パラレルワールド 18
☆
朝の9時50分というこの上なく微妙な時間に僕はアジトに飲みに来ていた。
「ずいぶんと上機嫌だな。」
ライオンの覆面の男はハイネケンを出し終えると同時に聞いてきた。
この男が一体いつ眠っていて、どんな素顔なのかがライオンの覆面のせいで全くもって分からない。そしてなぜいつ来ても店が開いていてこのライオンの覆面の男がバーカウンターに立っているのか、それが謎であること以外は、いたって気のいい一人のBarの主だと気づくのにそう時間はかからなかった。
「覆面だけ同じにして、何人かでローテーションしてるんじゃないか?」
と聞いてみたこともあったがすぐさま否定された。
「あまりに眠くてたまらなかった時にな・・、その方法を一度やってみたが常連客にはすぐにバレて金返せと怒られた」そうだ。
でも僕はその愛あるクレーマーとはきっと仲良くなれるに違いない。
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「素顔じゃない方が、素直になれるもんさ。」
そんなしみったれたセリフがライオンの覆面の男には似合わなくて、とてもよく似合っていた。
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「今を楽しめ。出来る範囲で、かまわないから。」
無表情なはずのライオンの顔が少しだけほころんでいるように見えた。
そして、
「パートナーが出来たんだろう?おめでとう」
そういって頼んでもいないビーフ・ジャーキーを差し出した。
「ありがとう。いただくよ。」
そんなマスターの優しさが、僕はとても嬉しかった。
そう・・こんな時にこそビーフジャーキーは僕の傍らにあるべきなのだ。
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僕にとってビーフ・ジャーキーをツマミに酒を飲むというのはこの世でもっとも贅沢な行為の1つだった。
もちろん金銭的な事を言うのであればビーフ・ジャーキーよりもはるかに値段の張るディナーに舌鼓を打つときだってある。
でもそんな高級なディナーがビーフ・ジャーキーをツマミに酒を飲む瞬間に勝ったことがないのもまた事実なのだ。
逆に言うとビーフ・ジャーキーをツマミに酒を飲むことを許可出来るような最高の瞬間というのは人生においてそうそうあるものではないということだ。
「ところで・・リチャードのワンマン・ショーは行けなくてすまなかったな。」
「ああ、とんでもない。気にしないでください。」
僕は彼女のほかにアジトのマスターもリチャードのワンマン・ショーに招待していた。
ただマスターいわく、ライオンの覆面でショーの客席に座るわけにもいかないし、素顔で僕らの前に出てくるわけにもいかない。いわゆるすっぴんNGということらしい。
「夢、壊しちゃいけないからな。」
マスターはそう言って汚れてもいないグラスを磨き始めた。
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「まあ心ゆくまでやれよ。きっと特別な日々だろうからな。」
ライオンの覆面の男はそう付け加えた。
「マスターもそうなのかい?ビーフ・ジャーキーについてのスタンスは。」
「毎日が自問自答だな。今日という日はビーフ・ジャーキーをツマミに据えても良い日なのか、そうじゃないのかは。」
☆
僕はなぜ自分がこのバーを「アジト」と呼ぶことにしたのかようやく分かった気がした。
誰にも理解されないような価値観も、どこかに分かち合える人がいるのだ。
それは僕らにとってはとても重要で譲れないものだったが、僕らとは違った類の人間にとってはどうでもいいことだった。
そんな価値観を誰かに押し付けることよりも、分かち合える人がいるということこそが嬉しかった。
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「記録の存在しない街、トーキョー」に送り込まれた一人の男。仕事のなかった彼は、この街で「記録」をつけはじめる。そして彼によって記された「記…
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