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【小説】劇的


『僕がホームランを打ったら、君も手術を受けてくれるかい?』

 もし、手術を受けるならば、成功率は高くても三割で、失敗したら死ぬ。手術を受けないならば、今すぐ死ぬことはないけれど、病院で延命治療を受け続けなければならない。高校二年の春、授業中に急に倒れ病院に運ばれた僕は、そんな選択を医者から迫られた。そのとき僕はどこかで耳にした、この台詞を思い出したのだ。僕自身が誰かに言われたわけではもちろんない。その後調べたら、それは野球の神様と呼ばれたメジャーリーガー、ベーブ・ルースが、病気の子供にかけた台詞だったらしい。
 ルースは見事ホームランを打ち、その子の手術も無事成功したのだとか、結局打てなかったけど気を利かせたラジオのアナウンサーがまるでホームランを打ったかのように実況してみせたのだとか、そもそもこの話まるごとベーブ・ルースの神話、作り話に過ぎないのだとか、色々な噂があったけれど、僕が気になったのはこの話の真偽ではない。「ホームランを打つ」と「手術を受ける」、この二つになんの繋がりがあるのか、という点だ。ホームランを打とうが打てまいが、手術が成功する確率は変動しないはず。確率の授業でやった、それぞれの事象は独立しているというやつだ。だからといってオカルト的に考えても、ホームランを打ったらそこで幸運が消費され、手術の方はむしろ失敗してしまうような気がする。ベーブ・ルースはいったいどのような考えでそんな約束を取りつけたのか。それがどうしても引っかかったのだが、よく考えればそれよりも、なぜこんなことにわざわざ自分が文句をつけているのか、そっちの方が不思議で。僕は、羨んでいたのだろうか。神様——あくまで「野球の」だけれど——に救いの手を差し伸べてもらった、その少年のことを。



 七時になった。病室のテレビを点ける。試合は四回の表、ホームチームである地元の球団エレファンツは早くも五点を取られ、敗戦処理の中継ぎ投手が覇気のない表情でマウンドに立っている。うむ、見慣れた展開だ。

 僕は、手術を受けるつもりはない。七割の確率で命を失う賭けなんて、世界の半分が差し出されたとしても乗りはしないだろう。僕が死んだら、世界のすべてが失われるのだから。それでも、手術を受けないという決断を口にすることができないのは、ふとした瞬間発作のように、手術が成功したときのことを想像してしまうからだ。よく考えてみれば僕の望みは、全然大したものじゃない。この恐怖と退屈で息が詰まりそうな病室から抜け出して、ほんの数か月前のような平凡な日々に戻りたい、ただそれだけなのだ。そんなささやかな願いが叶わないほど、世界は残酷にできていないのではないか? そんな考えが頭をよぎる度に僕は、七割で死ぬんだぞ、と強く自分に言い聞かせる。医者には、手術を受けるなら十月までに決断してほしい、と告げられた。今は八月の終わりだから、あと一か月。それまで腹の底から噴き出る希望を噛み殺し続けられれば、時間がすべてを終わらせてくれる。諦めさせてくれる。そんな抑圧された日々のなかで、野球を観ることは数少ない楽しみだった。いや、楽しみだったというべきだろうか。

 まともに地上波で中継が観られるのが地元球団の試合しかない、という理由だけでエレファンツファン(?)になったにわかの僕だが、そんな僕が思うエレファンツの美点は、弱いところだ。八月末の現時点で最下位の座を不動のものとしている。エレファンツは弱い。当然のように負ける。だからもはや勝敗に執着することなく、穏やかな心で試合を観ることができて、心臓にとてもよい。もし贔屓の球団が優勝争いなんかしていたら、僕の心臓は保たなかっただろう。その代わり、同じ病院に通う熱狂的なエレファンツファンの爺さんは、毎日憤死しそうになっているが。



 僕が野球を観始めるようになった理由のひとつに、野球選手ほど死を経験している人種はいない、ということはあるかもしれない。野球の世界において失敗すること、すなわちアウトになることは、死ぬことに喩えられる。アウトカウントは一死、二死と数え、投手が打者にボールをぶつけると死球になる。サードゴロを一塁でアウトにすれば三塁手には補殺、一塁手には刺殺が記録され、自らがアウトになり走者を次の塁に進めるプレーに犠打だの犠飛だの名前がついている。こんなふうに野球の世界には、死ぬだの殺すだの、物騒な言葉が飛び交っていて、最初はなにを大げさな言い回しを、思っていたが、野球の試合を見始めると、その考えは変わっていった。バッターがアウトになった瞬間、球場にいる何万人ぶんのため息が、画面越しでもはっきりと聴こえてくる。ネット裏ではその場の感情に任せた罵詈雑言が飛び交い、ネット上では顔を隠した不特定多数が選手を好き勝手批判する。アウトになったときに浴びせられる、そんな莫大な負の感情が、ヒットを打った時に沸き起こる歓声よりずっと、僕の心に刻み込まれていた。気がつくと、自分が野球選手になって、打席に立っている。それが最近、一番よく見る悪夢だ。もちろん僕はスイングすらできず、文字通り立っているだけで精いっぱい。三分も経たずに僕は「殺され」て、観客席からの嘆きの声に心臓がぎゅっと握り潰される。それでもなお自身が生きていることからやっと、この世界が夢だと気づくのだ。それから僕は手に持ったバットで自分の頭を思い切り叩き、夢から覚醒する。毎晩そんな悪夢に魘されている僕にとって、アウト=死は、決して間違いとは言えない方程式になっていた。



