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寛容のパラドックスについて

ご無沙汰しております。
今回は以下の記事を参考に、ある事について考えてみたいと思います。

こちらはカール・ポパーの「寛容のパラドックス」について、ポパーの生きた時代、彼を取り巻く環境からどのように思想が形成され、この論証が為されるに至ったのかを大変分かりやすく説明されています。
哲学に関する文献というのは、哲学を学んでいない人にとっては難解な内容のものが多いのですが、こちらの記事は哲学にあまり馴染みがない人でも、寛容のパラドックスを深く理解する事が出来る、とても素晴らしいものであると思います。

実はこの記事を初めて拝読した時は就寝前で、半分眠りに落ちかかった頭でぼんやりと読んでいたため、本文の最後に提示されている筆者の洞察について、「あまり同意できないな」と思っていました。
しかし翌日寝起きのスッキリした頭で改めて読んでみたところ、概ね賛同できる、非常に見識の高いものであると感じました。

寛容のパラドックスは、私自身が炎上・ネットリンチ根絶を訴え、このようにネットで主張していることの理念となるものです。それは矛盾だという指摘を受けても、何ら恥ずべきところの無いものです。寧ろ私の言動に常に「寛容のパラドックス」がついて回ることは当然のことであると考えています。

ところがこの記事について、Twitterの有名なアンチフェミニストである神崎ゆき氏がこのようなツイートをなさっていました。

この発言について考察し、私なりの意見を述べたく本記事を書いています。
神崎さんは何故このような発言をなさったのだろう、と私は考えました。当該記事を読めば分かることですが、神崎さんの主張は当該記事の要旨にはない、いわば独自解釈です。「という話。」と仰っていますがあくまで「神崎さんの解釈」に過ぎません。もっと大切なこと、読み取るべき要旨は他にあるのに、神崎さんが当該記事から受け取ったことはこれだったのです。

相手を"不寛容な奴"と見なして「不寛容には不寛容でなければならない。それが『寛容のパラドックス』だ」と主張する人……をたまに見かけるけど、それは違うよね?という話。

それでは何故神崎さんはこのように解釈したのでしょうか。
当該記事の中には、『寛容のパラドックスにおける誤解に対する訂正』として、以下のような記述があります。

ポパーの主張した寛容のパラドックスは、プラトンが巧みに主張した主権のパラドックス(いかなる拘束的な統制もないという意味での自由は、あばれ者が従順な者を奴隷化することを自由にするので、非常に大きな束縛(=不寛容)に行き着かざるをえないという論証)に対する論理的な反証として用いられたもの。従ってポパーは全体主義的傾向を批判したのであって、もしリベラル的全体主義がポパーの寛容のパラドックスを自己正当化のために持ち出すならば、それは誤りである。

ナチスの全体主義に苦しめられたユダヤ人であったポパーは、その起源となったプラトンの政治哲学に対し批判的な立場を取ります。そこから生まれたのが「寛容のパラドックス」であったという説明です。従って全体主義の正当化の為に「寛容のパラドックス」を利用することは、その論証を生み出したポパーの意思に反する(=誤り)である…。
おそらく神崎さんはこの部分に着目したのではないでしょうか。「リベラル的全体主義が寛容のパラドックスを利用すべきではない」この事は神崎さんの立場にとってとても都合が良かったのです。

彼女のネット上における立ち位置は、「フェミニストに誹謗中傷される表現者を守る」というものです。神崎さんが対立するフェミニズムは、いわば「リベラル的全体主義」であると言えるでしょう。フェミニスト達の表現に対する攻撃を牽制する為の理屈として好都合、という解釈をなさったのだと思います。それがあのようなツイートをするに至った理由だと考えます。

(※そもそも「リベラル的全体主義」っていうのも、矛盾した言葉ですよね…リベラルって「自由な」とか「自由主義」って意味ですので。
まぁ確かに「女性の自由」を求めて結託し、理念の統一を目指す人達=フェミニストは「リベラル的全体主義」で相違ないと思いますが。)

さて、当該ツイートに対して、私は神崎さんに伝えたいことがあるのですが、その前に私が件の記事の要旨から読み取ったこと、私なりの解釈をまず記しておきたいと思います。

①社会の目的は「苦痛の減少」であるということ。これは即ち「社会のあり方によって苦しむ人を減らす」という事です。この社会はネット社会にも当てはまります。多くの人々が思想・言論・表現によって社会を構成するSNSという場所においても、「苦痛の減少」は目的とされるべきでしょう。
つまり、「SNSにおいて、SNSのために苦しむ人を可能な限り減らすこと」がSNSにおける最優先課題です。

