1選手1記事語り:館山昌平

館山昌平
経歴:日本大学藤沢高→日本大→ヤクルトスワローズ、東京ヤクルトスワローズ(2002年ドラフト3巡目、2003-2019)
通算成績:279登板 85勝68敗10S24H 1392.0投球回998奪三振 防御率3.32


忘れもしない2015年8月30日、不死鳥の如く見えたあの雄姿。

2015年、東京ヤクルトスワローズは14年振りの優勝に向けて阪神、巨人と三つ巴の争いを繰り広げていました。東京ヤクルトが8月最後の公式戦として、敵地・阪神甲子園球場にあった8月30日。先発のマウンドを託されたのは、2か月前に一軍へ復帰したばかりの館山昌平です。
かつて2008年から5年連続2ケタ勝利をマークし、左腕の石川雅規とともに左右両輪「ダブルエース」として活躍を見せていた館山も、2013年開幕直後に怪我で戦線離脱。そこから2年はトミー・ジョン手術を始めとして度重なる手術を強いられ、一軍の檜舞台からは遠ざかっていました。
復帰した2015年は7月11日の横浜DeNA戦で1019日ぶりの勝利投手となり、8月29日までに3勝をマーク。14年振りのリーグ優勝を目指すチームにとって、先発ローテーションの一角として欠かせない戦力となっていました。

試合は初回、阪神・福留孝介にタイムリーヒットを許して先制点を奪われる展開。打線も序盤は阪神の先発・岩崎優の前に館山自身の1安打と抑えられていました。
しかし4回に無死満塁のチャンスを作ると、二死と追い込まれながら大引啓次の3点タイムリースリーベースヒットで逆転に成功。さらに敬遠で一・三塁としたところで、館山の第2打席を迎えます。その初球――。

(9:08~に指定しています。もしされていなかったらそこまで飛ばしてください)
体勢を若干崩しながらもフルスイングで放った打球は、甲子園のレフトスタンドへアーチを描いて着弾。2010年8月6日の横浜戦以来、プロ2本目のホームランはチームを勝利へ導き、自身の復活を示したものとなりました。
館山は5回1失点でマウンドを降り、救援陣が阪神の8・9回の猛攻を凌いで、11-8で勝利。首位攻防戦でもあったカードを東京ヤクルトが勝ち越し、リーグ優勝へと至るドラマを演じたのでした。

公式スコアは以下の通り。

https://npb.jp/bis/2015/games/s2015083001506.html

なぜこの試合をピックアップしたかと言うと、何を隠そうこの試合、ぼくがレフトスタンドのビジター応援席にいたからです。
ぼくが20歳の誕生日を迎えたあの日、当時でもまだギリギリやっていたmixiのお友達の方にチケットを取ってもらって観に行きました。大阪の大学に通っていたぼくとしては「普通に行ける範囲」でしたので大学生の自由さを謳歌しながら、リーグ優勝に向かって歩を進めるチームの雄姿を一目見たいと願ったのかも知れません、まだ行って数回の甲子園に(若干の阪神ファンに対する怖さも含みながら)足を運んだものです。
もちろん、館山が大怪我と手術を経て復活したことは頭に入っています。「復活のシナリオ」を描いている館山に対しての思い入れは、当時所属していた全選手の中では3本の指に入るくらいあったはずです。
館山のホームランの前に大引の適時三塁打があったわけですが、さらなるチャンスを迎えた中で館山が放ったホームランは、まさに「奇跡」と言えるモノ。小雨交じりで当時は1ブロックしかなかったようなビジター応援席が狂喜乱舞し、得点時のテーマである東京音頭をバックにファンが傘を振る中、ぼくは思わず涙腺が決壊して傘を振れず、東京音頭も満足に歌えなかったことを覚えています。野球で泣いたのは、これが初めてでした。

