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日向坂46「希望と絶望」を観た帰りに食べたナシゴレンの味

スパイシーで、「夏にいいな」と思いました。


友達に誘われて、日向坂46ドキュメンタリー映画第2弾「希望と絶望 その涙を誰も知らない」を観に行った。劇場で買った復刻版ハッピーウォータは前より30円高かった。

佐々木久美に「この2年間を物語的に消費しないでほしい」みたいな釘を刺されてか、映画はけれんみなしで時系列に沿って希望っぽい状態と絶望っぽい状態を行ったり来たりするような、そしてそれらがどこか離散的なものになっていた。

ひなくり2019で東京ドーム公演がサプライズ発表されて、すぐコロナ禍に。
これが“絶望”的な要素として挙げられていたうちの一つで、コロナ禍における変化といっても、例えば諸々のリモートワーク化などはほぼデジタルネイティブ世代にとって表面上およそそこまで影響がなさそうにも思えるが、その裏側でのコミュニケーションの総量は圧倒的に減っていてそれがそのまま閉塞感に直結しているだろうし、そういった意味でボディーブローのようにじわじわ効いてくるタイプの災厄でもあったんだと思う。加えて、外出自粛期間なんかはメッセージアプリでの発信の占める割合が増えていたが、そんな小規模な独自プラットフォームでは先が見えたものではないし、とてもポジティブにはなれなさそう。

映画では他にもyes with youみたいな名前の無観客ライブにも触れられており、「無観客ライブいまいちパワー出し切れない問題」が前景化された格好となった。「練習は本番のように、本番は練習のように」みたいな言葉もあるけれど、無観客だとずっとリハーサルを繰り返してるだけになってしまうと考えるとそりゃ大変そう。無観客ライブに関しては乃木坂でもたこやきガールのかわい子ちゃんが配信用カメラに映ってない所でパフォーマンスすることの辛さを話していて、有観客ライブをちょっといじっただけの演出は全然好手ではなかったんだろうな、と併せて思った(全てを割り切った感のある2021年春の大ユニット祭りは改善点もあるがよかったと思う)。

ちなみに「問題」はその後のちょい観客入れライブで、月並みに「ライブを成功させるにはファンの皆さまの力が必要だよね」みたく再確認して解決のようになっていた気がする(映画観てから結構経っちゃってて正直あんまり覚えてない。正直あんまり覚えてないです)。

コロナ禍におけるこれらの苦悩をご丁寧に絶望と呼ぶのが適当かどうかは私には分かりかねます。



浴衣みくにんでちょっと休憩



映画で描かれていた他の絶望も不完全なコミュニケーションに起因するもので(とりあえずコミュニケーションのせいにしとけばよくて便利)、ケヤフェスのアレも例外ではないと思っている。

ケヤフェスのアレについては、モザイクのその先も発言の全貌も知らないので文字通り感想しか言えないのだが、映画でヴィラン的に映されていた方たちが言っていたのはおそらく、炎天下のパフォーマンスで体力をどう配分するかであったり(あの方法だと結局その短冊LINEの方を見返すのにエネルギーが消費されてしまいそうで果たしてそれが観客視点で良いと感じるパフォーマンスに寄与するかは疑問なのではないかとも思ってしまいますが。そもそも「観客から見て最高のパフォーマンスをすること」にプライオリティが置かれてるとも限らないんですけどまぁそこは置かれててほしいと思いたいですよねという。でもまぁお偉いさんっぽい人が言ってたんでそれなりに正しいんでしょう)、パフォーマンス力向上のための体力づくりについてであったり(もちろん体力が重要なのは自明だけどどうしても日当たり含む天候や開始時間に依る気温・湿度などの環境的要因の影響も大きそうに思えてしまうし体力は対数関数的に伸びるものだろうから多忙な中体力づくりにリソースを割くのが最善な選択かは怪しい部分もあるのではと眉唾に思ってしまう。正論ではあるんだけど今それ言うのがどれだけ効果的なんだろう、みたいな。でもまぁお偉いさんっぽい人が言ってたんでそれなりに適切なんでしょう。もちろんこれも映画で描かれていた範囲のみからのへぼい感想なので話半分に読み飛ばしてほしかった)、その内容自体は分からなくもないものの、過去の経験から最善と判断して実行したであろう手段が不完全なコミュニケーションによって分かりやすく軋轢の種を生んでしまったものだと考えられる。こう見るとコミュニケーションがいかに肝要であるかを思い知らされたような気がしてくるが、そんなことは元から知っていたような気もする。

「パフォーマンスしていて楽しくない」みたいな恐い証言のあった、多忙を極めた中での2021年の全国ツアーは、LIVEのセトリ・演出に実際にパフォーマンスするメンバーの意見をきちんと反映させる(空気をつくる)という至極当然のようにも感じる方法で健全な状態へと移行させていた。従来の役割分担で効率化を図る方法に綻びが見え始めたことを受けたコミュニケーションというかフィードバック?に関連する解決策であり、映画では最適化が済んだもののように描かれていたが、個人的には他の活動領域ではまだ十分なフィードバックがなされていないんじゃないかと考えていて、それは例えば活動の本丸である楽曲だったりする(前時代的なサウンド、メンバーが楽曲について触れる際の“慎重な”言葉選び、シングル曲より個人PV楽曲の方が好感触なものが多いことなど様々な断面から顕在化していると思っているのだがこれ以上は独りよがりな文句になってしまうのでやめときます。いい歌歌えないのが一番の絶望)。
あと、この映画のプロモーションに当たってメンバーが「絶望って書いてるけど安心してね」みたいなことを繰り返し言っていたのはここでは言及しない方がいい感じですか?てか、これって映画なの?

