1選手1記事語り:山部太

山部太
経歴:八幡浜工業高→NTT四国→ヤクルトスワローズ、東京ヤクルトスワローズ(1993年ドラフト1位、1994-2006)
通算成績:269登板 45勝45敗2S6H 740.2投球回651奪三振 防御率4.40


「1発目」は、ちなヤクになったキッカケの選手を。

今回から本格始動するぼくのnoteですが、初っ端と言うことで「どのように書き出そうか」で1日くらい悩みました。
分量的には「背番号」や「ドラフト」より「選手」のほうが圧倒的に多いので、メインは「1選手1記事語り」となるはず。その選手も誰を1発目に持って行こうかとこれも1日くらい考えて、最初に持ってきたのがこの山部と言うワケです。
最初に断っておきますが、基本的には数字をこねくり回して文章を書くのは「ぼくがリアルタイムで見ていない、失礼ながら目立ったエピソードもないような選手」に限ります。今回の山部のような、年代で言えば2000年代くらいからの選手は、基本的にぼくの主観をベースに話を進めます。
また、このnoteでは基本的に画像は使用しません。今時ネットでいくらでも持って来れますけど、著作権や肖像権の問題がありますからね…………。

キッカケは、幼少の頃からの「地元愛」。

ぼくは今三重県在住ですが、3歳から小学校を卒業するまでは父方の実家のある愛媛県に住んでいました。
物心ついた時に野球を知った頃は、ちょうど松坂大輔を筆頭とする「松坂世代」がプロ野球の世界に足を踏み入れた頃でした。当然と言うか、松坂のネームバリューもあってぼくが最初にファンになったのは松坂が入団した西武ライオンズです。まあ、「当時1番好きだった選手は誰なのか」と問われれば、それは松坂と同期の赤田将吾だったわけですが。

ともかく、そこから何年かは西武ファンだったぼくですが、2003年に「鞍替え」をします。
と言うのも、この2003年と言う年は、ぼくにとって「野球をより深く知る」エポックメーキング的な年になったからです。具体的には「初めて選手名鑑を買ってもらった」ことと、「初めての野球ゲームを買ってもらった」こと。
選手名鑑は2つあって、そのうちのひとつに「出身都道府県別の一覧」みたいなのがありました。2003年開幕当時、それまでファンだった西武には愛媛県出身の選手はおらず、一番多いのがヤクルトだったのです。

余談ですが、今でこそ少子化もあるでしょう、片手で数えるほどに減った愛媛県出身の選手ですが、2003年当時の愛媛県はまさしく「野球王国」。2002年ドラフトでは愛媛県の高校から直接だと鎌倉健(川之江高→日本ハム3巡)・阿部健太(松山商業高→大阪近鉄4巡)・松下圭太(三瓶高→阪神12巡)の3人が指名を受けました。
また、2003年開幕当時は巨人にも愛媛県出身の選手はおらず、当時から楽しみにしていた日曜夜の「ザ! 鉄腕! DASH!!」を巨人戦中継で潰されたこともあって、おおよそ小学校を卒業するまではアンチ巨人でもありました。

ともあれ、当時愛媛県出身の選手が多かったヤクルトのファンになったのは、ぼくが野球とともに地図や歴史が好きだったのもあるでしょう。本題からは逸れるので野球以外には触れませんが、「地元愛」と言う点ではぼくは幼少のころから強かった人間なんだと思います。
実際に誰がいたかと言えば、今回の主題である山部太の他に、藤井秀悟・岩村明憲・宮出隆自の4人。しかも、藤井以外の3人はぼくがいたのと同じ南予(愛媛県南部)出身だったのです。
では、その中でなぜ最初に山部を書いたのか。
答えは簡単で、父親と山部の出身校が同じ八幡浜工業高だったから(在籍年は被っていませんが)。

ただ、ぼくが小学生時代を過ごした場所は四国山地の山奥も山奥、かつては「東宇和郡惣川村」と呼ばれていたところ(行政区画としては後に合併を経て「東宇和郡野村町」→「西予市」)。
当時はまだ携帯電話も普及するかしないかと言う時代で、当然小学生には縁のない物でしたし、パソコンを使ったインターネットも学校にあるくらい。情報の入手手段はテレビ・ラジオか新聞に限られ、そのテレビも地上波での巨人戦はともかくBS・CSで他の試合を積極的に見る家庭でもなかったので、なかなかリアルタイムの新鮮な情報は入って来ませんでした。
ちなみに小学生時代、旧野村町出身の有名人であり「我が町の誇り」としていたのは大相撲力士、現在は片男波親方として活躍されている元関脇・玉春日。しかし、今でこそ大相撲のファンであり中継は欠かさず見るぼくですが、玉春日の現役当時は大相撲中継を見ることもなく。2008年の現役引退を知ったのも随分後になってからでした。

現役時代の雄姿を見られず、後からネットで追憶するしかない中で。

上述の山部・藤井・岩村・宮出のうち、最初に引退したのは山部です。
現役最終年の2006年はぼくが当時小学5年生で、先述の通り情報は入って来ません。当然と言うかリアルタイムでは引退を知らず、2008年に中学1年生になり三重県へ引っ越して、買ってもらった「パワプロ15」のマイライフで東京ヤクルトの二軍コーチを務めている山部を見て、初めて引退を知ったものです。
「パワプロ15」の2008年当時、岩村はメジャーリーグでプレーしていたので収録はされていませんでしたが、宮出は変わらず東京ヤクルトで、藤井は前年オフのトレードで北海道日本ハムでプレー。その後は動画サイトで検索することもあり、のちの「パワプロ」シリーズでの収録もありリアルタイムで現役時の活躍を知ってはいます。
ただ、山部についてはぼくの中では謎のまま。今に至るまで積極的に動画サイトで山部のプレーを検索してもいないので、本当にプレーしている姿は見れていません。
別に運営しているはてなブログでは「パワプロ」で山部のキャリアハイシーズンを査定して作成したこともありますが(最初期なので作り込みが甘いとは今思えば思うけど)、それもデータから類推したもの。映像は参考にしませんでした。

ネットに触れる中で目にした山部の「評価」についてですが、2007年から2010年にかけての第1次、2014年から2015年にかけての第2次、それぞれのコーチ時代のそれに関しては、ぼくはあまりポジティブなものを聞いた覚えはありません。
当時の東京ヤクルトは基本的に「打高投低」のチームなので、その「低」を背負わされた投手コーチの評価は高くなり辛かったのかも知れません。Wikipediaではある程度ポジティブに書いてくれてはいますが、それは多分執筆した人が言葉を選んでくれたんだろうな、と。
ぼくが客観的に見ても「全くの無能」だとは思わないけど、じゃあ敏腕だったかと言えば、そうとも言い辛いわけで。

でも。
選手としては1995年に16勝を挙げてリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、実働13年はプロ野球選手の「平均」からすれば上回っています。
先述の赤田もそうなんですけど、ぼくがプロ野球選手の特に「通算成績」を見る時に、ある程度基準になったのが打者であれば赤田、投手であれば山部なのかも知れません。投手の通算成績に関しては、この後にぼくの中での基準が下がるんですが。

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