ。無理しないで」
 だが、しっかりと注文を出した。
「うん、それはわかっている。病院側にも言われているし。私だって、そこまで捧げるつもりはないから」
 里奈は頷いた。
「そうか」
 雨宮はついに認めた。彼女は元から一度言うと聞かないタイプだ。本心を言えば辞めてもらいたいが、そんなことをすればケンカになるだろう。それならば、本人の意思を尊重してあげる方が得策だ。
 だが、そう決めたところで心は晴れない。
 結婚して二ヶ月ほどしか経っていないにも拘わらず、妻がコロナ病棟という戦場に乗り込もうとしているのだ。それを止めることの出来ない自分が情けなくてしょうがなかった。


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