寛容のパラドックス~寛容さは不寛容さとどのように向き合うべきか?
私は本稿で、カール・ポパーが提唱した「寛容のパラドックス」として知られる「寛容の自己矛盾」に関して、しばしば見られる誤解や自己都合的な解釈への訂正を試みたいと思います。
1.寛容のパラドックスとは何か
「寛容のパラドックス」とは、オーストリア出身の哲学者であるカール・ポパー(1902-1994)がその主著、『開かれた社会とその敵』(1945)の中で開陳した、政治思想領域における論理的パラドックスの一つです。ポパーの手によってその論証は以下のように簡潔に述べられています。
寛容は、まさにそれが寛容であるがゆえに滅亡へと導かれざるをえません。それは論理的に不可避な帰結といえます。
以上。寛容は不成立。話しは終了。
…というわけにはいきません。なぜなら寛容さを失った社会がどれだけ恐るべき社会なのか、私たちは既に歴史的に経験済だからです。そのうち最も人類の記憶に深く刻まれたものの一つは、ナチスドイツによる全体主義支配の恐怖です。
「寛容のパラドックス」と全体主義がどのように関連するのでしょうか? その答えを知るためにはカール・ポパーの生い立ち、そして『開かれた社会とその敵』がどのような背景と主訴を持ったテキストであるのかを簡単に振り返る必要があります。
2.『開かれた社会とその敵』とは
私は冒頭、カール・ポパーはオーストリア出身の哲学者だと触れました。しかし彼が『開かれた社会とその敵』を執筆した場所は彼の祖国、オーストリアの地ではありませんでした。手短に彼の略歴を振り返りたいと思います。
ポパーは1902年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国(現オーストリア・ウィーン)に誕生しました。1994年に没していますので、彼はまさに「20世紀とともに生きた哲学者」でした。
1902年はどういう時代だったでしょうか? 片手に日本史の年表を手に取ると、1904年には日露戦争が開戦しています。ちなみに同齢の有名人といえば横溝正史(1902-1981)が同い年にあたります。ポパーが生まれたのは、20世紀の人類を襲う悲劇的な二つの大戦の前夜だったといえます。
ポパーはユダヤ系の比較的裕福な中流家庭に生まれました。1928年にはウィーン大学で哲学の博士号を取得し、1930年からオーストリア国内の中学校で教職を得ています。しかし1937年のナチスドイツによるオーストリア併合を受け、急遽遠く離れたニュージーランドへの移住を余儀なくされました。
ポパーはクライストチャーチのカンタベリー大学で哲学講師の職をえて教鞭を取る一方で、ナチスドイツ的全体主義を批判するテキストの執筆作業に勤しみました。彼がその主著『開かれた社会とその敵』を世に問うたのは1945年。奇しくも第二次世界大戦終戦の年でした。
彼もまたナチスドイツ的全体主義の脅威と思想的に立ち向かった20世紀の知識人の一人だったといえます。
『開かれた社会とその敵』は、どんな主張を持ったテキストだったのでしょうか? 一言でいうと、同著は全体主義の起源を明らかにするという目的を持ったテキストでした。
結論からいうと彼は第二次大戦を引き起こした全体主義は、西洋社会が希代の偉人として称賛してやまないプラトンとその政治哲学に起源を持つと主張しています。彼自身はプラトンに対する畏敬の念は忘れないとしつつも、同著におけるプラトン批判の姿勢をこのように説明しています。
プラトンといえば押しも押されぬ西洋哲学の王者です。ポパーはなぜプラトンの政治哲学の中に、世界を破滅に導かんとしたあの恐るべき全体主義の萌芽を認めたのでしょうか?
