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『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)を読んで 〜言葉と背景に向き合う〜

愛読書とも言える『ねじまき鳥クロニクル』。
出会いは高校生の頃、通読できたのは大学生になってから。
その時の感覚はいまでも思い出せて、血生臭いし、不思議だしで、完読後は人生観が変わってしまうような、そんな作品だった。

転職して仕事が忙しくなり、「現実」の比重が日々の中で大きくなるにつれて、もう一度あの半ファンタジーな世界に浸りたいと思い、何度目かの『ねじまき鳥クロニクル』とあいなった。

結果としてはまた良い体験になったのだけど、これまでとは違う感覚を味わっていた。
変わったことといえば、年齢、住環境、人生課題が物語の主人公と近くなったことで、それは影響を与えているように思う。
あるいは、いつの間にかこの物語が本当に生き方に影響を与えてきたのかも知れない。

漠然と「大人だなあ」なんて思っていた主人公に対しては、「いや、それだからダメなんでしょ」とか「この行動って客観的に見るとそうなるのね、まずい」とか。真っ直ぐであるからこそ「救いだ」と思っていた笠原メイについても、「恐ろしさ」を覚えたり。

こうなると楽しみなのは、「じゃあ数年後に読んだならどういう感覚になるのか」だし、「過去はどんなふうに思っていたんだっけ」だ。
だから、具体的にどんなところが印象的だったか記しておきたい。

台所でスパゲティーを茹でているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送に合わせてロッシーニの『泥棒カササギ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーを揺れるにはまずうってつけの音楽だった。
ねじまき鳥クロニクル p1
朝、久美子を送り出した後で区営プールに泳ぎに行った。午前中はプールが一番空いている時間なのだ。家に帰ると台所でコーヒーを作り、それを飲みながら、中途半端なまま終わってしまった狩野くれたの奇妙な身の上話についてあれこれと考えを巡らせた。・・・気が遠くなってしまいそうなほどの眠さだった。僕はソファーに横になって目を閉じ、そのまま眠ってしまった。そして夢を見た。
ねじまき鳥クロニクル p222

これらは昔からずっと気に入っている場面。プールに行き、お茶を入れ、スパゲティーを茹でて昼寝する時間を大切にしたくなるほどに。


もっとひどいことにだってなりえたのです。
ねじまき鳥クロニクル p92

ぼくの好きなフレーズ。なにかきついことがあった時は、頭の中で反芻するようにしている


それは僕が結婚する以前に漠然と思い描いていた家庭の姿とはかなり違ったものだった。でも何はともあれ、それは僕が選んだものだった。もちろん僕は子供の頃にも自分自身の過程を持っていた。しかしそれは自分の手で選んだものではなかった。それは先天的に、いわばいやおうなく与えられたものだった。
でも僕は今、自分の意思で選んだ後天的な世界の中にいた。
僕の過程だ。それはもちろん完璧な過程とは言い難かった。しかしたとえどんな問題があるにせよ、僕は基本的にはその僕の過程を進んで受け入れようとしていた。それは結局のところ僕自身が選択したものだったし、もしそこに何かしらの問題が存在するなら、それは僕自身が本質的に内包している問題そのものであるはずだと考えていた。
ねじまき鳥クロニクル p102

今回、初めて気に入った箇所。『もしそこに何かしらの問題が存在するなら、それは僕自身が本質的に内包している問題そのものであるはず』。問題は外にあるのではなく、内にある。


具体的な物事は確かに人目をひくでしょう。しかしそれらの大方は瑣末な事象に過ぎないのです。それらはいわば不必要な寄り道のようなものです。遠くを見ようと努めれば務めるほど、物事はどんどん一般化していくのです。

僕は黙って頷いた。でももちろん僕には、彼女の言うことは何一つとして理解できなかった。
ねじまき鳥クロニクル p98

一般論であり、理解できているようですり抜けていく種類の言葉ではあるけど、それでも今のタイミングでは救いとなる言葉であった。『人目を引く具体的な物事の大方は、瑣末な事象で、不必要な寄り道である』



