愛読書とも言える『ねじまき鳥クロニクル』。
出会いは高校生の頃、通読できたのは大学生になってから。
その時の感覚はいまでも思い出せて、血生臭いし、不思議だしで、完読後は人生観が変わってしまうような、そんな作品だった。
転職して仕事が忙しくなり、「現実」の比重が日々の中で大きくなるにつれて、もう一度あの半ファンタジーな世界に浸りたいと思い、何度目かの『ねじまき鳥クロニクル』とあいなった。
結果としてはまた良い体験になったのだけど、これまでとは違う感覚を味わっていた。
変わったことといえば、年齢、住環境、人生課題が物語の主人公と近くなったことで、それは影響を与えているように思う。
あるいは、いつの間にかこの物語が本当に生き方に影響を与えてきたのかも知れない。
漠然と「大人だなあ」なんて思っていた主人公に対しては、「いや、それだからダメなんでしょ」とか「この行動って客観的に見るとそうなるのね、まずい」とか。真っ直ぐであるからこそ「救いだ」と思っていた笠原メイについても、「恐ろしさ」を覚えたり。
こうなると楽しみなのは、「じゃあ数年後に読んだならどういう感覚になるのか」だし、「過去はどんなふうに思っていたんだっけ」だ。
だから、具体的にどんなところが印象的だったか記しておきたい。
これらは昔からずっと気に入っている場面。プールに行き、お茶を入れ、スパゲティーを茹でて昼寝する時間を大切にしたくなるほどに。
ぼくの好きなフレーズ。なにかきついことがあった時は、頭の中で反芻するようにしている
今回、初めて気に入った箇所。『もしそこに何かしらの問題が存在するなら、それは僕自身が本質的に内包している問題そのものであるはず』。問題は外にあるのではなく、内にある。
一般論であり、理解できているようですり抜けていく種類の言葉ではあるけど、それでも今のタイミングでは救いとなる言葉であった。『人目を引く具体的な物事の大方は、瑣末な事象で、不必要な寄り道である』
怖い。けどきっとこういうのが向き合うってことなのかもしれない、なんて。
「秘密」というものそれ自体に対して、真摯に考え腹落ちさせたことがなかった。そんな場面があることも忘れていた。けど年を重ねる中で「秘密」の重力は強くなるのかもしれないと思ったし、その時、「何が秘密を作ったのか」が「秘密そのもの」よりも重要であることは思い出したい。
表現部門ノミネートな文章たち。自分の状況や目の前の景色を、相手にありありと思い起こさせる言葉で伝えられたらどんなに素敵だろうか。
物語に没入しながら、同時に物語を離れて一つの文として捉え感嘆していた。
「そうなのかもしれないけど、いまはまだわからないこと」集。こういうのって、ぼやっと時間を過ごしているだけだと絶対に考えないことだし、そもそも考える必要もないことなのかもしれない。だけど、なにかの状況に真っ直ぐに向き合おうとする時は、必ず「言葉にできるここまで」深く潜ることが求められるし、そこまでしないと「本当に理解する」ことができない物事って、多い気がする。本にも、人の発する言葉にも。必要はないかもしれないけど、その「深さ」がコミュニケーションの差分にそのままなる、繰り返し。ここに書いてあることは、僕にはまだピンとこない。
逆に、これはすごくよくわかる。