 七回裏、エレファンツの攻撃。ツーアウトながらランナー二塁のチャンスを作り、次の打者が九番打者、ピッチャーだったため、代打が送られた。ウグイス嬢が高らかにその名を読み上げると、スタンドから悲鳴と歓声の両方が上がる。悲鳴がエレファンツ側、歓声が相手チーム側だ。僕は思わず、身を乗り出した。背番号92、天井鷹男が打席に入る。

 天井鷹男。外野手。右投げ左打ち。高卒五年目、地元の高校出身で甲子園にも出場し、ホームランを打つなどの活躍ぶりから土地の縁もあってエレファンツ入りした選手だ。そんな天井は、僕が今最も注目している選手である。理由は天井がエレファンツで、いやこのリーグにおいて、最も打率が低いバッターだからだ。彼の打率は一割一分四厘。一〇回打席に立って、ようやく一回くらいヒットが打てる、数字上ではそれくらいの確率になる。
 一流選手の目安の打率は三割で、僕の手術の成功率と同じ確率。野球を見始めたのは、三割という確率はいかほどのものか、実感してみたかったという思いもあった。打率三割というのはもちろん、七割打てないということを意味している。そのはずなのに、野球を観ていると三割打者は毎度のようにヒットを打っているように感じた。このままでは、僕の手術も同じように成功してしまうのではないか。そう錯覚するのが怖くて、僕は逆により打率の低い打者に目を向けた。それが、他ならぬ天井だ。さすがに一割打者ともなると、滅多に打たないどころか、最後にヒットを打った打席を思い出すことさえできない。もはや一割も打率があるなんて信じられない、そんな心持ちだ。天井の打席を見る度に、僕は確率の残酷さを思い出すことができる。だから僕は、天井の打席をできるだけ見逃さないようにしていた。

 天井は高めの直球を二球続けて空振り、簡単に追い込まれた。そして三球目、嫌々といった様子で外の変化球に手を出し、ふらふら上がった力のない打球は重力に容易く負け、二塁手のグラブに収まった。平凡なセカンドフライ。中継を通してもはっきり聴こえる観客席からの怒号に、僕は耳を塞ぐ。

 一応地元のスター枠で、足と肩は平均以上(あくまでエレファンツの中で、だが)ということもあり、入団以来天井はそこそこ出場機会に恵まれてきた。ぱっとした成績は残せていないものの、シーズンを通して辛抱強く使ってあげればきっと芽が出るはず、悪いのは堪え性のない球団の方だ、なんてファンの間では言われてたらしい。そんな折、今シーズンの開幕前にエレファンツの監督は、今年は若手を積極的に起用していくと宣言した。その筆頭に名前が挙がったのが、天井だった。まあ、監督としては選手のためというよりも、若手の育成に注力しているように見せることで球団の成績が振るわなくとも言い訳が立つようにしたかったんだろうが。当初はその方針に賛同していたエレファンツだったが、球団記録を更新する勢いで負け続けるチームと、あまりにも不甲斐ない成績を叩き出す天井に、お得意の手のひら返しを始めた。そしてファンの糾弾から逃れるように、シーズン前半はフルイニング出場していた天井は、だんだん試合途中で交代されるようになり、スターティングメンバーから外れる日も多くなり、今では試合終盤の代打や守備固めで見るくらいになった。それに不貞腐れてしまったのか、天井は今日のような雑な打席を見せるようになってしまった……のではない。シーズンの初めから一貫してこんな感じのバッティングだ。パワーがない割に常に打席ではホームランを狙っているかのようなスイングだが、かといって非力を補うべく配球を読んで狙い球を絞る、なんて工夫をしている様子も見られない。ただフィーリングでバットを振り、凡退を繰り返す、ファンにとっては見ていて一番ストレスが溜まるタイプの選手であろう。