3.ポパーのプラトン批判
ポパーのプラトン批判は、同著第一巻・第七章において最も濃密に行われています。そしてこの第七章は冒頭でご紹介した『寛容のパラドックス』が登場する箇所でもあります。
ポパーは第七章『指導者の原則』を、以下のプラトンの箴言から始めています。
賢者が社会を統治するべきだという思想を『哲人王思想』といいます。文字通り、思慮や分別に長けた哲人王が無知な民草を統治するべきだという思想です。
プラトンがこうした思想を持つに至った背景は、彼のあまりにも有名な師、ソクラテスの刑死が大きく影響しています。ソクラテスは不世出の哲学者でしたが、当時のアテナイの民主主義的な法廷によって断罪され、毒杯をあおってその生涯を閉じます。
愚かな市民が政治を担うことの恐ろしさをプラトンは身をもって痛感しました。その結果、彼は賢者がこの社会の指導者となるべきだという「指導者の原則」とでもいうべき政治哲学観を確立します。
ポパーはこうしたプラトンの政治哲学観を象徴する一節として、プラトンの主著である『国家』からこんな一節の引用を試みます。
この一節は一般的な哲学的評価においては重要性の低い箇所と考えられているものの、プラトン政治哲学における全体主義の萌芽を認めるには十分な箇所であるとして、ポパーは読者の注目を喚起します。
ポパーはプラトンのこの着想を「人間の種族的退化論」だとして批判します。つまり人種主義と知的エリートによる権力追求の容認―この二つを合わせて優生思想といって差し支えないと思いますが―これこそがプラトンの政治哲学が本質的に内包し、現代社会が全体主義の恐怖へ誘われた起源であると指摘しました。
すなわちポパーは当時世界が直面した全体主義の恐怖について、以下のような新しい見通しを与えたのです。
4.プラトンの『何が』問題だったのか?
同著を執筆した動機として、ポパーは当時の民主主義世界に住む知識人たちの全体主義に対する風潮を以下のように総括しています。
つまりポパーは、「人類は全体主義からは逃れられないのか。人類は全体主義を受け入れざるをえないのか?」という当時の風潮に対して一石を投じることを目的として同著を執筆したといえます。
全体主義は社会全体の利益のために個人の自由を全く犠牲にすることを要求します。これは言い換えれば、「人間にとって自由はもはや幻想に過ぎないのか?」という人類にとって差し迫った問いだといえるでしょう。
ポパーはこうした諦念に抵抗します。
―全体主義への諦めは不可避なものではないはずだ。どこかで人類は間違えを踏んだはずで、全体主義の起源を遡ることによって、人類は悲劇へと向かうことになった分岐点まで立ち返ることができる。そこから人類は代替的な可能性を検討することができるはずだ―。
ポパーはこうした省察の結果、最終的にプラトン政治哲学が抱える全体主義的傾向の発見に行き着いたのでした。
それではプラトンの政治哲学の一体何が問題だったのでしょうか?
ポパーはそれをプラトンの思考法、つまり「問いの立て方」にあったと結論づけます。つまりプラトンは「誰が支配すべきか?」という問いを確立することによって、それ以降の政治理論の傾向を決定的に性格づけてしてしまったのだと結論づけたのです。
愚者による統治は悲劇である。従って賢者による統治が最善である。問題は、誰が社会を統治するべきかだ。
こうした物の見方を、現代に生きる私たちが古代的だといって軽くあしらうわけにはいきません。選挙のたびに私たちは一体何を「選んでいる」のでしょうか? 愚者よりもいっそう賢者を選び、それによって社会の問題が少しでも改良させるように期待して投票を行っているのではないでしょうか。
ポパーの問いは1945年のおいても有効であったし、現在においてもなお私たちに批判的な視点を与えてくれるように思えます。
問いは、その問いに従う全ての思考の性格を決定づけます。従ってポパーは、人類はプラトンとは異なる代替的な問いから出発するべきだと主張します。長くなりますが、ポパーは以下のように述べます。
なぜポパーは「プラトンの問い」を置き換えることにこれほど熱心だったのでしょうか? それはプラトンの問いが必然的に導くある帰結に対して、このうえない危機感を抱いているからです。
「誰が支配するかが問題だ」と考えるとき、その支配する人はそれ以外の支配される人々を完全に支配しなければなりません。さもなくば賢者が愚者によって支配から追い落とされ、さもなくば国家が滅亡していまうかもしれないからです。従ってプラトンの問いは必然的に、以下の帰結を導きます。その帰結を、ポパーは以下のように描写しています。
