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利用される「リクルート」

組織を構成する個人の当事者意識の高さでその組織の強さはある程度決まる、と思う。前職のリクルートの同僚と話すとそんなことを考える。


「当事者意識」は、マウントでもなく、自己犠牲でもない。
当事者意識の高い人々の集まりでは、物事に向かうときに一個人として何かしらの存在感を発揮し、同時に仲間の個性を認め、影響を与え合うことができる。
確固たる自信を元にしたコミュニケーションは、層が厚い。

例えば、よく職場の環境を評する時に「人に恵まれている」と聞くことがある。
この場合、リクルートだと「『恵まれた』じゃねえよ、お前も『恵めよ』。『みんなで恵み合おうぜ』」みたいな感じになる。



現在の職場でも元リクルートがいる。(どこにでもいる)
マネジメント側にも複数いるので、自然と『リクルート式』の考え方になる。『自律自走できる個人が集まる組織を目指そう』的な感じだ。

でもこれは難しい。というかまず失敗する。

というのも、「当事者意識」を持てる人がいる量、またその意識を発揮できるなど、環境が整っていない(場合が多い)からだ。

『リクルート式』は、ただ求めるだけでなく、各個人の強さを認識して引き出せる、粘り強くウェットな関わりが必要なのかもしれない。
仕事的に言えば、複数回の「ある程度想定された挫折」やら週一の「心理的安全性が保障された1on1」、長期間の「人としての向き合い」など。

そして環境としても、自己理解(=自分にとって何が報酬か)ができている人たちに囲まれてることも重要だ。一人で戦えるほど、そんなに人間できていない。

なので、『自律自走』を掲げるのは高尚ではあるが、泥臭いコミュニケーションがベースであり、いわんや現場に丸投げするものではない。



おしむらくは、僕自身が意識の低いメンバーであったために、当時、実地体験としてマネジメントをすることはおろか、そういう視座で働くこともできていなかった。

「リクルート」という単語は頻繁に使われるが、そう簡単に実現できるものではない。それほど特殊で優秀な制度や風土が仕組まれているのだ、きっと。

そしてもう一つ思い出すのは、進んで人の役に立ちたがるような人たちばかりだったなということ。
そういうのってちゃんと持ち続けたい。

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