 どうやら天井はこれで、三十打席連続でヒットが出ていないらしい。ただこの記録も、長くは続かないだろうと僕は思っていた。そして翌日。そんな僕の予想は見事的中する。天井が二軍に降格したのである。「二軍に落とすのが遅すぎる」、そう書かれたスポーツ新聞の記事からは、エレファンツの専属の記者なのに(だからこそ、か)隠し切れない怒りが文章から滲み出ていて、読んでいて思わず声を漏らしてしまった。天井の姿を再び見ることができるのは、当分先のことになるだろう。そう僕は思った。もしかすると、もう二度と目にすることはないかもしれない。そんな予感が、した。



 しかしその予感は、一週間も経たないうちに、意外な形で覆された。

 僕が病で目までやられていなければ、僕の目の前に立っているチンピラじみた男は他でもない、あの天井鷹男だ。今までテレビの向こうでしか見たことのない天井だったが、今僕の病室で、ベッドに座る僕を見下ろしている。
「手術、俺だったら絶対受けるけどなあ。さっさと決めて、手術受けた方がいいよ。そっちの方が、余計な事考えずに済むし」
 へらへらと、天井は笑う。テレビサイズでしか見たことがなかった、天井の顔つき。目つきは鋭く、鷲鼻で、頬はこけ気味だが不健康には見えない、むしろ猛禽のような獰猛な雰囲気があった。身長は確か一七二センチで、野球選手の中では体格は見劣りするが、いざ目の前で見ると肩幅の広さや筋肉のつき方が一般人と比べ物にならず、テレビで見たときよりもずっと大きく見える。いつも帽子かヘルメットに隠れている緩いパーマのかかった茶髪は、正直似合っていない。根っからの文化部気質である僕は、こういうタイプの人間と仲良くなれたためしはなかった。
 僕が天井に注目している(決して好きなのではなく、注目だ)のを知っているのは、例の野球好きの爺さんと、僕の母さんくらい。そして天井を孫の仇のごとく憎む爺さんが天井を呼ぶわけはないから、きっと母さんが僕を天井のファンだと勘違いし、連絡を取ったのだろう。この感じだと手術の事情についてもけっこう話していそうだ。余計なことを。
 
「しかし、なんもない部屋だなあ。娯楽がマジでテレビしかねえじゃんか。やっぱり早く手術受けようぜ。こんなとこに閉じこもってちゃ、死んでるのと変わんねえよ」
 死、という言葉に僕の心は逆立ったが、天井はそれに勘づく様子もなく、きょろきょろと部屋を見回している。ふと、ベッドの脇に置かれた本が目についたのか、なに読んでんの、と聞いてきて、僕はそれを無視する。このようなやり取りを、このような人間と何度かしたことがあったから。サインとかした方がいい? これも無視。出会って数分も経たないうちに、僕は天井を嫌いになっていた。球場でブーイングを受けている彼に同情していた、過去の自分が馬鹿らしくなるくらいには。ただ、その一番の原因は、手術を受けろなどといった数々の無神経な発言ではなくて(何番目かの原因にはなるだろうけど)、むしろその態度には感心すら覚えていた。
 今まで、手術を受けるかどうかについて他人と話したとき、医者も、友人も、家族でさえも、最後に必ず「最終的には自分で決めろ」という文言をつけ加えた。僕個人の意思を尊重してくれている、というようにも解釈はできないこともないが、たぶん事実は違うだろう。きっと皆、責任を負いたくないんだ。自らの決断が文字通り人の命運を決定するのは恐ろしいから、最後にそういう言い方をするのだろう。でも、僕だって逆の立場ならきっとそう言うから、彼らを責めるわけにもいかない。ゆえに、手術を受けろという天井の言葉は、無責任に見えて、その実大きな責任が伴う発言になる。天井にはその自覚も、責任を取る気もなさそうではあるのだが。
 僕が不快感を覚える一番の原因は、そういうことを容易く口にできる天井の愚かしさ、能天気さだった。僕はいつも、行動する前に余計なことを色々考えてしまう。むしろ自分の考えに縛られて、そもそも行動が起こさないことの方が多いかもしれない。この病室に囚われてから、その傾向はより強くなっている気がした。そういう意味でも天井は、僕と正反対の人間だった。きっと天井は馬鹿で、考えなしで、だけど、いやだからこそ、強くしぶとい。僕の天井に向けている感情は、認めたくないが羨望だとか嫉妬だとか、そういう類の言葉に言い換えられた。
「こんなところで時間潰してていいんですか? 二軍に落ちたばかりなのに」
 天井への複雑な感情から、思わず棘のある口調になってしまうが、天井のにやけ顔は一向に崩れない。
「いや、よくねえよ。だからお前と話せる時間は一時間きっかりだ。それ終わったら練習があるからな。なんかそっちから用があるなら、さっさと済ませてくれよ」
 別に、僕は天井のファンでもなんでもなく、母さんが変に勘違いして勝手に呼んだだけなのだから、用なんてあるはずもない。さっさと帰ってくれ、そう言いたかったけれど、残念ながらひとつだけ、どうしても聞きたいことがあった。ただそんな気持ちを悟られるのは癪だったから、できるだけ面倒くさそうに、なんとか絞り出したふうを装って、僕は問いかける。

