未だに「野村克也・古田敦也の呪縛」に囚われていそうな一部のオールドファン、近視眼的で堪え性のない一部の若手ファン

かなり挑発的なタイトルをつけましたが、ぶっちゃけて言うと「愚痴」の類なのでさもありなん。
「東京ヤクルトスワローズのファン」となると、人数を数え上げたら6ケタ7ケタはいると思うんです。中にはしょうもない人もいるだろうし、反対に聖人君子のような人もいるでしょう。最近は「ステレオタイプと言っても、母数が多ければ多いほど一言二言で表すのは乱暴だよな」と考えることが多いですが、まあ今回はその「乱暴」をやります。「一部」と言う言葉が免罪符にならないくらいの話をします。


野球の「本質」はともかく、「醍醐味」は「100マイルのストレート」や「星にとどくホームラン」ではないのか、と言う疑問。

見出し自体は「Dream Park ~野球場へゆこう~」の歌詞の一部なんですが、これ自体はいい曲といいPVを日本野球機構が作成しているのでぜひ見てみてください。

日本プロ野球界においても野村克也あたりを嚆矢として「データ分析」が始まり、現在ではデータ面ではセイバーメトリクスを筆頭に、動作解析としても投球・打撃・走塁・守備すべての分野に影響が及んでいて、「競技レベルの進化」は加速度的に進んでいます

東京ヤクルトスワローズにおいては、1990年代に黄金時代を築き上げた野村の「ID野球」はスローガンでもあり、アイデンティティでもあったでしょう。
「スワローズ史」なるものがあるとして、「野村克也」と言う存在は間違いなくパラダイムシフトと表現されるでしょう。当時を知るファンであればあるほど、野村の存在を意識し、野球観に影響された人は多かろうと思います。今でもSNSで十分観測出来ますしね。
そして何より、野村の薫陶を受けて球史に残る捕手となった古田敦也の存在も大きい。古田がいた時のヤクルト戦はある種「打者対捕手」の構図になり、ドラフトにおいても「古田さんに受けてもらいたいから」と言う理由で当時制度として存在していた逆指名や自由獲得枠を行使してヤクルトへ入団した投手もいるはずです。惜しむらくは古田「監督」は選手兼任の負担も大きく結果を残せたとは言い難いですが、解説者としては今でも最新の流行を把握しながら的確な解説をしてくれているので(テンションは正味居酒屋だけどそれがまたいい)、球界にとっても貴重な存在でしょう。

ID野球の影響を受けて、少なからずそれを誇りにしているのが東京ヤクルトスワローズの「ファンのアイデンティティ」だとぼくは思っています。実際にぼくもその気はありますし、2015年と2021年・2022年にリーグ優勝を果たしたときの監督である真中満と高津臣吾はともに野村門下生ですから、歴史を知っていれば意識しないことはまずない。

でも、ですよ。

いわゆる「頭を使う野球」は、ファンが何をか発言するにしても相応の知識量と野球と言うスポーツの仕組みを理解する必要があります
それが「足りてないな」と思うことが、現状ままあるとぼくは感じている。
ぼくだって野球の全てを理解しているわけでは当然ないですけど、その完全には程遠い自分ですら「その理屈はおかしい」とすぐ思うレベルの稚拙な言説をよく見ます。
まあSNSと言う媒体に触れているから「そらそうだろ」と言う話ではありますが、言わずにはいられなかったので今回noteとして書いているんですけどね。

で、見出しの話。
いわゆる「ID野球」は、「データを基に采配を取る・作戦を決める・プレーする」が大まかな論理だと思います。それで勝利への確度を高め、実際に野村政権下では4度のリーグ優勝と3度の日本一を達成しているので、歴史上の観点で見ればその効果を疑う余地は少ないです。
しかし、野球は「生身の人間同士が行うスポーツ」。当然データ通りに人間動けるものではないですし、データに基づいてプレーするにしても土台の技術や筋力は要求される。「ID野球の優等生」と称された土橋勝征だって、恐らくは膨大な練習量をこなしてカット打ちや熟練した守備技術を身に着けたはずなんです。
それに、データとは「過去の集積」です。予測は出来ても、未来を予言することは出来ません。活用することで勝利の可能性を高めることは出来ても、将来を約束するものではない

2週間くらい前に同じちなヤクの方とプチオフ会をしてその中で言った言葉を思い出しながら書きますが、言うなればデータや頭を使うと言う行為は「小手先」。技術がなければそもそもデータ通りには動かないし、生身の人間にはデータを凌駕する力があるとも思っています。
「小手先」と言い切っても語弊はあるんですが、どれだけ巧緻に投球を展開したところで、相手打者に圧倒的なパワーでスタンドへ放り込まれてしまえば失点する。相手投手の投球を予測してヤマを張ったところで、分かっていても打てないようなストレートを投げ込まれて空振り三振を喫すれば何も起こらない。
ここが見出しの「醍醐味」に繋がるんですが、プロ野球を「野球を見せるエンターテイメント」として見た時に、チームの勝利ももちろん重要ですけど「(誰もが出来ることではない)160キロのストレートや130メートルの飛距離を出したホームラン」はそのワンプレーだけでファンも、ともすればファンでない人も魅了するムーブになるんです。そこが原始的な野球の楽しさだよね、と「頭でっかちな人」を見るたびに思うようになりました。