この後野球で泣いたのは、それこそこの年のリーグ優勝を果たした試合と、あとは2021年に20年振りの日本一を達成した試合くらいでしょうか。
それでも2021年の時はまだ6年前の記憶が色濃く残っていたので号泣とまで行きませんでしたが、2015年の2試合は文字通りの「号泣」。それも現地で人目も憚らず号泣したのは、2015年8月30日が最後だと思います。

当時まだガラケーだったので今見たら低画質も低画質ながら、目一杯ズームして撮ったマウンド上の館山。
試合終了時のスコアボード。ガラケーで低画質なので、文字がぼやけまくってますが許して。

ぼくにとっては「花の2002年ドラフト」、その一角として。

以前山部の記事で触れたんですが、ぼくと野球に関してエポックメーキング的な年となったのが2003年です。
この2003年にルーキーとしてプロ入りした選手のうち、おおよそ大卒の選手はいわゆる「松坂世代」となります。館山もそのひとりで、この年ルーキーとしてプロ入りした大卒選手には巨人の木佐貫洋・久保裕也・矢野謙次、中日・小林正人、阪神の杉山直久・江草仁貴・久保田智之・林威助、広島東洋・永川勝浩、横浜の村田修一・木村昇吾、西武の後藤武敏・長田秀一郎・小野寺力、大阪近鉄・大西宏明、福岡ダイエーの和田毅・新垣渚、日本ハムの小谷野栄一・紺田敏正、オリックスの加藤大輔・中島俊哉ら錚々たるメンツが揃っています(球団名は指名された当時のもの)。当時は知らず後に2008年の「パワプロ15」とネットミームを経て知ることになりますが、多田野数人も注目株の一人でした。

この2002年ドラフトは大卒選手だけでも確かに成功した選手が多く、高卒や社会人でも活躍した選手が多いです。それとこの年のルーキーは後に東京ヤクルトでプレーした選手も多く、ヤクルトに指名された選手はもちろんのこと(この中に1巡目の高井雄平が含まれる)、森岡良介(中日1巡)・小野寺力(西武4巡)・坂口智隆(大阪近鉄1巡)・阿部健太(大阪近鉄4巡)・新垣渚(福岡ダイエー自由獲得枠)が後に移籍加入しました。
ぼくにとってこの2003年がプロ野球の歴史を見る上で、ひとつ基準となっていることも以前どこかで話したと思います。自然、この年のルーキーも他の年よりは愛着があり、今でも福岡ソフトバンクでプレーする和田毅のことは多少気にかかっています。

館山に関して言えば、ぼくが初めてプレーした野球ゲームである「パープレ2003(春の開幕版)」に彼は収録されておらず、2008年に「パワプロ15」で戻ってくるまで情報はほぼ無し。当然、2005年に一度2ケタ勝利を挙げたことも、そこから怪我をしたこと、2007年に滅茶苦茶な起用をされて12敗を喫したことも知りませんでした。2007年の成績が多分に影響される「パワプロ15」での館山の能力は決して高いものとは言えないだけに、「再会」した印象は「お、おう…………」となったものです。ただ上述したように、館山は2008年から2ケタ勝利をマーク。同年オフに収録された「パワポケ11」では能力が高く、そこでイメージが一気に上方修正されました。

5年間の活躍はこれも上述しましたが、実はその当時は環境がないためリアルタイムで野球中継は見れておらず、ゲームの能力で知る程度。それでも館山の存在感は確かに感じたし、2009年のクライマックスシリーズ初進出や2010年の「メークミルミル」、2011年シーズンを見て「館山と石川がいれば近いうちのリーグ優勝も夢じゃない」、「この2人が元気なうちにリーグ優勝を」と思っていたと思います。
しかし、現実は非情でした。2013年から館山が相次ぐ怪我によって戦線を離脱し、それに呼応するかのようにチームも2年連続で最下位に低迷。石川も2013年は6勝止まり、2014年は2ケタ勝利こそ挙げるものの防御率4.75と全く安定感の無い成績でした。