「ええと。じゃあ、天井……さんは。打席に立つときに、怖いとか思ったりすることはありますか」
「怖いって、なにが? 頭部死球とか?」
 天井は首を傾げた。僕は夢で何度も見た、自分がアウトになった後の地獄のような光景を思い出す。あんたは現実でそれを体験しているはずなのに、どうしてピンと来ていないのか。これでは、どっちがプロ野球選手かわからない。
「いや、デッドボールもそうですけど。アウトになること、ですよ。あんなに大勢の人から期待されて、でも打てなかったらまるで犯罪者みたいに叩かれる。恐ろしくならないんですか。野球なんて、七割は失敗するスポーツなのに」
 あなたの場合は九割ですけど。その言葉はぎりぎりで飲み込む。天井は少し、驚いたような表情を見せた。
「失敗、失敗ねえ。そんなん考えたことねえな。逆に聞くけどさ、お前はなんかやる前から、失敗すること考えてたりすんのかよ?」
「え、それはそうでしょ。というか、普通はそうだと思いますよ」
 そうだ、僕が普通で、天井がおかしいのだ。誰だって、失敗するのは嫌なはずで、それでいて失敗しない人間なんてこの世には、いない。だから、予防線を張る。だから、成功を信じないようにする。裏切られたときに、傷つかないで済むように。それが普通だと思っていたけれど、天井は、「ほお、最近の若者は器用だねえ」と、感心したかのような声を上げ、言った。
「俺は、そんなこと考えねえけどな。……ていうか、お前が一番望んでいることって、そっちなの? 成功することじゃなくて、失敗しないことなんだ?」

 ストライク、と甲高い声が聞こえた気がした。ぐ、と僕は息を詰まらせる。僕が絶対に来てほしくないと思っていたコースを、天井は突いてきた。天井の言う通り、僕が一番望んでいることは、狭苦しい病室でいつ終わるともわからない延命作業を受けることではない。手術を成功させ、いつもの日常に戻ることだ。今までの人生を振り返ってみても、一番の希望を叶えることよりも、一番の絶望を避けられるような、そんな生き方を僕は選んできた。……そんなに相手が嫌がるボールを投げられるなら、ピッチャーに転向した方がいいんじゃないですか。そんな減らず口を叩きそうになる前に、天井は事もなげに言い放つ。

「もし本当にヒットを打ちたいんだったら、アウトになったときのことは考えない方がいいんだよ。そんなこと考えてたらスイングが鈍って、打てるもんも打てなくなるからな」

 僕は、天井から目を背けた。いや、眩しくて直視できなかったのかも。ロイター板を思い切り踏み込むような、そんなこの男のような生き方が、今までの僕に欠けていた。そして、今の僕には一番必要なものなのかもしれなかった。天井の言葉に、感化されそうになる自分が、確かにそこにはいた。けれど。

「……てか、そもそも観客の声なんて全部無視してるわ。野球ファンってのはてめえは大したもん賭けないくせに、こっちには一方的にいろんなものを託してくる、しょうもないやつらばっかだからな。こちとら自分の生活を賭けて野球やってんだから、あっちもそれ相応のもん賭けないのは不公平だろ。そんなやつらのために、俺は必死にゃなれないね。だから俺がアウトになって、怒ったり落ち込んだりしてる観客のやつらには、心の中でこう言ってやるのさ。……『ざまあみろ!』ってな」

 やけにキレの良いその「ざまあみろ!」のおかげで、僕は感傷から脱することができた。……この男、プロ野球選手どころか、人間の風上にも置くのも躊躇われるような人間性をしてやがる。こんなやつの言葉に心が傾きそうになった自分が恥ずかしくなった。というか、天井はそういうふうに生きて、結局成功してないじゃないか。やはり、天井の生き方は正しくなくて、僕の生き方は間違ってない。その思いが、今度は御しきれずに口を衝く。 
「……でも、天井さんはそれでうまくいってないじゃないですか。打率、一割のくせに」

 ぱちん、と乾いた音が鳴る。一瞬、自分の頬が叩かれたのかとも思ったが、違った。それは天井が自らの手を叩いた音だった。
「そう、それなんだよな!」
 天井はなぜか嬉しそうな表情で、僕の方に人差し指を向けた。
「自慢じゃないけど俺、最近全然打ててねえんだよ。いやまあ、言っちゃえばプロに入ってからずっとなんだけどさ。今シーズンは監督が俺と心中するって言ってたのに、結局二軍落ちしちまったし。そろそろクビも見えてくる、やべえって思ってたら、俺のファンのやつが俺に会いたがってるって聞いてよ。もしかすると俺のことよく見てるやつなら、なんかよさげアドバイスをもらえるんじゃないかなと思ってさ。なんちゃらにもすがる思いで今日ここ来たんだよ」

