意見を言うのが怖いわたしへ

こんにちは、めとろです

自分の意見や考えをつらつらと書き連ねてゆこうとしている身として
早めに書いておきたかったテーマがあります。
それは、『考えや意見は途中で変わってもいい』ということです。

何か新しいことを学んだり経験したりすれば、考えが変わるのはあたりまえのことです。その当時は、こうだ、と思っていても、時代や価値観が変化して、色んな意見や考えに触れるうち、過去の発言や行いに赤面したり、反省したりすることもあるでしょう。

誰だってきっと本当は、正解だけを書きたいし、言いたいです。でも、誰にとっても正しい、ということはほとんどありません。いま正解だと思っていることも、未来で自分自身に否定されることだってありえます。正解はきっとないのだから、今、自分はこう思う、ということを発信してもいいと思います。

ただし、過去の行いや、一度口から出てしまった言葉は、なかったことにはなりません。その言葉が行いが、そのつもりはなくとも誰かを傷つけることはありえます。昔はそう思っていたけど、今は違うと言ったところで、言った事実をなかったことにはできません。罪を償い、罰を受けることで、許されることはあるかもしれませんが、犯した罪は消えないのです。だからこそ、難しいことですが、言葉や行いには慎重に、そしていつでも相手の気持ちもおもんぱかれたらいいですね。

しかし、どんなに気を付けていたとしても、人は過ちを犯し、誰かを不意に傷つけてしまいます。自分が誰かを傷つけてしまったこと、それに気が付けたときは、誠実な態度をとることです。そうしなければ、見過ごし見過ごされた罪が、いつかあなたを破滅に追い込むかもしれません。

意見や考えを発信していると、時に「それは違うのでは?」と問われることもあるでしょう。反論されると、とっさに言い返したくなるものですが、まったく別の視点からのアプローチについて、すぐに結論を出すことは、本当はとても難しいはずです。なるほどそういう考え方もできるのか、と一度持ち帰り、自分の中で反芻してから、相手に向き合っても遅くはないと思います。なにせインターネットの片隅でつぶやいているだけの、答えも終わりもない問なのです。すぐに結論を出す必要もないし、多くの色んな人の考えや意見を吸収して、前進したり後退したりしていけばいいのです。

それでも私は意気地なしなので、よくわからない、難しくって取っつきにくいな、と思う事柄に関してはあまり発言できません。でもほんとは、よくわかっていないなら意見を言ってはいけない、ということは全然ありません。難しいことはわからなくとも、自分はこう思う、ということを発信してもいいのです。そこに誤解があったなら、詳しい人がやさしく教えてあげたらいいですし、他の人の意見を聞いて、いろいろ考えた末に意見を変えたっていいはずです。

自分と意見が違う人は、敵ではないです。
どちらの意見が正しいということは、あまりないのだと思います。どちらも正しいところがあり、どちらも間違っているのでしょう。彫刻のように、どこから見るかによって、同じものでも全く違って見えます。

自分とは真逆の考えの人がいたとしても、この人はどうしてそう思うのか、じっくり考えることができたなら、それによって意見が変わっても変わらなくても、他の考え方があると知るのは、とても意味のあることです。
相手を捩じ伏せるのではなく、お互いの意見を尊重すること、いろんな人の、色んな考え方を知り、それに想いを馳せることが、住みよい社会を作り、平和な世界につながることと信じます。

と、いうわけで今回は、考えが変わったときにそれを咎められるのが怖い私とあなたへのメッセージでした。いろんなことについて、自分なりの考えを持つことは、とても大事と思います。確かに私たちはそのつもりがなくとも誰かを傷つけ、誰かの為に傷つきます。でもあなたの言葉が、誰かの心を救うことも、きっとあります。

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