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観覧車から自分を発見する(『スプートニクの恋人』を読んで)

良い小説は、一行読めば住む世界を変えられる。

職場から帰宅する。持ち帰った仕事を片付けてから、簡単に夕食を作って食べる。簡単に夕食を作る方法は決まって炒め物。キャベツと玉ねぎを切ってサラダ油をひいて熱したフライパンに入れる。肉のパックかツナ缶を開けて、野菜に合わせて強火にする。思い出したように生姜とニンニクを投入して、適当に塩と胡椒も入れる。キャベツの緑色が輝くまで焼く。食べてジムに行って風呂に入って食器を洗う。今日一日でするべきことが終わったと充実感に満たされながら布団に入る。そして『スプートニクの恋人』を開く。

東京だったりギリシャだったりフランスだったりスーパーの警備室だったり、一瞬で物語に入る。入る先の世界が良いか悪いかはあんまり関係なく、ただ別の世界に行く。そこは自分の知らない世界ではなく、実はその世界にも自分がいることに気が付く。

二度目の『スプートニクの恋人』だった。一度目は内容がうろ覚えであるくらい、ハマらなかった。だから今回は、なんかこの展開知っているかも、と薄ぼんやりと先が見え隠れしながら読み進めた。同じ本でも読む時の年齢や経験、環境によって全く印象が変わる。含蓄のわかりみも強くなる、気がする。一つの本で何度も楽しめるなら、本屋や図書館に行って読みたい本に囲まれる絶望は、本当はもっと深いものでなくてはならない。

フラフラと街に出て、乗るつもりのなかった観覧車に乗る。その遊園地は閉園間際で観覧車の担当は帰ってしまい、結果として観覧車に閉じ込められてしまう。その観覧車からは街が見渡せ、持っていた双眼鏡では自分の家のマンションも見れた。すぐに帰るつもりだったので部屋の明かりはつけっぱなしで、夜になると、それゆえに部屋の中まで見渡せた。自分の家を飽きずに見ていると、そこにはいるはずのない自分がいて、嫌悪しているはずの男と裸で抱き合っていた。その二人は、観覧車の中から本当の自分が見ていることがわかっているかのように、見せつけ合い、性欲のままに過ごしている。そして気を失う。

この描写だけは、本当に妙なくらいによく覚えていた。『スプートニクの恋人』であることは忘れていた。これはドッペルゲンガーの話でもあり、「イマココの世界」とは「マタベツの世界」が存在する物語であることも暗示している話でもある。村上春樹によくある世界観だ。「マタベツの世界」に行ってしまったヒロインを「イマココの世界」のヒーローが助けに行くような。その世界の境界線や在り方はその都度違うし、示し方の具合も異なるが、しかしその構造を知っていると物語の理解が進む。

直近で読んだ『ねじまき鳥クロニクル』もそうで、その冒険にはドキドキ、イライラした。『スプートニクの恋人』が面白いのは、語り手(ほぼ主人公)が、【「マタベツの世界に囚われたヒロイン(女性)」を「助けにいくヒーロー(女性)」のことが好きで、それを待つ「僕」】であることだ。だから、冒険がない。ただ、待っている。しかも若い。それはなんとももどかしい。あまりない設定だと思う。

待つ人は、『ねじまき鳥クロニクル』で言えば「笠原メイ」。「マタベツ」から「イマココ」に帰ってくるためには待つ人が必要だし、『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいた時はその存在に非常に救われた気分になった。いま思えば、笠原メイは笠原メイでややこしい現実と向き合い克服し、「待つ資格」のようなものを得ていた。今回の話でも、旅に出ない「僕」は退屈で地味な日常の中で、ただ待つだけではなく清算すべきことを清算し、ひたすら耐えるように待ち続けた。

一つの物語にはそれぞれの役割があって、別の物語が絡みついていた時には意外と重要な役目を担ったりする。
また、僕とは別の僕が違う世界にもいて、ときたまその世界は邂逅して、いたずらに影響を及ばしあったりする。
自分の世界と相手の世界。
自分の世界とまた別の自分の世界。
客観と主観が入り混じったような、不思議な感覚に陥る本。
次回はどうに感じるでしょう。



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