閑話休題。ファン目線ではメンバーが主体的に参加していると感じるコンテンツが嬉しいのでなるだけフィードバックを大事にしてほしいと思いますが、当然、忙しくてそんな暇ないよ!と言われてしまいそう。でも問題を抱えて機能不全に陥った組織が復活する方法ってだいたいこんな感じじゃないの?と思う。

わがままですが、主体性には心地よさを感じるのです。関係ないのに急にディスっちゃってBINGOシリーズごめんよ



ちょっとひといきティーブレーク(コーラ?)



そうなると、コミュニケーション不足の原因の一つとなる忙しさについても考えたくなってくる。

思考ロックのような状態の多忙へにょガールが「しんどいって言ったら仕事減らされちゃうと思って」とこぼした(個人的にはもう思い出したくない)シーンでは、外野にいるいっぱしのファンの私ですら当時、スケジュール的にもヤバいでしょと感じていたわけで、こんな予期できすぎるシナリオを防げないなんてさすがにマネジメント体制どうなってるんだと思ったが、きっとマネジメント側もカツカツなんだろうと想像するしかない。解決になってないけど
私がいわゆる運営さんに一切の期待をしていないのはこれが理由だったりする。諦念。こういう時ファンとしてどのような態度をとるのが健全なんですか?
(話はそれるが46時間TV含め、たこやきガールのかわい子ちゃんもどうにかならなかったのか、本当に予期できなかったのかと思う)

思考ロックは、ものを考える暇もMPもない中、「仕事を減らしてでも」に続く思考を省略することで探索過程で要する時間とMPを節約しようとする人間の本能的なやつなんだろうと思うけど、思考を止めてしまうと合理的判断ができなくなるから結局よくないよね、でも察するに心根的にも難しいのかな、という。ただ、彼女がたまたま滅茶苦茶ロバストだっただけで、あの感じだと数ヶ月休養を余儀なくされる可能性も全然ありそうだったし、組織として長期的な視座持ててなくない?と感じた(ただ坂道アイドルの活動期間を考えると短期的な成功も必要だろうからジレンマ。あと何をやってもオールラウンダーではなく器用貧乏としか評価してくれない人たちを納得させるのにもがむしゃらさが求められて用いられているんだと思う。結構な絶望だけどこれはまた別の話)。こんなすみっこのファンが考えてることなんで、現場ではふつうに何周も熟慮されてるんだろうけども。

組織とか体制が問題を抱えている状態のことを“絶望”と呼ぶのはなんか違う感じがするんですね。




一休み、人間として成熟するために





連続で休んだってもええねん



結局のところ絶望らしい絶望は、今年の東京ドーム公演直前、ひよさんに関する諸々の説明を受けた渡邉美穂が頽れて泣いたあのシーンぐらいだと思っていて、「(できる範囲での)最善を尽くしても実現できない」ことの絶望感があった。それはそれは残酷で、皆さんハンカチの準備はよろしいですか?な一幕だと思った。

さっきの長期的な視座の話で言うと、ドーム公演の後に「鉄人4」を除いてしばらく動けなくなってしまったことをどう捉えるんだろうと思ったのだが、物語の重みと集団の空気圧が怖くてなにも言えないし進んで考える気にはならない。
(映画の範囲外だけど、今年のケヤフェス後にその頑張ってくれた鉄人4が動けなくなってしまったのはあんまりだよ…と思った。特に写真集発売のタイミングでかかってしまったのはかわいそうすぎる)


絶望らしい絶望と対をなせる綺羅星のような希望はというと、私的には特に見出せなかった。ポジティブな要素はもちろんあったんだけど、希望ではなくもっとささやかなものだと感じた。ただ希望に最も近いと感じたのが久美さんの存在で、それは私が映画を観ていた中で抱いた「久美さんってそんな信じていい人だったんだ」という驚きに表れている。いや、元から結構信用はしてたんだけど「えっ、ここまでいいの!?」「そん〜なちゃんと吟味できる人なんだ」「エレガント!」「着いていきます!」と思った。
“か弱い女”たちの意志を持った野太い声にはユーモアと知性を感じたし、印象に残っている。希望に足るだろうか。

映画を観て私の中の何かの結論が変わるということは特になく、まぁそうやんなぁと思った。そこら辺は予告とかの時点からほぼ変わっていない。変わったのはこのnoteで名前が出てきた二人への理解ぐらいで、そもそもラストシーンみたく二人だけでいるのはあんまり見たことがなかったような。

ほとんど(はちょっと盛ってるかもだけど)ポスターで向かい合ってる小ちゃい二人の映画だった。なんでこんな小ちゃいんですか。
映画としての可食部はあんまりなかったように感じたけど、それは予想通りだった。ただ映画館で観るライブ映像はなかなか良かった。


ナシゴレンみたいな文章をと思って書き始めたんだけど、結局目玉焼きぐらいの感じになってしまったような気がする。


ナシゴレンは美味しかったっちゃ美味しかったんだけど、別に他のを食べても全然よかったと思う。

でも一度観てみないと評価とかはできないし難しい

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