 曇りがなさすぎて気味が悪い天井の瞳を見ていると、ぐにゃりと視界が歪んだような気がした。こいつ、僕をなんだと思っているんだ。僕が野球についてまともな知識を得たの半年前で、バットを握ったことは夢の中以外一度もないんだぞ。そんな藁よりも掴みどころがないつるつるの素人に、物心ついた頃からずっと野球に打ち込んできた男が、純粋にアドバイスを求めている。いったいなんなんだ、この男は。もちろん、僕は沈黙を守り続けようとしたのだけれど、やがて耐えられなくなるのは当然、色々考えてしまうこっちの方だ。
「ええと、じゃあ、やっぱ、打席で全然考えてないのがダメなんじゃないですか。なんか、ノリで打ってるって感じしますし」
 釈迦に説法、ではないけれど(天井を釈迦に当てはめるなんて、そっちの方が罰当たりだから)、どの立場からモノを言っているんだ、と自分で自分が恥ずかしくなる。しかし天井の方は気に障ったような様子もなく、「確かに。それ、打撃コーチにもさんざん言われてんだよなー」と、担任教師の愚痴に同意するクラスメイトのような軽いノリで、僕に返事をした。
「……でもさ、違うんだ、聞いてくれよ。俺、高三の夏に甲子園に出て、そこで俺の野球人生で最高のバッティングができたことがあるんだよ。んでもってそのときは、なんも考えずに打ってたんだよな」
 聞いてくれよと言っておきながら、天井は僕から視線を外し、遠くを見つめる目になった。なんだこいつは、という呆れを通り越し、もう訳がわからん、と半分理解を放棄しつつ、もう半分は僕も野球ファンの端くれとして、一人の野球選手の生涯最高のバッティングについて知りたくなったから、僕は再び、天井が口を開くのを待った。



 高校三年、最後の夏。天井は初めて甲子園の土を踏んだ。その初戦、三点ビハインドの九回裏、ツーアウト満塁の好機で、天井に打席が回ってきた。そのとき、天井は欠片も緊張や恐れを感じなかった。絶対に打てる、という確信があったからだそうだ。ホームランを打てばお釣りなしの逆転サヨナラの場面で、この俺に打席が回ってくる。こんなに丁寧な前振りが振られて、打てずに終わるわけがない。心底そう思っていた。球場全体が灼熱の砂漠で水を求めるがごとく、自らのホームランを渇望しているように思え、だから天井は、なにも考えずにバットを振る、それだけでよかった。そして初球、真ん中高めに投じられたそのボールから確かに、「打ってください」という声が聞こえ、天井が力みなくバットを振り抜くと、打球は美しい放物線を描いてスタンドへと届いた。歓声を上げる観客。熱狂する甲子園。掌に残る甘く痺れる感触に酔いしれながら、厭味ったらしいくらいゆっくりと、天井は走り出す。それまでの天井は、プロの世界に飛び込むか、推薦で東京の大学に進学するか、迷っていた。しかしダイヤモンドを一周し終えて、天井は確信を持った。このバッティングができるなら、俺は野球で飯が食っていける、と。



 そして天井は、未だそのホームランの余韻の中にいる。

「……うん、やっぱり、あのときのバッティングができたら、俺、ガチで野球の神様になれると思うんだよな。だってなんも考えなくても、絶対ホームラン打てるんだぜ。最強だろ、こんなの」
「いやいや、十割でホームランが打てるバッティングなんか、できるわけないでしょ。確か全盛期の王貞治でも、一〇打席に一回くらいの確率でしかホームラン打ててないはずですし」
「……わかってねえなあ、お前」
 天井は、鼻で大きくため息をついた。腹立たしい。
「確率ってのはさ、全部終わった後についてくるもんなんだよ。ほら、あのイチローさんだって、開幕一打席目の打率は〇割〇分〇厘なんだぜ? そんなの、絶対おかしいじゃん。なんかがうまくいくかどうかってのは、確率じゃ決まらない。もっとこう、目に見えない力で決まるんだよ」
「……目に見えない力って、なんですか」
「そりゃまあ気合とか、根性とか、やる気とかだろ」
 それは今の僕にも、天井にも欠けているものだった。皮肉のつもりで言ったのかもと思ったが、彼にそんな知性があるだろうか。その後天井は、ふと思いついたかのように続けた。「あと、そうだ。流れ、とかもだな」
 『流れ』。野球の解説でよく聞く言葉だ。「攻撃側に流れが来ているので、次のバッターも続きたいですね」とか、「流れが悪いですから、ピッチャーはこのバッターを打ち取りたいところですね」とか。勢いがつくとか、運が向いてくるとか、そういう言葉にも言い換えられるかもしれない。僕は正直、そういったオカルト染みた表現に対して、些か懐疑的ではあった。確率はそんなものに左右されない、きわめて無情で、冷酷なものであるべきだ。三割バッターがヒットを打てる確率はあくまで三割で、天井はどんなシチュエーションであっても九割方凡退し、そして僕の手術は、七割の確率で失敗する。僕はそう考えている、そう考えたいのだけれど、どうやら天井はそうは思っていないようだ。天井は鼻の穴をぷくりと広げて、僕の眉間を指さしながら、言う。
「野球の試合に、『流れ』ってのは本当にあんだよ。エラーしたらその後もエラーが続くとか、ファインプレーの裏の攻撃で大量得点とか。そういう流れってのは、確率みたいなまどろっこしいものを、簡単に超えてくもんなんだよ。ま、野球をやったことないやつにはわからねえだろうけどな」