私が痛いというときは`本当に痛いのよ`。
ねじまき鳥クロニクル p206
「あなたが信じてほしいっていうのなら、信じてもいいわよ」と彼女は言った。「でもこれだけは覚えていてね。私はいつか多分、それと同じことをあなたに対してるすわよ。その時に私のいうことを信じてね。私にはそうする権利があるのよ」
ねじまき鳥クロニクル p238

怖い。けどきっとこういうのが向き合うってことなのかもしれない、なんて。


人はこのようにして少しずつ秘密というものを作り出していくのだな、と僕は思った。別にそれをクミコに対して秘密にしておこうと意識して思っていた訳ではない。元々それほど重要なことではないし、言っても言わなくても取り他でもいいことだった。でもそれはある微妙な水路を通過することによって、最初のつもりがどうであれ、結局秘密という不透明な衣を被せられてしまうのだ。
ねじまき鳥クロニクル p260
でも何かが頭に引っかかっていた。彼女はそのオーデコロンについて僕に何か一言言っても良かったのだ。家に帰ってきて、自分の部屋に行って、一人でリボンを解いて、包装紙を剥がして、箱を開けて、それらを全部屑箱に捨てて、瓶を洗面所の化粧品入れにしまう暇があったら、「今日ね、同僚の女の子にこんなプレゼントもらったのよ」と僕に言ったって良かったのだ、でも彼女は黙っていた、わざわざいうほどのことでもないと思ったのかもしれない、でも、もしそうだとしても、今となってはそれはやはり〈秘密〉という名の薄い衣を被せられてしまっていた。僕にはそのこととが気になった。
ねじまき鳥クロニクル p282

「秘密」というものそれ自体に対して、真摯に考え腹落ちさせたことがなかった。そんな場面があることも忘れていた。けど年を重ねる中で「秘密」の重力は強くなるのかもしれないと思ったし、その時、「何が秘密を作ったのか」が「秘密そのもの」よりも重要であることは思い出したい。

「私は暗渠が怖いの」と彼女は膝を両腕で抱き締めるような格好で言った。「暗渠って知ってるでしょう?地下の水路。蓋をされた真っ暗な流れ」(中略)「その時の光景を今でもよく覚えてるのよ。私は仰向けになって流されているの。石垣のようになった川の壁が見えて、その上にくっきりとした綺麗な青い空が広がっている。そして私はどんどん、どんどん流されていく。何がどうなっているのか、私にはわからない。でもそのうちに、その先に暗闇があるんだっていることが、突然私にわかるの。そしてそれは本当にあるの。やがてその暗闇が近づいてきて、私を飲み込もうとする。ひやっとした影の感触が今まさに私を包もうとする。それが私にとっての人生の一番最初の記憶」
ねじまき鳥クロニクル p230-231
家に戻って僕は鏡の中に映った自分の顔をみた。確かに僕は本当にひどい顔をしていた。僕は服を脱いでシャワーを浴び、丁寧に髪を洗い、髭を剃り、歯を磨き、顔にローションをつけ、それからもう一度鏡の中の自分の顔を細かいところまで点検した。さっきよりは少しはマシになっているようだった、吐き気ももう治まっていた。頭がまだ少しぼんやりしているだけだ。
ねじまき鳥クロニクル p42
そんなことをあれこれと考えているうちに僕はひどく眠くなってきた、それも普通の眠さではない。それは暴力的と言ってもいいくらい激しい眠気だった。誰かが無抵抗な人間からその着衣を剥ぎ取るみたいに、眠りが僕から覚めた意識を剥ぎ取ろうとしているのだ、僕は何も考えずに寝室まで行って服を脱ぎ、下着だけになってベッドに入った。僕は枕元の机に置いてある時計を見ようとした。でも頭を横に向けることすらできなかった、僕はそのまま目を閉じ、そこが見えないくらい深い眠りの中に急速に落ちていった。
ねじまき鳥クロニクル p43
周りを見回すと、紛れもない夏がそこにあった。留保も条件も何もぶら下げていない、正真正銘の夏だった。太陽の輝きも、風の匂いも、空の色も、雲の形も、蝉の声も、何もかもが見事な本物の夏の到来を告げていた。
ねじまき鳥クロニクル p105
小学校の五年生か六年生のころ、友達と何人かで山に登ってキャンプをしたときに、空を覆い尽くすほどの数の星を目にしたことがある、まるで空がその重みに耐えかねて、今にも割れて落ちてくるんじゃないかという気がしたくらいだった。
ねじまき鳥クロニクル p170

