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自分が推論していることに気づくと、ちょっと生きるの楽になる

はじめに

私は時々、「あ、今壁つくられたな」「あ、今できないって思われたな、見放されたな」と感じる。そういう時は「恥」や「不安感」「悲しさ」を感じていて、激しく感情が揺れ動き、自分の殻に閉じこもりたくなる。その日はなんもしたくないなぁって思うし、なんか無性にドカ食いしたくなる。「私はみんなと同じになれないのかもしれない」「社会不適合かもしれない」と感じる。

でも最近、少しずつ少しずつだけれど、

そうやって感情に振り回されすぎずに、生きることができているような感覚もある。

ので、自分の学びのまとめと、皆さんにシェアハピできたらいいなと思う。

感情(emotion) と論理 (logic)の関係性

まずはじめに、面白いなと最近思ったことを紹介したい。

感情(emotion) と論理 (logic)の関係性だ。

人は必ず、ロジックよりも感情が先に起こる人間であるという。

「◯◯で〜〜だから、私は今イライラしている」と認知することは恐らくなく、

「イライラする」と先に感じ、理由は後付けである。

よって、感情が湧き上がった瞬間に論理的な思考が働いている訳ではないと言って良い気がする。

(この辺書いてて勉強不足だと思ったので勉強します)

感情を理解すること

だからこそ、その感情を多角的に理解することが、自分の感情をコントロールするには必要だ。

「なぜ、今私はそう感じているのか」

これをはじめは面倒くさいが、ちゃんと言語化してみる。

その時に意識することが、

「自分が推論を働かせていないか?」ということである。

脳ってのは、経験学習をよく働かせてくれて、「以前こういうことがあった」故に、「今回もこうである」というように認識することがよくある。

例えば、

感情:ショックである
事象:ある人と話していて、うまく自分が物事を伝えることができなかった故に、「できない人である」と認知された。
→ 「できない人である」と認知されたというのは、私自身の勝手な推論である。

しかし、多様な状況で多様な他者と関わる私たちにとっては、そのように分類をすると間違うこともあるのは当然だ。

他者の感情はその人自身の持ち物

他者の感情や考えを推し量ることで、自分が不幸せになるのはとても悲しいと思う。

その人自身はそう思っていないかもしれないのに、「私」に勝手に推論されていること。
そして、推論した「私」も不幸になっていること。

感情は残念ながら見えないものである。

自分はそう推論していても、意外にも他者は全くそんなこと考えていなかったりすることも多々ある。

もし、あなたが誰かに対して推論していることに気づき、「とはいえ、相手もこう思っているに違いない!」と推論を認められない時は、勇気を出して相手に確認してみるのもいい。

もしかしたら、本当にその推論があってる場合もあるかもしれないが、ほとんどはあなた自身の推論だったことに気付かされると思う。

推論するあなたもあなた自身であるということ

しかし、自分がよく推論していることに気づいた時、
「自分はなんてやつなんだ!」といじめないであげてほしい。

推論をするあなたも、あなたの一部であり、きっとそうやってあなたに推論を働かせてしまうような過去があったのだと思う。

そんな自分に、「大変だったね、辛かったね」と声をかけ、癒してあげてほしい。

おわりに

感情を感じ、理解し、自分が推論していることに気づくと、

「なんだ、また推論してるだけだった!」となり、感情や自分に優しくなれる気がする。

感情が溢れて辛かったり、逃げたくなったりする時、ちょっとめんどくさいし向き合いたくないかもしれないけれど、感情を理解してあげることで前向きになれるはず。

感情が湧き上がった時は、少し落ち着いた後でも良いから、ぜひ振り返ってみてほしい。

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