つまりポパーがプラトンの政治哲学に見出した全体主義の萌芽、そして全体主義が抱える本質的な問題点は、「主権が拘束を受けないこと」だという洞察だったのです。それこそが人間の自由を根源的に奪うもの、「開かれた社会のその敵」の正体であると主張したのです。
5.寛容のパラドックスと「基礎づける」こと
いよいよ本稿の主題である「寛容のパラドックス」を取り上げる準備が整いつつあります。しかしそのミッションを遂行する前に、私はもう少しだけ寄り道をしなければなりません。
結論に入る前に、ポパーと同時代のもう一人の偉大な哲学者、ジル・ドゥルーズ(1925-1995)の主張を確認したいと思います。それは「基礎づけるとはどういうことか」ということです。
無拘束な主権、すなわち全体主義が「開かれた社会」の敵であるという洞察は、人類が実際に経験したナチスドイツ的全体主義と、プラトン政治哲学への批判によって導き出されました。
しかしこうしたポパーの洞察は彼の主観的なただの感想に過ぎないかもしれません。一見説得的に聞こえますが、独断や独善、あるいは彼の欺瞞すら忍び込まされているのかもしれません。
ポパーは全体主義とプラトン政治哲学の批判を通じ、プラトンが遺した問い(ポパーはこれを"プラトンの呪文"と呼びましたが)を、「新しい問いに置き換えること」を私たちに「請求」しました。しかし彼の請求はどのような「根拠」、言い換えればどのような「拠り所」を持っているのでしょうか?
ドゥルーズは1956年から1957年にかけてパリのルイ=ル=グラン校で行った『基礎づけるとは何か』という講義において、ある「請求」が「請求に値する根拠を持つこと」について以下のように述べています。
ドゥルーズの定義に従えば、ポパーは私たちへの請求にあたって、彼の請求を基礎づける何かを必要としています。つまり彼の請求にあたって何が根拠なのかという基礎を「引き合い」に出す必要があるのです。
実際、ポパーはプラトンを最も手厳しく批判した『開かれた社会とその敵』の第七章において、この「引き合い」について以下のように言及しています。
それではポパーは自らの批判の基礎づけを一体何に求めたのでしょうか? それが「寛容のパラドックス」に代表される政治思想領域における論理的パラドックスだったのです。
つまりポパーは自らのプラトン批判を読者に請求する拠り所として、論理的パラドックスにその基礎づけを求めたのです。こうした文脈は「寛容のパラドックス」を理解するにあたって欠かすことができない前提です。
一方読者の方は、私の引用に「寛容のパラドックス」という表現が登場しなかったことを訝しまれるかもしれません。しかしその通りです。実は「寛容のパラドックス」は本書の本文には登場しません。それは章末の註釈に登場するのです。
それではその註釈とは一体どのようなものだったのでしょうか。それは一体何を補足し、そして何を補強するものだったのでしょうか?
ここからの引用は本稿で最も長いものになりますが、「寛容のパラドックス」を理解するためには最も重要な箇所になります。
ここでは主権論のパラドックスが、「自由」及び「寛容」において現れているのと同時に、プラトンが自由のパラドックスを巧みに用いたのに対し、彼が寛容のパラドックスについて全く言及しなかった事実に注目していただきたいと思います。
プラトンは明らかに主権論のパラドックスを部分的に利用したのであって、「寛容のパラドックス」には戦略的に目を瞑って、その存在すらを世界に示すことを怠ったのです。そのため世界はプラトンに欺かれ、その欺きが世界を全体主義の災禍に巻き込んだのではないかというのがポパーのプラトン批判の真髄にあたります。
この註釈には続きがあります。もう少し引用を続けてみましょう。
これは条件構文です。わかりやすいように図示すると以下のようになります(※図1)。
上図を見ると、不寛容な哲学の発言を抑圧することは、ごく限られた条件下(合理的議論で対抗し、かつ、世論によってそれらを抑えることができる場合)において愚かであると主張されています。
逆にいえばこの条件外の場合、「不寛容な哲学の発言を抑圧することは愚かではない」ということになります。もしそれが愚かでなければ一体何なのでしょうか? ポパーは続けてこのように述べています。
