パラレルワールド 20
☆
今日は特段やることもなく、僕の足はライブ・ハウス「グリーヴァ」へと向いていた。
僕にとってミュージックというのはアルコールとか、そうでなければ塩とかオリーブ・オイルのようなものに近かった。
決してそれらがこの世界から消滅してしまったとしても死んだりはしないがそれらのない人生なんて味気ない。
僕にとってミュージックというのはそんな存在だった。
☆
バー・カウンターに近づくとバーテンは前回よりも柔らかい表情で迎えてくれた。
「ハロー、よく来たね。今日はハコバンの彼らはいないんだ。メインのラウド・ロックバンドに加えて、飛び込みのソロ・ミュージシャン・・。ときどきいるんだよ。夢見てはるばるトーキョーにやってくる田舎者がね。
メイン・アクトの連中も構わないと言っているし、、前座で20分だけならということで出演させてみることにしたんだ。」
ハイネケンを受け取り、軽く口をつける。
まだ誰もいないステージにはマーシャル・アンプ、そしてストラト・タイプのエレキギターが置かれていた。
時計がチケットに書かれた開演時刻のちょうど2分前を指したとき、ステージの袖からMCがあらわれた。
早口の英語でまくし立て、まだ人のいないスペースの方が多いこのライブハウスを煽りはじめる。
「今日のオープニング・アクトだ!Come on!Taishi Nomura!」
「タイシノムラ」
たしかにそう聴こえた。
ステージに出てきた彼の名前がそうなのだろう。
「よろしく」
わずか数人の観客を前にして、タイシノムラと紹介された彼は両腕を上げ、演奏が始まった。
数人の観客も彼に興味があるようには見えず、退屈しのぎに視線を彼に向けているという感じだった。
フロアの隅の方に一人だけ熱心にステージを見つめている青年がいたような気もするが・・。
エレクトリック・ギターをかき鳴らし、彼は、タイシノムラは歌う。
お世辞にも、上手いとはいえなかった。
歌にしてもギターにしても、特段上手いと言えるものではなく、技術的には何処にでもいるレベルだろう。
どうやら英語詞で歌っているようだったがお世辞にも発音がいいとは言えないし、言い回しもネイティブにはとても伝わらないだろうというものだった。
赤ん坊が覚えたての言葉を羅列しているだけ・・。
そんな風にしか思えなかった。
数曲演奏し、彼は少し話をしていた。
コンテストに出場して世界No.1になるため、
田舎町からこのトーキョーへ出てきているらしかった。
ずいぶん無謀で、無茶な話だ。
逆に田舎者だからこそこんなチャレンジに踏み切れるのかもしれない。
彼にとって・・タイシノムラにとってそのコンテストはきらびやかな豪華客船のように見えているのかもしれない。
沈むだけの運命とも知らずに・・
思った矢先にハッとする。
彼はコンテスト、自分はフェスティバルだ。
得体のしれないものに引き寄せられてこのトーキョーへやって来たのは、自分も同じなのだ。
あのタイシノムラは演奏こそ大したものではなかったが、「何かを巻き起こしてやろう」という妙なパワー、気概とでも言うべきか・・。そんな何かをこのトーキョーに持ち込んできているのは間違いなさそうだった。
彼一人の力は小さなものだが、ああいった存在が多く集まれば何かを起こすのかも知れない。
タイシノムラの最後の曲が終わろうする頃になってようやく客席が埋まり賑わい始めた。
メインアクトのバンドの客たちだろう。
でも彼らはステージに視線を向けることさえしなかった。
・・タイシノムラ。
聴いてもらえなければ、存在していないのと同じなのだ。
今日の客たちは、君が此処に存在していたことさえ知らない。
どんな気分だい?誰にも知られず、誰にも相手にされないというのは。
だからこそ少し見てみたい気もする。
彼が、タイシノムラがどうやって自分自身の存在を証明していくのか、を。
僕はメモとペンを取り出す。
レコード・マンの商売道具だ。
「December 13 その存在さえも認められていない、名もなきミュージシャン タイシノムラについての考察」
いつの間にかハイネケンは空になっていた。
ここから先は
「記録の存在しない街、トーキョー」に送り込まれた一人の男。仕事のなかった彼は、この街で「記録」をつけはじめる。そして彼によって記された「記…
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