長々と書きましたけど、一言で表すと「データとフィジカルの割合が偏っているとおもんないぞ」。この2つは両輪なので、どちらかが肥大しても上手く回らないんです。

データに目を向けるのはいいが、その先に生身の人間がいることを忘れるべきではない。そして「数字だって嘘はつける」。

データの生かし方は野球に限らないんですけど、まず統計は改竄がない限り「見たものそのまま」になります。その統計を基に目的を持って分析するのが「データの活用」になると思います。
しかしグラフにしても表にしても、それを扱う人が恣意的に都合のいい情報を並べれば受け手を誤認・錯覚させることが出来る。マスメディアの報道でも大分前から言われている話ですけど、そこが「数字だって嘘はつける」と言う点です。
その概念を前提において、「ではその統計は誰が生み出すのか」と問われれば、人間を対象にしているなら当然人間が答えになります。


実際にぼくが見た例を基にして、話を展開しましょう。

4月18日終了時点で今季の武岡龍世は4安打、丸山和郁は5安打を記録しています。
ただこの情報を与えられたところで、「武岡4安打・丸山和5安打」と言う額面だけで何をか断定する人はそもそも議論の土俵に上がってはいけません。さすがに情報が少なすぎるのに、ここから説を展開しても乱暴なだけです。
なので当然他のデータを活用しながら見ることになりますが、「打数」を与えると武岡は29、丸山和は7。「打率」では武岡.138、丸山和.714となります。
ここまで情報を与えられれば、少なくとも「打者としての現時点での優劣」は図れます。そこで終わるなら、ぼくは文句も言いませんしここで書くこともないです。

しかし俯瞰で見た時に、武岡と丸山和はそもそも置かれている状況が違う

武岡は内野手、丸山和は外野手でポジションが違うのもありますが、武岡は開幕戦で山田哲人が離脱したあとの二塁手を赤羽由紘や北村拓己と争い、出場機会を半ば与えられた形で伸ばした選手。丸山和は同じ外野手に塩見泰隆、ドミンゴ・サンタナ、青木宣親、西川遥輝といてスタメンの座を埋められ、ここまでその機会には恵まれなかった選手です。
これに付随する話もあるんですが、それは後述します。しかしそもそもの立場が違う2選手を「安打数」で判断するのは的外れでしょう。

客観的に見るならば武岡は山田が離脱しているこの時期がチャンスだったんですが、打率.138では当然「レギュラーに」とはならない。山田の復帰も近いですし、このチャンスを生かせなかったのは武岡の力不足と評価されてもそこは仕方ないんです。事実を見ないふりしてケチをつけるつもりはない。
が、今が打ち出の小槌状態の丸山和と比べて「武岡打てなさすぎなんだよ」はあまり的を射ていないし、セクション冒頭のように「数字を使ってある種の嘘をついている状態」になるとぼくは思っています。比較する意味が全くないとも言わないけど、武岡と丸山和が同じポジションの競争相手であるならともかく、そうではないですからね。

SNSに関する話では、この切り取り方はまあ「武岡を小馬鹿にする」ニュアンスも多分にあるんですよね。結果を残せない選手が一部ファンに揶揄されるのも仕方ないと言うか受け止めなければいけない部分はあるんですが、それを差し引いても揶揄した人物の「人としての評価」はどうなん? とはちょっと考えていいかなと。
「他人からどう見られても構わない」と思うなら止めませんけど、そうでないなら自ら評価を下げる言動をして得をする人はいないのでね。

提案するのはいい。思い付くアイデアは自由。でも「現場がやらない」のには「れっきとした理由や根拠」がある。

で、その「付随する話」です。端的に言うなら、「西川遥輝を二塁手で使え」論。
初めて見た時にぼくはたまげましたよ。「正気の沙汰じゃない」とハッキリ言うくらいには。

西川は北海道日本ハム時代にレギュラーを掴んだ当初、メインポジションは二塁手でした。10年以上前の、選手は知っているけどプレースタイルの詳細まで追えなかったパ・リーグの選手をそこまで把握しているわけではないので事実と違うことを言っているなら申し訳ないんですが、まだバリバリ動ける20代中盤の段階で西川は一塁を挟みつつ外野手へコンバートしています。
西川が外野手へ移った理由は、確か送球難だったはず。当時の北海道日本ハムには二遊間にベテランの金子誠や若手ながら評価の高かった中島卓也、移籍加入の大引啓次にMLBも経験した田中賢介、スーパーサブの飯山裕志らが(全員が同時期に在籍していたわけではないけど)メンツとしていたので、彼らに比べて内野守備が劣ると判断されたであろう西川は守備のメインを外野手へ移したんだろうと推測します。
西川自身の状況を踏まえるならば、西川は2016年以降二塁手としての一軍公式戦出場はなし。そして近年の西川への評価を踏まえれば(ここ3年春先は強いが、夏場以降は尻すぼみに終わる成績。集中力云々はここでは断言しませんが)、強い言葉を使いますけどセカンド西川は「まともな神経をしていれば思い付いても振りかざさない」提案だと思っています。