表現部門ノミネートな文章たち。自分の状況や目の前の景色を、相手にありありと思い起こさせる言葉で伝えられたらどんなに素敵だろうか。
物語に没入しながら、同時に物語を離れて一つの文として捉え感嘆していた。


肉体などというものは結局のところ、意識を中に収めるために用意された、ただのかりそめのからに過ぎないのではないか、と僕はふと思った。
ねじまき鳥クロニクル p135
憎しみというのは長く伸びた暗い影のようなものです、それがどこから伸びてくるのかは、大方の場合、本人にもわからないのです。それは諸刃の剣です。相手を切るのと同時に自分をも切ります。
ねじまき鳥クロニクル p309
何か大事なことを決めようと思った時はね、まず最初はどうでもいいようなところから始めた方だいい。誰がみてもわかる、誰が考えてもわかるんとうに馬鹿みたいなところから始めるんだ。そしてその馬鹿みたいなところにたっぷりと時間をかけるんだ。
ねじまき鳥クロニクル p371
時間をかけることを恐れてはいけないよ。たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味では一番洗練された形での復讐なんだ。
ねじまき鳥クロニクル p373
自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、その上部の下には元のあなたがちゃんといるし、何かあればそれが『こんにちは』って顔を出すのよ。あなたにはそれがわかっていないんじゃない。あなたは他所で作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたの`つもり`だってそれもやはりどこか`よそ`で作られたものなの。ねえ、ねじまき鳥さん、そんなことは私にだってわかるのよ、どうして大人のあなたにそれがわからないのかしら?
ねじまき鳥クロニクル p200

「そうなのかもしれないけど、いまはまだわからないこと」集。こういうのって、ぼやっと時間を過ごしているだけだと絶対に考えないことだし、そもそも考える必要もないことなのかもしれない。だけど、なにかの状況に真っ直ぐに向き合おうとする時は、必ず「言葉にできるここまで」深く潜ることが求められるし、そこまでしないと「本当に理解する」ことができない物事って、多い気がする。本にも、人の発する言葉にも。必要はないかもしれないけど、その「深さ」がコミュニケーションの差分にそのままなる、繰り返し。ここに書いてあることは、僕にはまだピンとこない。


私は思うんだけれど、人間というのはきっとみんなそれぞれがうものを自分の存在の中心に持って生まれてくるのね。そしてその一つ一つ違うものが熱源みたいになって、一人一人の人間を中から動かしているの。もちろん私にもそれはあるんだけれど、ときどきそれが自分の手に追えなくなってしまうんだ。私はそれが私の中で勝手に膨らんだり縮んだりして私を揺さぶる時の感じをなんとか人に伝えたいのよ。
ねじまき鳥クロニクルp356

逆に、これはすごくよくわかる。


あなたの話していることは一見筋が通っているように見えるけれど、肝心なところがどうも曖昧でぼやけている。
ねじまき鳥クロニクルp69
`僕は逃げられないし、逃げるべきではないのだ。`
ねじまき鳥クロニクルp395




最後まで読んでくださいましてありがとうございます! 一度きりの人生をともに楽しみましょう!