戦後78年目を迎えて

日本にとって、日本人にとって、「1945年8月15日」は特別な日であるはずです。
その受け取り方は各自の思想信条にも因るので、そこに触れるつもりはありません。ただ、(恐らくは)1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争終結まで足掛け14年に渡って続いた、日本人の価値観に大きな影響を与えた「先の戦争」は、今なお日本と日本人に少なくない「課題」をもたらしていると思います。
それは2022年2月から続く、ロシアのウクライナ侵攻でリアルタイムかつダイレクトに考えさせられることでもあるはずです。今回はそこにもあまり触れませんが(政治的かつリアルタイムで起こっている話は積極的にしたくないので、多分この先も触れることはないと思うけど)。

今回は、ぼくが「戦争」について思っていることを書き連ねていきます。
多くの日本人にとっては、少なくとも身近な存在ではなくなっている「戦争」について、この季節だからこそ考える機会があってもいいと思います。


日本の野球史にその名を留める「沢村栄治」。

ぼくに限らず、日本人にとって「戦争と言えば?」と問われたら、それは「太平洋戦争(もしくは第二次世界大戦)」を思い浮かべる人は多いはずです。単純に日本と言う国家が、最後に直接経験した戦争がこれだからと言うのもあるでしょう。
平成生まれのぼくにとって、ニュースなどで初めて触れた「戦争」は「イラク戦争」だったように思います。それでもイラク戦争は日本が直接参加した戦争ではないので、「遠い国の話だな」とはなりました。
戦争から話を広げるとして、例えば艦艇や戦車のプラモデルなど、もしくはミリタリーそのものに興味のある子どもだったら、まだ捉え方も変わったかもしれません。のちに艦船擬人化ゲームのひとつである「艦これ」を流行に乗る形で3~4年くらいやっていたこともありましたが、「艦これ」は主に大学時代にやっていた話なので、知識としてその方面だけ他の人よりほんのりあるとは思いますが価値観の形成に影響を与えるまでには至っていません。

では、小学生時代のぼくがどこで「戦争」に対する価値観を形成するに至ったか。
そのうちのひとつは、「沢村栄治」になります。

プロ野球ファンにとって、「沢村栄治」は特別な存在であるはずです。
日本プロ野球で最高とされる投手に与えられるタイトルの名前は、沢村の名前を冠した「沢村栄治賞」。戦前のプロ野球黎明期においてその剛球で名を馳せ、最期は戦火に散った伝説の名投手を、今なお知るファンは多いでしょう。
当時小学生で、野球を覚えたてだったぼくでもすぐに知りました。具体的にどこで沢村の名を知ったかは明確に覚えていませんが、ぼくが「歴史を好きな人間」だと言うのを差し引いても幼心に「こんな凄い投手がいたんだ」とはなっていたと思います。

ところで小学生当時、何回か小学校に来た移動図書館にある本で、ぼくが好んで読んでいたのは名球会の漫画でした。内容としては、基本的に名球会に入会した選手の半生を漫画に起こして紹介したものだったはずです。
漫画が発表された当時の名球会入会条件は「昭和生まれ」と決まっていたので、大正生まれだとその条件を満たしません。例えば大正生まれで従軍経験があり、かつ記録としては名球会の入会条件を満たしている215勝を記録した杉下茂であれば、戦場でのエピソードもあります。
しかし、昭和生まれで従軍経験があるプロ野球経験者は、恐らくいても数が相当少ないのではないでしょうか。名球会に入った選手で従軍経験がある場合、漫画にそのエピソードを入れるはずで印象にも残るはず。それを覚えていないと言うことは、そう言うことだと思います。

ともあれ、まだインターネットに触れる環境がない中ででも知っていた「沢村栄治」と言う存在。好きな野球を通して触れた「戦争」を考えるには、うってつけの存在であったと言えます。
「野球と戦争」に関してぼくが出す結論に関しては、某ネット掲示板風に言えば「やっぱり戦争ってクソだわ」。

沢村本人に関して言えば、3度の応召を経て剛球を生み出した肩が壊れてしまったので、少なくとも戦争を生き抜いたとしても戦後満足なプレーが出来たとは思えません。だからと言って「戦争そのものを起こさなければよかったじゃないか」と言うのも、戦争が起きるに至る歴史認識や思想信条を抜きに、沢村だけを論じるのであれば暴論でしょう。
ただ、それ以外の選手に関して。
現在東京ドームに敷地内にある、戦没したプロ野球選手の功績を称える「鎮魂の碑」には、76名がその名を刻まれています。
その彼らが、もし戦争によって選手生命を奪われなければ。
当時はまだプロ野球の黎明期で、「職業野球」と蔑視されることも多かった時代です。そんな中でも白球を追い、足跡を残した彼らを思うと、いたたまれない気持ちになります。

身近な存在として幼心に残った「戦没者芳名録」。

「打ち砕かれた華やかな存在」としてプロ野球を挙げるなら、「身近な存在」として挙がるのは地元の郷土史(自治体史)です。
ぼくの手元には、3歳から小学校卒業までを過ごした愛媛県東宇和郡惣川村(現西予市)の自治体史、「惣川誌」があります。