 ……じゃあなんで、ハナから野球をやったことない僕に助言を求めたんだよ? 天井と会ってから、もう何度目かわからない苛立ち。今度はこっちが、ピッチャー強襲の当たりを食らわせてやる。そう思って頭を回し始めると、ばらばらだった言葉の、それぞれの凹凸がぴたりと嵌ったような感触が走った。「病院」「神様」「確率」「流れ」そして「ホームラン」……

「……天井さん、ベーブ・ルースの話、知ってますか。病院の子供と約束したやつです」
「ん? ……ああ、知ってるよ。『俺がホームランを打ったら、お前も手術を受けろ』って、あれだろ」
 なぜか天井の歯切れが悪くなったが、そんなことはどうでもいい。
「あれ、よく考えたらおかしいですよね。『ホームランを打つ』ことと『手術の成功』に、なんの繋がりもないじゃないですか。あの台詞、ルースがどういう意図で言ったか、想像つきますか」
「知らねえよ」
 わからなかったときは散々いちゃもんをつけていた癖に、わかったとたん得意げになって人に試す。自分の性格のよろしくなさを自覚しつつも、僕の舌は止まらなかった。
「それはですね、きっとルースも病気の少年のために、『流れ』ってやつを作りたかったんですよ。だって、思いません? あの野球の神様、ベーブ・ルースが、ホームランを打ったら手術を受けてくれって少年に約束して、実際にホームランを打って、その流れで手術が失敗するわけないじゃないですか。きっとルースは、誰よりも『流れ』の力をわかってたんですよ」
 野球は筋書きのないドラマ、なんて言われるけれど、ベーブ・ルースはそのシナリオに干渉する力を持っていたのかもしれない。まさしく、「野球の神様」ではないか。僕は興奮し、早口になって捲し立てたが、対照的に天井は白けた表情をしている。
「いや、まあ、それはどうだか知らんけどさ。その話と俺のバッティング、どう関係あるんだよ」
 うっ、と言葉に詰まった。まるで小説の伏線が回収されていくかのような快感に酔いしれていて、本題のことをすっかり忘れてしまっていた。これじゃあストーリーテラーとしては三流もいいところである。僕はひとつ、天井に聴こえないように深呼吸をして、自分の話を立て直しにかかった。大丈夫、入院なんかする遥か昔から、ろくに体を動かさずに屁理屈ばっかり捏ねてた人生なんだ。(野球)馬鹿の一人や二人、説き伏せられないはずがない。
「えーと、だからですね。天井さんも、流れにただ乗りする側じゃなく、流れを作る側になれってことですよ。野球の神様のルースだって、そうしたんですから、天井さん程度がサボれないでしょ。なんも考えずに打つんじゃなく、自分の手で必死になって、流れを手繰り寄せなきゃなんダメです」
「……えー。そういうごちゃごちゃ考えなきゃいけないやり方って、俺の性格には合わねえと思うんだけどな」
「天井さんは今、人生の転機に立っているんですよ。どうしても欲しいものがあるなら、自分の生き方の方を変えなきゃいけないときも、あると思います」
 それはまるで、自分自身にも言い聞かせているようでもあり、でも確実に、十五分後の自分が聞いたら、恥ずかしさで死にたくなるような台詞だった。言い訳を、させてほしい。そのときの僕は、まさにおかしな「流れ」に乗せられていた。そうとしか考えられない。自分の言葉に酔って、場の勢いに流されて、こんな説教じみたことを言ってしまったし、まるでドラマの脚本にあるような芝居がかった台詞も、なんら臆することなく口にすることができてしまったのである。
 
