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ナチュラル・ボーン・クローザーズ(前編)

飯田は完全に息切れしていた。オフラインでのクロージングは久しぶりだったせいか、移動時間を見誤った。これは初めてのことではなく、飯田は過去においても何度か遅刻を犯していた。しかし、このままでは間に合わないかもしれないにもかかわらず、飯田に悲壮感や焦燥感はなく、むしろ口角はわずかながら上がっている。

いまは2032年2月。飯田は、ひざ丈まであるダウンジャケットを身にまとっていた。こんなに走ることになると分かっていたなら、つい先週購入したトレンチコートにすればよかった。額には汗がにじんでいる。しかし、そこに不潔感はまったくない。

32歳の飯田の伸長は、180センチを超える。家系からするといわゆる「純ジャパ」だが、顔の堀は深い。若いころから、イケメンと呼ばれてきた部類の人間だ。誰とでもすぐに打ち解けることができるし、目上の人の懐に飛び込むのも得意で、一歩間違えれば嫉妬の対象となりそうな男だが、少し天然で抜けているところもあるからか、敵はいなかった。その端正な顔立ちや社交性を評価されて、飯田はファー・イースト・インシュアランス社というデジタル系損保企業のクローザー職についている。

2020年代までは、職種としての「営業」や「セールス」が存在したが、いまとなってはその職種を名乗る人間はほとんどいない。いま、日本企業の営業機能を支えているのは、セールスインテリジェンス社という新興の日系テクノロジー企業だ。同社が提供する、社名と同じ名称の「セールスインテリジェンス」と呼ばれるクラウドサービスが、2028年頃から急激に普及したのだ。

セールスインテリジェンスは、営業機能における最後のクロージング業務以外を、全て自動化するクラウドサービスである。すなわち、リード顧客リストを生成し、メールボットやチャットボットを通じて、かつてインサイドセールスと呼ばれていた機能を全て代行し、各アポの受注確率まで算出してくれるのだ。営業先企業の過去の動態に応じて、メールやチャットを送信するべき時間帯、成約率が高いアポ日程までもがアルゴリズムに基づいて弾きだされる。

セールスインテリジェンスのお膳立てを受けたうえで、まさに案件を“クロージング”するために、オンライン面談やオフライン面談に奔走するのが「クローザー」である。フィールドセールスと呼ばれていた役割に近いが、実質的には商談の最終局面から活動がはじまるため、クローザーという俗称がいつの間にか正式名称として定着した。これが、現代における営業活動の実態である。最後の一押しこそが、人間の仕事なのである。

セールスインテリジェンスが算出する受注確率の精度も、非常に高かった。ユーザー企業の活用方法はさまざまで、受注確率が低い営業先にエースのクローザーを送り込み、全社的に平準化された営業成績を残すことを好む企業もあれば、受注確率が高い営業先にクローザーをあてがい、「決めるべき案件を決め切る」ことを重視する企業もあった。

飯田は、6か月ぶりのオフラインでのクロージング面談に向けて、いままさに、物理的に、全力疾走している。セールスインテリジェンスによれば、当該案件の受注確度は86%。もちろん、アポに間に合うことが前提である。

公開情報をアグリゲートして営業データベース化するサービスは、2010年代後半から多数存在していた。しかし、公開情報を土台としているため、リアルタイムでの情報や、より詳細な情報の反映にはいま一歩届かなかった。米国にはリアルタイムで営業先企業の各担当者個人名レベルのステータスを反映する営業データベースのサービスも当時から台頭していたが、個人情報に関連する規制の壁もあり、日本への参入は行われなかった。

その中で、日本では、2020年代からリアルタイムでの営業先データベースであるセールスインテリジェンス社が台頭した。セールスフォースという伝統的なクラウド系企業からの、4,000億円の買収打診を断った会社としても有名だ。未上場企業であるため詳細は公にされていないが、クローリングやスクレイピング、そして音声入力議事録とのデータ連携を駆使しつつも、本質的には、社内向けシステムで極限まで効率化されたテレアポを通じた人海戦術という力業での情報収集を行い、個人情報保護法その他関連法規に抵触しないようにデータベースを構築したというのが、もっぱらの噂だった。余談だが、この社内向けのテレアポシステムの外販が計画されているとの噂も流れている。

2月のアスファルトは氷のように冷たかった。しかしその氷は流氷のように分厚く、屈強な飯田がどれだけ強く蹴ろうとも盤石だった。「営業リストの作成は、正直機械的で無味乾燥な作業だった。新卒入社してしばらくは頑張れたが、さすがに10年以上あのような業務は耐えられない。とはいえ、それなりに業界の知識や論理的な思考も求められる作業で、バイトに任せることも難しかった。やりたくない頭脳労働が代替されて、自分の才能を存分に発揮できるようになった。今の自分はセールスインテリジェンスに堅く支えられている。感謝しかない。」

実際に飯田は、クローザーとしての才能をいかんなく発揮していた。正確には、その生まれつきの風貌、声質、佇まいを、いかんなくクローザー業務に活かしていた。社内でも圧倒的な高成績を残していた飯田は、確信していた。「人間は、インターフェースに専念すべきである。クローザーこそが、人間が集中すべき、最も人間らしい仕事である。」

約束時刻の2分前に、営業先のエントランスに到着した。天井に設置された「ウェルカムカメラ」と呼ばれるAIカメラが飯田を認識し、来客受付が完了した。オフィスまではエレベーターで5分ほどかかってしまうが、受付時刻が守れていればセーフというのが飯田の主張だ。肩が上下するほど息は荒くなっていたが、飯田のオーラや風貌からすれば何の問題もなく、むしろそれは、好印象につながる可能性すらあった。飯田は自然な笑みを浮かべながら、額の汗をふいた。

無論、誰もが飯田のように恵まれた状態で生まれてくるわけではない。クローザーは、感情労働の極みであり、究極の接客業だった。対人関係が苦手な者はもちろん、対人関係が得意でも、風貌やルックスでの差がついてしまうのがいわゆるクローザー職の残酷な現実だった。

クローザー職は、社会的ステータスも、給料もかなり高い部類に入る。「売上をつくる」という業務の大部分の自動化された結果、労働分配率が急激に高まったのだ。平均年俸は、社会人3年目でも、ボーナスも含めると1,500万円から2,000万円が相場であり、かつてはコンサルや投資銀行を目指していたような人材がクローザー職に流れ込んでいる。その一方で、数値責任を伴う感情労働に追われる毎日に耐えきれず、バーンアウトしてメンタルを病んでしまう人間が続出していることが、業界の一部では問題視されはじめていた。

ところで、ファー・イースト・インシュアランス社のクロージング本部は、隔週月曜日に朝会を開催している。

ある朝、本部長から次のように告げられた。

「これまでわが社の経営層のみに適用していた、メンタルデベロッパー社のメンタル・スキル開発プログラムを、クローザー職のみなさんにも受けてもらうことになりました。これは任意ではなく、業務の一部なので、しっかりカリキュラムをこなすように。次回の朝会の時間で、オリエンテーションを行うので、そのつもりでいてください。」

直観力に優れた飯田は、このとき、何かひっかかるものを感じた。

後編に続く)

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