「惣川村」自体は以前触れましたが、改めて紹介しておきましょう。
現在は愛媛県西予市そして旧野村町の最東端、大字で言えば東から大野ヶ原・小松・惣川・舟戸の4つを行政区域としていた惣川村は、地図(特に衛星写真)で見てもらえれば分かる通り「文字通りの山の中」に位置しています。
ぼくが直接惣川村で経験した話はいずれ語るとして、四国山地の只中にあり過疎化の影響をモロに受けている惣川村。2023年7月末のデータでは365人となっていますが、野村町への合併前年である1954年4月1日時点での人口は3607人。それでも少ないとは言え、かつて暮らしていたぼくだからこその感想かも知れませんが「あんな山ん中によく3607人もいたよなぁ」と思います。

四国の一寒村とも言っていい惣川村も、「戦争」は切っても切り離せません。山間にあることで「集団疎開」の受け入れ先になっていた惣川村ではありますが、戦争の激化によって応召される人数は増え、物資が不足する中で「惣川誌」にもその生活が困窮する様を克明に綴られています。
そう言った戦時中の回想も胸を打つ部分がありましたが、小学生当時のぼくが「惣川誌」を読んで衝撃を受けたのが「戦没者芳名録」でした。
日本が近代国家になってから経験した日清・日露・満州事変→日中戦争→太平洋戦争の3つの戦争について惣川村から出征した人の記述がありますが、日清戦争では計5名に留まり、戦死者もなし。日露戦争も5人に留まっています。しかし満州事変から太平洋戦争に至る14年の戦争では、以下の記述がみられるほどの影響を受けました。

太平洋戦争は満州事変から通算すると実に14年にわたる長い戦であり、この戦の間に村からは2世帯に1人の割で兵を出し、5世帯に1人の割で戦死者を出したのをはじめ、村の住民は戦争によって深刻な影響を受けた。銃後も戦場だったのである。

「惣川誌」

惣川村出身者で「生きて再び故郷の土地を踏めなかった人の数」は、83人を数えます。また、終戦間際の1945年8月12日にはアメリカ空軍の爆撃機が投下した爆弾によって、1人の老婆が命を落としました。
また、戦時下の物資不足などで栄養失調に陥り、満足な医療が受けられずに亡くなった人、戦地から帰って来ても病を得てすぐに亡くなられた人、障害を抱えた人もいます。

ぼくの身内の、近しい親戚に戦没者はいません。少なくとも聞いたことはないです。
父方の祖父は徴兵年齢に達さなかったためにそもそも兵役に就いたことがなく、ぼくが生まれる十数年前に早くして亡くなった母方の祖父は従軍経験こそありますが(南方戦線に行っていたようです)、幸い戦死することはありませんでした。なので、身内から「生きた話」を聞いたことはありません。
しかし友達の中には戦死者を出した(であろう)家もいます。その家族から戦争の話を聞くことはありませんでしたが、集落から少し外れた墓地にある戦死者用にあつらえられた立派な墓石を見て「察し」はしていました。他人の家の墓地はみだりに入るところでもないので、「そのような墓石があった」と言うことだけの記憶ですが、それでもこびりつくように覚えているので子供心に思うことはあったんだと思います。

「戦没者芳名録」には戦死者の氏名のほかに、戦没年月日・戦没場所・兵種階級・部落(註:ここでは単に「集落」の意。現在は多くが小字として残っています)が記されています。
戦没場所が詳しく書かれておらず「ビルマ(現:ミャンマー)」、「南太平洋方面」などと曖昧にしか分からない人もいれば、一般に終戦記念日とされる1945年8月15日を過ぎた後に戦没されてしまった人も8人います。惣川村出身者で一番遅い戦没者の年月日は1947年12月26日。戦没場所が「ソ連ハバロフスカ州(ロシア連邦ハバロフスク地方)」と記載されているので、恐らくこの方はシベリア抑留の被害者だったのではないでしょうか。
83名と言う戦死者の数は、決して少なくありません。ズラッと並ぶ戦没者芳名録を見た時に感じた…………執筆にあたって読み返しても改めて思った…………「無言の叫び」は、きっとぼくが死ぬまで忘れることのない、魂を揺さぶるものです。

いわゆる「平和学習」においては、ぼくが小学生時代の修学旅行で訪れた長崎と、中学・高校時代に訪れた沖縄で受けました。正直なところ長崎の記憶はあまりないんですが、沖縄では「チビチリガマ」や「平和の礎(へいわのいしじ)」の記憶が残っています。それらも価値観や思想信条の形成には影響を及ぼしていますが、やはりぼくの中では身近な存在である惣川村の戦争が大きな存在を示しています。

「不戦の誓い」を立てた先に。

3つ目の見出しについて、いろいろ考えたものの文章はまとまらず。尻切れトンボになってしまうことをお許しください。

「戦争と平和」と言うテーマに対して、様々な角度から様々な思想信条を持つぼくですが、政治的思想信条としては基本的に「中道右派」を自称する身でも「戦争なんかしたくない」わけで。
そのために何が出来るかを、これまでもこの先もずっと考えることになるでしょう。これは人類に課せられた永遠の課題でもあるはずです。

インターネットの普及した現在、人ひとりが持つ影響力は昔よりは上がっているはずです。ぼくそのものは微力も微力の存在だと思いますが、1人ひとりが結束することで叶えられる未来もあるでしょう。
過去の歴史から学んだ教訓を基に、尊い命を望まぬ形で散らした先人に報いるためにも、「8月15日」をひとつのキッカケにして考えてもいいのではないかと思います。

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