「可能性」と言う言葉を使うなら、「まともな神経を~」と言っているのは典型的な「固定観念」で、野村克也はそれを「悪」と断じています。それはその通りだから反論しない。
でも現場で西川を内野手として起用しないのは、後述するように「候補は(だけなら)若手でしっかり複数人確保している」ことと、西川自身のコンバート経緯やベテランに差し掛かる故の疲労度の問題をケアしているからだと思うんです。と言うかそもそも思い付いてもいないんじゃないだろうか。
仮にシーズン終盤やポストシーズンで「奥の手」としてセカンド西川を切ったとして、ぼくはそれを責めることはないと思うんですよ。そう言う状況はいわば「切羽詰まっている」ので、やりたくはないけどやらざるを得なかったと考えれば言う気にはならないでしょうから。問題は「4月中旬のシーズンが始まったばかりの段階」で「二塁手起用を見込める若手が複数いるのにその案を出してしまう無思慮」
プロ野球に限らず「みんなが思い付かないことを思いつく俺天才!」をやりたい人は一定数いますけど、現場が実際にやらないのは「メリットとデメリットを天秤にかけて、明らかにデメリットが大きいのを分かっているから」です。中には着実に過程を積み重ねて成功へ導いた人もいますけど、そんなのは一握りです。この手のカウンターは大抵跳ね返されるものだし、この手合いは「着実に過程を積み重ねる」と言う行為が出来ませんから。

もう少し言及すると、東京ヤクルトの二塁手事情としては山田哲人が万全なら替える理由はありません。ただ近年コンディション不良が頻発していてフル出場が難しい中で、次世代を見据えて若手の武岡や赤羽にもチャンスを与える、それが今季の状況です。
記事のタイトルに「近視眼的で堪え性のない」と言ってしまっていますけど、「かつてやっていたから」で西川を「4月中旬の段階で」、「8年やっていない二塁手をやらせよう」とするのはまさにその典型だと思うんですよね。二塁手と外野手では守備にかかる負担が大きいし、シーズンが進むにつれて調子を落とす近年の傾向を把握していればなおさら。
上述したように武岡は結果を出せませんでしたし赤羽も似たような成績なので、山田が戻って来れば山田が悠々と元の鞘に収まるのは武岡と赤羽の問題です。しかし「山田がフルで使えないから」の対策が「セカンド西川」では、相当に「言うに事欠いて」。山田の後釜に同学年の西川が入ることは「あってはならない」レベルですし(これが「近視眼的」)、今いる武岡や赤羽、二軍にいる伊藤琉偉でも小森航大朗でももしくはまだ見ぬドラフト指名選手でもいいですけど、「将来を見据える」と言うことは「若手にチャンスを与えながら育てる」ことです(これを許容出来ないのが「堪え性がない」)。
「起用したところで育つとは限らない」は真理ですけど、「起用しないと育たない」もまた真理なので、これもバランスの問題ではあるけどもっと考えてモノを言った方がいいと思った次第です。

類似例と言うか、スペースでこの話をグチっている時にふっと思ったのは坂口智隆の一塁手コンバートですけど、これもまあ「守備負担は二塁手>外野手>一塁手」で説明があらかたつくかなと。もし例えとして坂口を持って来られても、状況もなにも全然違うので門前払いしますよね。


SNSが普及した近年の傾向なのか、それとも元々一定数いたのがSNSで可視化されやすくなったのかは分かりませんけど、大多数のファンにとってプロ野球は「趣味」でしょう。「趣味だからこそちゃらんぽらんもいいや」、と思う人もいるでしょうし、そこはぼくが言って止められるものでもないので別に構いません。
ただ「趣味だからこそ真剣に追求するのも面白いんじゃないか?」とぼくは考えるタチなので、今の(東京ヤクルトに限らず)プロ野球ファン界隈に対して思うことは結構あります。
一度X(Twitter)のフォロワーさんに「みんながみんな趣味でも本気になれるわけじゃない」と言われたことがあってそれも真理だとは思いますが、どこかのアメリカ人上司みたいに「仕事じゃないんだぞ! 真面目にやれよ!」のメンタルがあってもいいと思うんですよね。いわゆる「意識高い系」になってもまあ…………なんですけど(多分そう見られてる)、趣味だからこそ知的好奇心をフルに鍛えるのはしたほうがいいんじゃないかなと。そっちのほうが絶対人生面白いと思うし、好きな野球に対しての造形も深くなると思うんですよね。

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