「不寛容を説くいかなる運動も法の外に置かれることを要求する」という文章は、そうした運動が「保護法益の外に置かれることを要求する」と理解して差し支えないでしょう。
なぜなら殺人や誘拐や奴隷売買の利益は法的保護対象とは見なされず、むしろ犯罪と見なされ、それらは「刑罰」の対象となっているからです。
そして法の外に置かれるべきだと位置づけられているのは「不寛容を説くいかなる運動(原文は"any movement preaching intolerance")」とされている点は注目に値します。すなわちここで念頭に置かれているのは不寛容を説く表現に留まらず、その表現を生産する主体としての運動(movement)自体であると名指しされているからです。
さて問題はそうした運動を私たちはどのように見なすべきかという問いです。引用文にある「同様の仕方で、犯罪と見なすべきである」という箇所はどのように理解すればよいのでしょうか。一助としてこの箇所の原文も参照してみます。
原文では「同様の仕方で」という箇所は"in the same way"と記述されています。一体何と比較した上での"same way"なのでしょうか。
例えばそれが「不寛容な哲学の発言の違法化」だと仮定します。先ほどの図1を用いて検討すると、以下のようになります。(※図2)
どのような問題が起こるでしょうか? まず不寛容な哲学の発言を「違法化」するための立法工程が必要となります。しかしそれはまさに「寛容のパラドックス」によって必ずしも成立しません。
もし不寛容な哲学の発言を「犯罪の違法化」と同様の仕方で抑圧するべきだと解釈するならば、その違法化が成立しない間は不寛容な発言に対する抵抗力を失ってしまうことになります。それはあまりに不安定な「請求」だといえそうです。
もう少し前の文章にあたってみましょう。「だがわれわれは、必要な場合には力ずくででもそれらを抑圧する権利を要求すべきである。」という部分です。「力ずくで」とは何を意味しているのでしょうか? 再びに原文にあたると以下の通り記述されています。
但しforceを単に「暴力」の意味だと解釈することは早計でしょう。forceの受動態にあたるforcedは「強制された」という意味を持ち、その対義語はvoluntary、すなわち「自発的」です。
"the right to suppress them if necessary even by force."とは、「たとえ発言者の自発的な意志に沿わなかったとしても、私たちがそれら(不寛容な哲学の発言)を抑圧する権利」であると解釈するのが妥当と考えられます。暴力的な手段によって言論自体を鎮圧することを必ずしも積極的に奨励する趣旨の文章だとは思えません。
しかし一方で問題となるのは、「寛容のパラドックス」と表現の自由の関係です。もし寛容のパラドックスを克服するために、私たちが「力ずくででもそれらを抑圧する権利を要求」し、もしそれが認められた場合、私たちは自由のパラドックス―つまり自由はまさに自由の原理によって他者を奴隷化せしめてしまうという自己矛盾―についてどのように整合性を取ればよいのでしょうか。
言い換えれば、自由と寛容はどのような基礎づけによって社会的に共生することができるのでしょうか?
ポパーは自由と寛容さに一貫性を与える基礎づけとして、自分の立場を以下の通り述べています。
つまり自由と寛容は「苦痛の減少」という基礎づけにおいてのみ社会的に共生することができるとポパーは主張します。「苦痛の減少」という道徳を引き合いに出すことによって、初めて自由も寛容も意味ある社会的価値として実装されることができるのです。
この基礎づけに基づいてこそ、私たちは自由を破壊する不自由、そして寛容を破壊する不寛容に対する抑圧を請求する権利を獲得します。その対抗手段としては強制的な抑圧も含まれますが、それが相手の言論を弾圧するデメリットに注目しすぎることは本末転倒だといわざるをえません。
ポパーの考え方に立ったとしても強制による言論弾圧は想定される最悪のケースの一つなのであって、言論弾圧という手段に訴えずとも、不寛容に対する不寛容を示すことが可能なケースは少なくあるません。現実的な立場には改めて強調と注目が与えられるべきだと私には思えます。
ポパー全集(日本だと『カール・ポパー、社会と政治』、ミネルヴァ書房に収録)に収録された「公的価値と私的価値」という論文で、パラドックス性が原因となって生じる原理間の衝突に対して持つべき基本的な姿勢を、ポパー自身は以下の通り開陳しています。
