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30年ぶりの「宏池会政権」は新たな時代の端緒となるか~日本の戦後政治は第3のフェーズへ

自民党総裁選は、決選投票の末、岸田文雄氏が河野太郎氏ら3候補を破り新総裁に選ばれた。岸田氏は10月4日に召集される臨時国会で第100代の首相に指名され、日本の新たな舵取りを担うこととなる。直後に衆院の任期満了を控え総選挙が避けられない中での異例の政権発足である。
新型コロナウイルスへの対応などを巡り支持率が低迷した菅内閣からの政権継承は様々な課題も予想され、直ちに岸田総理・総裁の手腕が問われることとなるだろう。

さて総裁選前、自民党の派閥について別稿に著した。
岸田氏は保守本流と呼ばれる名門派閥「宏池会(こうちかい・岸田派)」の会長である。宏池会からの総裁輩出は宮沢喜一首相以来、実に30年ぶりのことである。

(別稿と一部重複する内容になるが)自民党内には二つの大きな派閥の系譜がある。一言でいうと、1955年に保守合同した際の自民党の前身である日本自由党と日本民主党の流れである。日本自由党の党首は吉田茂、日本民主党を中心的に率いたのは岸信介であった。

吉田は先の大戦に否定的で、戦前派の政治家が戦争責任によって公職を追放された後、戦後復興期の政権を担った。
岸は開戦時の閣僚でありA級戦犯の被疑者にもなった。戦後は「戦前派」の政治家として対米姿勢を貫き、改憲や安保改定など日本の自主自立を目指した。
経済政策にも大きな考え方の違いがあり、吉田が戦後の物資の供給や軍備をアメリカに依存することで国民生活の向上=内需の拡大を第一に掲げたのに対し、岸は経済も軍備も自主自立を志向し、戦前のアジア進出を進めたように拡大成長主義をとった。

思想的にも政策的にも大きく異なる二つの右派政党が、当時東アジアで急速に広がりつつあった共産主義に対抗する形で「保守合同」を行う。結果、自民党という一つの政党のうちに二つの大きな潮流が生まれることとなった。

そしてそれは現代に至るまで派閥として脈々と受け継がれているのである。

先に述べたように宏池会は吉田の流れを汲む。対して岸の流れは「清和政策研究会(細田派)」として党内の最大派閥を形成している。
岸の孫である安倍晋三元首相が改憲やグローバリズムを強力に押し進めたことや、岸田新総裁が「新自由主義からの転換」を前面に打ち立てて総裁選を戦ったことは、所属する派閥の誕生の経緯やその歴史と強い相関がある。

下記は自民党の派閥と歴代の総理・総裁を系図にしたものである。系図上の氏名は派閥の領袖、中央の矢印の帯が歴代総理・総裁である。(別稿に掲載したものを加筆修正した)

自民党の系譜03

これを見ればわかるように、復興から高度成長に至る時代のほとんどの期間を「豊かさ路線」を進めた吉田派の総理が占めてきた。ところがバブル崩壊以降の約30年間は「自主自立路線」の岸派=清和研が主導的に政権を担って来たのである。

誤解なきよう断っておくが、二つの路線はどちらが良い悪いというものではなく、要はバランスの問題である。

敗戦後の国力を失った日本にとって国民生活の向上は最重要の課題であったのは間違いない。しかし、在日米軍や自衛隊の問題はいつまでも放置できるものではないし、改憲も先送りして良い課題ではない。
「親米従属」路線が日本の自主自立を妨げてきたという指摘は正しいし、経済の拡大・成長・開放を志向する新自由主義が日本の社会を大きく疲弊させていることも事実である。
東アジア情勢、気象変動、革新的技術の登場、制度の疲労など、時代を取り巻く環境も常に変化する。

政権の役割として最も重要なのは、日本の国益と国民生活の向上という原点に立ちその時代に最も求められる政策を最適な配分で実行する「調整能力」であると私は考える。

客観的に見て、小泉政権以降の自民党の政策はバランスを欠いたものであった。そしてその最も大きな原因は党内の議論が深まらない小選挙区という制度の弊害であることは別稿でも触れた。
自民党が新自由主義、拡大成長経済、緊縮財政、構造改革路線、改憲、強硬右派思想などに傾倒してからすでに20年以上になる。若い世代や2000年以降あたりから政治に触れた党員党友には、自民党は「そういう政党」というイメージしかないかもしれない。いや恐らく多くがそうだろう。

「保守本流」である岸田派が、かつての宏池会の方向性や思想を「政策」として実行できるのか。
あまりにも長く続いたため自民党に染み付いた「ネオリベ・強硬右派路線」からどのように転換していくのか。
あるいは、それに飲み込まれてしまうのか。

日本の政治は重大な岐路に立たされている。
しっかりと行く末を見定めて行きたい。

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