「……だから、天井選手も、僕のためにホームラン打ってくださいよ。僕の手術が、成功するように」
 
 別にこれは、約束でもなんでもなかった。酩酊状態の僕だってさすがに、本気で天井がホームランを打てば手術も成功するなんて信じてないし、そもそも天井がホームランを打てるなんて思っていない。これは、ただの気まぐれでしかなかった。もし僕の言葉に彼が頷いたのであれば。少しでも、別の生き方を受け入れようと思うのであれば。僕の方も少しだけ、彼のような生き方を受け入れてみようかな、なんて気分になっただけだ。そんな僕の言葉を聞いた天井は、今日一番の真剣な表情を見せ、声を潜めてこう言った。

「……それ、ツーベースにまけてくんねえかな?」



 七時になった。病室のテレビを点ける。試合は現在三回の表、ホームチームのエレファンツは三対二で今のところリードしていた。

 シーズンも残り数試合というところで、天井はぎりぎり一軍へと戻ってきた。二軍の試合までは観ておらず、成績しかチェックしていないので詳しいことは知らないが、数字だけ見るなら打率は二割八分と、悪くはなかった。天井は一軍に復帰してから、守備固めとして一度試合に出ている。ただ、打席には立たずじまいで、エレファンツは今日、最終戦を迎えていた。そして同時に今日は、僕が手術を受けるか否かを決める期限の最終日でもある。未だに僕は決断しかねているけれど、もちろん例の約束でもない約束とはなんら関係はなく、なんならこのまま天井のシーズンが終わってしまうのも悪くないと思っていた。ツーベースにまけてくれとまで言っておきながら、打席にすら立てない天井の姿はとても格好悪く、とても愉快だからだ。

 エレファンツは再三の好機を作るものの追加点は挙げられず、八回の表、ホームラン二本を打たれるなど一挙六点を奪われ、ついに逆転を許した。逆転を許すということはすなわち、その時点までは勝っていたということだから、エレファンツも随分成長したのではなかろうか。なんて僕は思ってしまったが、それはさすがに甘すぎるか。エレファンツはもちろん、ダントツの最下位でシーズンを終えることになっている。
 さて、エレファンツが逆転されてから、僕の心臓の鼓動は少しずつ早足になった。天井が打席に立つ可能性が出てきたからだ。緊迫した場面では彼の出る幕はないが、敗色濃厚な今の状況なら可能性はある。そして九回の裏、ツーアウトランナーなし。リリーフのピッチャーに代わって、一か月ぶりに彼の名前が、球場に響き渡る。天井鷹男が、打席へ向かう。

 三分も経たないうちに、天井は追い込まれた。二球とも際どいコースではあったが、すでに勝敗の決したゲームを早く終わらせたいのだろうか、球審の右手は躊躇なく上がった。客席から聞こえるため息も、怒りや苛立ちより、やっぱりね、という諦めの色が強かった。引きのカメラは、出口に向かってとぼとぼ歩いていくエレファンツファンの姿を映している。
 しかし、ここから天井は、予想外の粘りを見せた。高めの直球に必死に食らいつき、タイミングを外された変化球に、体制を崩されながらもバットを伸ばす。ツーストライクをあっさり取られ冷え切った球場も、今まで誰も見たことないような天井の姿に熱を帯び始めた。ついにフルカウントになってからの八球目、投手側が力んだのか痺れを切らしたのか、直球が高めに浮いた。見逃せば確実にフォアボールになる球。しかし天井のバットは迷いなく動き、ファールになる。「追い込まれているカウントですから、手を出してしまったのも仕方ないですね」と、解説もそれらしいコメントをしたけれど、そこから明らかなボール球を天井が三球連続でファールになると、球場も彼から異様な雰囲気を感じ取ったのか、俄かにざわめき始めた。

 カメラが、天井にズームする。いつもへらへらと緩んでいた口元はきつく結ばれていて、もうすっかり秋めいた気温だというのに、額には玉のような汗で濡れている。テレビ越しの天井が小刻みに震えて見えるのは、彼のせいかカメラのせいか、それとも。天井の瞳には、いつもとは異なる色の光が灯っていた。僕はその鈍く揺れる光に、見覚えがある。以前、悪夢に魘されて夜中に目覚めたとき、洗面所の鏡に映りこんでいた僕の瞳と、同じ光だ。疑念は確信へと変わる。天井は今、かつてないほど恐怖していた。そして、その恐れの理由を知っているのは、この世界で僕と天井の二人だけ。あまりにも必死なその姿に、僕は思わず吹き出しそうになる。なにびびってんだ、もっと気楽にやれよ。しょせん賭けられているのは、僕の命くらいのもんなんだから。