②当該記事に以下のような記述があります。

主権論が論理的にパラドックスを必ず内包する以上、論理のみによる解決はありえないと心得る。

論理だけで社会の目的である「苦痛の減少」は実現されませんので、矛盾を突くことに終始したところで問題は何も解決しません。矛盾という相手の論理的誤謬を指摘し黙らせることが出来れば自分の主張を通せる、と考える人はSNSには多数存在します。その発想自体が間違っているのです。そのようなやり方で押し通したところで議論している問題が解決する訳ではない。
「矛盾の指摘」で寛容のパラドックスを否定することは出来ません。

③寛容のパラドックスは最終手段です。誰がそれを行使するのか(=誰か一人に行使させる)という考え方は間違いです。適切でさえあれば誰が行使しても良いのです。(適切=まず対話による理解を前提とし、それが叶わない場合の最終手段とすること)特定の誰かのみが行使し得るものではありません。

④「苦痛の減少」を阻害する者(=不寛容)とはまず対話による理解が必要です。しかしこの対話は相互に寛容であることが条件となります。私はこの条件は実際問題無理筋であると思います。不寛容な者が意見が対立する者と寛容な姿勢で対話を出来るとは到底考えにくいからです。
ここでまた当該記事の洞察より引用します。

対話が困難な場合、現実的な妥協策として棲み分けに積極的な価値を見出すこと。政治と美学、趣味の分別を意識すること。

そもそも対話が出来ないなら(最終手段を講じない為に)棲み分ける。双方が相手に干渉しない。
絶対に分かり合えないと思っているのに(分かり合う気もないくせに)
しつこく対立者に言及しない、対立者を批判しない。
これは非常に大切なことです。これすら守れない人間には最終手段である「表現の自由の制限」が適用されます。
寛容な者によって、寛容のパラドックスにおいてそれは行使されるのです。

以上の4つが私の解釈となります。

神崎ゆきさんに伝えたいこと

相手を"不寛容な奴"と見なして「不寛容には不寛容でなければならない。それが『寛容のパラドックス』だ」と主張する人……をたまに見かけるけど、それは違うよね?という話。

他者の言動を不寛容だと咎める事案が発生した場合にすべきことは、それ寛容のパラドックスと違うよね?という雑な否定ではありません。
まずはそれが寛容のパラドックスの適用外であるかどうかを見極めることです。即ち咎めている側の目的が「リベラル的全体主義による統一」であるかどうかです。
もしも上記に当てはまるのなら神崎さんの言う「違うよね?」はイエスです。
「リベラル的全体主義」に当たらなければ次に確かめることは、咎めている側と咎められている側の双方の間で「相互に寛容な対話」が行われたかどうかです。咎められている側が聞く耳を持ち、相手を尊重した寛容な対話に応じたかどうか。
この対話と理解があったのならその段階で寛容のパラドックスが適用される事はありませんので「違うよね?」はイエスです。
様々な事情によって対話と理解が不可能であった場合、次に確かめるべきは棲み分けがされたかどうか…咎めを受けた側が「否定しようとするもの」との関わりを自発的に断ち、批判を自重したかを確認する必要があります。
棲み分けがされているのであれば「違うよね?」はイエスです。
いずれの場合にも当てはまらないのならそれは最後の手段、つまり「寛容のパラドックス」が適用される例となります。「違うよね?」はノーです。
つまり神崎さんの仰る「違うよね?」の答えは、咎められた側(=不寛容)の出方次第です。「違うよね?」の答えとしてイエスを得る為には、あらかじめ決められた適用外の条件を、ひとつでもクリアしていなければいけません。
・咎めた側がリベラル的全体主義ではない
・寛容な姿勢での対話と理解があった(咎められる側がそれに応じた)
・棲み分けの道を選択した(咎められる側がそれに応じるか自発的に選んだ)
どれにも当てはまらないものは自由を制限され拘束されます。それはあくまでも咎められる側の自己責任です。

以上が私が神崎ゆきさんに伝えたかった事です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「みんなのフォトギャラリー」より、どっちゃんさんの画像をお借りしました。ありがとうございました。

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