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映画『PERFECT DAYS』はドラマ映画の最高峰か

観ていて左側だけ頭痛が起きた。
別に映画のせいではない。だからなに、ということでもない。事実として鑑賞中は頭が痛かった。
2時間ぶっとうしで集中することが、ここ最近はあまりなかったからかもしれない。
いまその頭痛が治まってきていて、同時に観ながら考えていたことも薄まってきているので、殴り書きかもしれないけれど残しておきたい。

おっさんの日常

と、ただそうに終わらせることもできなくない。役所広司だから124分耐えたけど、そのへんの人をそれっぽく撮っても事故のような映像が出来上がるだろう。あたりまえだけど。
『反芻』という実験的映画を思い出した。ひたすらに同じ日常を繰り返すだけの内容で、吐きそうになったのを覚えている。

想像する。
なんで怒らないんだろうとか、どんな半生だったんだろうとか。
想像させる。
派手ではないけど奥行きがある。こういうのってドラマ映画の醍醐味だと思うし、シンプルにど真ん中を突いている点で最高峰だと感じた。

これが他の国のおっさんだとどうになるのか、すごく気になる。

村上春樹的物悲しさ

日常の中には、小さいけれど数多くの変化のチャンスが去来する。それゆえに難しいのは「そのままでいること」。
「そのままでそこにあり続ける」存在は、小さく断続的に変化していく関係性の中では有り難い居場所であり、通り過ぎられていく存在になる。媒体としての存在は村上春樹の小説の中で必ず出現しており、救いと物悲しさの両面を持っている。それと同じものを感じた。

おれ

仕事、読書、銭湯、居酒屋、散歩、、
生活を構成する要素が20代の自分の暮らしと重なり、あとは料理が足りなかった。この生活を、またはこの映画を、「美しい」とか「清貧」のように見ることもできるけど、そういう簡単な話ではないと思う。なぜなら、人生というのは本作で流れていた1ヶ月くらいの時間で済む話ではないからだ。
当時、僕は耐えられなかった。だから変化を求めた。

そういうふうにみると、スナックのママへの恋慕のために傷付くなんて、歳を重ねてもこんな感じか、と地獄に思えてしまう。

日常を愛していますか?

「東京」の紹介映画としても成り立つ映像である。
現代のトイレ百貨であり、昭和の最高な音楽と引き合わせてもくれる。
たくさんの仕事の結果の上に日常が創られることも省みることができる。
掃除道具しかり、トイレの設計しかり、銭湯の掃除しかり。
僕はあらゆる仕事を過小評価していたかもしれない。

日々は繰り返す価値のあるものになっているか?
日常を愛しているか?

そんなことを問われている気がした。

さいごに
この映画を好む、最高に話の合うあなたは、これらの記事を読むともう一歩深いところに入れた気になれると思います。僕はそうでした。

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