 そして、十二球目。ついに、その瞬間は訪れる。真ん中高めのストレート。そのボールが来るのを、ずっと待っていた。



 かん、と乾いた高音が響く。その打球音は、一瞬で観客席の黄色い声に掻き消された。秋の高々とした夜空を、真っ白な放物線が駆けていく。僕はその行方を最後まで追わずとも、アーチが決してスタンドまで届くことがないことがわかってしまった。打った瞬間天井が、猛然と一塁へ向かって走り出したからだ。あの夏、甲子園でホームランを打った天井は、即座にホームランを確信し、悠然とした歩みで一塁ベースへと歩き始めた。その映像は何度も繰り返し見たから、瞼に焼きついている。もし仮に今、天井にあのときのようにホームランを打った手応えがあるならば、テレビの向こうの僕に見せつけるかのように、ちんたらちんたら歩き出すはずだ。……まあ、この打球ならツーベースにはなるだろうけど、それで約束を果たしたつもりかよ? 僕はおまけしてくれという天井の申し出に、最後まで頷かないままに別れたんだけどな。

 そんなことを考えていた矢先、妙なことに気がついた。天井は二塁ベース手前に差し掛かっても、まったくスピードを緩めていないのだ。ボールはまだ外野手の手元、歩いても二塁には間に合うのに。車のギアを上げるように、天井がさらに一段階加速し、力強く二塁ベースを蹴る。そのとき、ようやく僕は理解した。天井はまだ、約束を諦めていないということを。
 天井は自らの力で、無理やりにでもホームランを掴み取ろうとしていた。のんびり打球を処理していた外野手も、球場のざわめきを察して、その動きが機敏になる。三塁手前で、天井は急に失速した。気力の前に、体力が尽きたのか。三塁コーチャーが止まれとジェスチャーをする。それでも彼は、迷うことなく三塁ベースを蹴った。テレビでもわかるくらいに顔を歪ませ、喘ぐように腕を掻き、少しでも前に進もうともがく天井の姿は、あまりに不格好だった。それなのに僕は、その走りから目を離せないでいる。いけ、いけ、と、どこからか声が聞こえてきた。それが自分の無意識に発した声なのだと、後になって気づく。外野手から遊撃手にボールが渡った。遊撃手は一瞬、ホームに投げるのを躊躇う素振りを見せた。天井の走りから滲み出る、謎の執念に怯んだのだろうか。迷った挙句、中途半端な体勢で投じられた送球は、よりによって絶妙のコントロールで、真っ直ぐにキャッチャーミットへと飛び込んでいった。僕は、球場は、短く悲鳴を上げる。

 そして、ホームに辿り着かんとするその寸前で、天井は力尽きた。つんのめるようにして前方に倒れ込む。本人は華麗にヘッドスライディングしたつもりかもしれないけれど、少なくとも僕には、そう見えた。彼が伸ばした右手は、あとわずか数センチ、ベースに届いていない。鎮まり返るスタンド。キャッチャーは非常に気まずそうな様子で、うつ伏せになった天井の頭に優しく触れた。
 タッチアウト、ゲームセット。主審がすべてが終わったことを告げてからも、天井はまるで死んでしまったかのようにいつまでもいつまでも動かないままで。その姿を見つめながら僕は、手術を受けることを決意した。



『僕がホームランを打ったら、君も手術を受けてくれるかい?』
 
 「流れ」はときに確率を超える。野球で、ファインプレー後の攻撃が勢いづくように、エラーがずるずる続いてしまうように、甲子園で一打サヨナラの場面で、必然のホームランが生まれるように。そのことを他でもない野球の神様ベーブ・ルースは知っていて、だからこそ病気の少年にホームランを約束したのだ。自分がホームランを打てば、そんな劇的な展開から、少年の手術が失敗するような悲劇的結末を迎えるわけがない、と。そう考えるならば、逆もまた言えないだろうか。ここからは僕の完全な想像だが、当時のルースは絶不調で、どうしてもホームランを打てなかった。そしてとうとう、自分の力で解決することを諦め、自分がホームランを打てるような「流れ」を作り出すことを考えついた。それが、「僕がホームランを打ったら、君も手術を受けてくれるかい?」という約束に繋がる。少年とこんな劇的な約束を交わしておいて、まさか自分がホームランを打てないわけがない。そんなルースの目論見は的中し、彼は見事ホームランを打つことができたのであった。ルースは約束のために打ったのではなく、約束のおかげで打てた、というわけだ。……もちろん、こんな事実があるはずはないし、フィクションにしても穴だらけの物語である。でも、そんなことはどうだっていい。最も重要なのは、僕自身がそう思い込むこと、そう信じることだ。ルースの伝説が、そのように考えられるとするのならば。僕はこれから手術を受け、誰かさんと違い無事生還するわけだけど、もし再びあいつに会うことができたなら、今度はこんな約束を、無理やりにでも交わしてやろうと思っている。

「僕が手術を受けたんだから、あんたもホームラン打ってくれるかい?」

と。




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