具体的な悪とは苦痛を与える"存在X"です。苦痛の減少という基礎づけに基づいた緊急性のヒエラルキーによって、私たちは原理間の衝突の調停を試みることが求められるとポパーは主張します。
そしてそのようなヒエラルキーを実装した社会像を、『開かれた社会と民主国家』という別な論文で以下の通り素描しています。
苦痛の減少原則と緊急性の階層序列原則を基礎づけとした寛容のパラドックスの克服。これこそがポパーが構想した「全体主義に対する処方箋」だったといえるでしょう。
6.結論:しばしば見られる誤解への訂正
これまでの検討を簡単に要約すると以下の通りです。
以上を簡単に図示すると以下の通りです。(※図3)
従ってしばしば散見される「寛容のパラドックスにおける誤解」に対する訂正は例えば以下の通りであると示したいと思います。
最後に、ポパーの哲学を表現の自由、とりわけSNSにおける表現の自由の問題に適用するとき、どのような洞察が得られるでしょうか。私の個人的な見通しを以下の通り何点か簡単に述べて、本稿を終えたいと思います。
7.最後に
書き終えてみれば1万4000字を超える長文noteとなりました。最後までお読みいただいたみなさんには心からの感謝を申し上げたいと思います。
私の個人的な信念を申し添えれば、ポパーの哲学に準拠したままでも、表現の自由の保護と、SNS上の暴力的な過度な誹謗中傷に対する不寛容な態度は両立可能であるという期待的展望を持っています。今後の問いとしては、例えば「SNSを射程に入れた現代における暴力とは何か?」という議論等が活発に行われることを期待しています。
ユダヤ人として第二次世界大戦を生き抜いたポパーが繰り返し「社会の目的」に立ち返る意義を強調したことは、いくら注目しても足りることはないと確信しています。
なお、ポパーの哲学はこれだけで尽くせるものではありません。本稿では「開かれた社会とその敵」の第七章を中心に取り上げましたが、後日改めて同著の白眉ともいうべき「第十章」と「第二十四章」を取り上げるnoteを執筆したいと思います。
最後に、私が多大な借りを負うている参考文献をスタッフロールに載せること、そして「開かれた社会とその敵」の中で私が最も印象に残っている一節を引用させていただいて本稿を閉じさせていただきます。
8.補論~ポパーの自由と寛容概念について
記事を公開した当初、ポパーにおける自由と寛容概念の特徴、及びその違いについて特に説明を設けることをしませんでした。
理由は二つあります。一つは自由と寛容概念に関する検討は次回noteの主な検討課題の一つとなる予定だったこと、もう一つはポパーは社会哲学における道徳の価値に重みを与えていたので、彼自身の「自由」と「寛容」の解釈は特段、日常生活上の語用と大きな乖離がなかったためです。
『開かれた社会とその敵』においても、わざわざ別章を割いてまで自由と寛容の定義について検討されることはありませんでした。しかしながら自由や寛容の定義に関して共通認識がなければ、noteをお読みいただいても却って混乱を招くだけかもしれません。
実際、早速読者の方から自由と寛容の定義について補論を書くこともお薦めいただきましたので、①一般的な辞書上の定義、②ポパーの諸論文にて登場する自由と寛容についてのそれぞれ簡単な記述の紹介を通じて、本稿にて検討される「自由」と「寛容」概念について一定の安定性を与えたいと思います。
(1)辞書上の定義(LONGMAN dictionary of contemporary English準拠)
(2)ポパーによる自由と寛容への言及
以上
【参考文献】
『開かれた社会とその敵(第一巻、第二巻)』、カール・ポパー、未来社
『カール・ポパー 社会と政治』、カール・ポパー、ミルヴァ書房
『より良き世界を求めて』、カール・ポパー、未来社
『推測と反駁』、カール・ポパー、法政大学出版局
『批判的合理主義』(第二巻)、ポパー哲学研究会、未来社
『基礎づけること』、ジル・ドゥルーズ、ちくま学芸文庫
『寛容論』、ヴォルテール、光文社古典新約文庫
"The Open Society and Its Enemies"(Routledge Classics) (English Edition)、Karl Popper
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