そんな鬱屈した思いを晴らしたのが、2015年。
石川は自己最多の13勝を挙げ、館山も復活し6勝をマーク。先発ローテーションでは小川泰弘も2ケタ勝利を挙げ、救援陣はオーランド・ロマン、ローガン・オンドルセク、トニー・バーネットの「ROB」とリーグ最多登板の秋吉亮が獅子奮迅の活躍。野手陣は首位打者・川端慎吾、打点王・畠山和洋と、本塁打王でトリプルスリーを達成した山田哲人の3本柱がリーグを席巻し、14年振りの悲願を達成したのです。

輝きを失ったベテランの、それでも野球を愛しようとした姿を見て。

2015年にリーグ優勝を果たし、日本一こそ逃したものの「来年こそは」と気勢を上げていたのは、チームもファンもだったでしょう。しかし、そこからまた東京ヤクルトは雌伏の時を強いられます。それに呼応するかのように、館山も2016年以降は苦難の道を歩むことになりました。
2016年、「右のエース」としてフル回転を期待した館山は1勝を挙げるに留まり、防御率も7.24と乱調。2017年以降は再び怪我と闘い、3年間で9試合に先発して勝ち星はなく、最後はまさしく力尽きたかのような印象を受けました。

館山と言えば、彼を知るプロ野球ファンならほとんどが「怪我」のイメージを持っているものと思います。それもそのはずで、トミー・ジョン手術は3回も経験。9度に渡ってメスを入れた体には191針の傷跡が残っています。
それでも館山は、「絶対に怪我を理由に引退したくない」と自身の運命に抗い続け、誰がどう見てもボロボロになりながらもあがき続けました。

一ファンとしては「石川と館山が元気なうちに日本一を」と願っていましたが、2019年に館山が現役を引退したことでそれは叶わず。「コーチに残ってでも」と思っていましたが、2020年から館山は東北楽天の投手コーチへ就任。2021年の日本一に、館山が現場に居合わせることはありませんでした。
まあこの願いは一ファンの勝手な願いなので、「どうでもいい」と言われればそれまででしょう。しかし館山の性格や言動、チームへの貢献度を見るに、決してリーグ優勝や日本一とは縁があるわけではなかった中で「なんとか美酒を」と願わずにはいられませんでした。
2015年のリーグ優勝には館山もその輪に加わっていたこともあり、幾分かその願いは叶いました。しかし、100%は叶わず。

結果的には2015年が、火が消える直前盛んに燃え上がるロウソクのような「最後の輝き」となり、最後の4年間は苦しんだ館山。
他人の感情を勝手に語るなんて無粋なことはしてもしょうがないんですが、ただそれでも館山のプロ野球選手人生は幸せだったんじゃないかと。少なくともぼくはそう思いたい。

2023年シーズンは独立リーグのベースボール・チャレンジ・リーグに所属する福島レッドホープスで投手チーフコーチを務める館山は、NPB入りを目指す独立リーガーを相手に自身の経験も交えながら指導していると思います。
館山の意思もあるでしょうし、福島でやるべきことや求められていることがあるならそこに居るのが野球界のためだとも思いますが、ぼくのわがままを許してもらえるなら、いずれは東京ヤクルトに戻って欲しいなと。
館山の野球に対する姿勢は必ず学び取るものが多いと思うし、選手としては果たせなかった日本一をコーチとして、と言う思いも多分にあります。

最後に白状しますが、この記事を書くのに最初は「ぼくが今日(8月30日)誕生日で、じゃあ一番思い出に残っている誕生日に絡めてやろう」と思っていました。
だけど、思ったよりぼくは館山に対して入れ込んでいたみたいです。それは過去への憧憬なのかも知れない。ですが、2010年代の東京ヤクルトを語るのに欠かせない選手だろう館山のことを忘れないために8年前を思い出して書いたことは、未来に向かって行くにつれ薄れていく館山への印象や評価を少しでもプラスに持って行けるかも、と思えばそれに勝る喜びもありません。

この記事が参加している募集

野球が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?