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巡教者

「なァ、知ってっか? お前さんの周りの植物、実は自然物なんだぜ?」
「……それマジ?」
 日差しもないのにサングラスをかけた珍妙な植物学者(自称)はニヤッと嗤った。頭の花が楽しげに揺れた。
 
 
 植物は本当に人工物なのだろうか。そんな疑問を抱いた幼い俺を、周りの大人は気味悪がり、両親は俺を優しく諭した。じゃあ俺が古い本で見た小さな花はなんなんだ。花が人工物だってんなら、あの本が出版された一二〇〇年前にあるのはおかしい。植物の元凶である『フレイヤの息吹』が出現したのは一〇〇〇年前の事なんだから。
 悶々とした思いを抱えたまま成長したある日のこと。
 村に変な奴がやってきた。そんな知らせが飛び込んできたのは数時間前のことだ。書庫で本を読み漁っていた十八歳の俺は、空腹に耐えかねて食料を探しに行こうとしていたところだった。
俺の家にある書庫は、村の中でも一二を争うほどに大きい。大変な読書家であったらしい両親がかき集めてきたらしく、極東の文献も何冊かある。俺には読めないものも多いし、本棚にはいくつか抜き取られたような痕跡があるが、それすら気にならないほどに居心地が良い場所だ。そこにいると,両親が生きていた証に囲まれているような気がする。
母親は雨を少しずつ、しかし確実に浴び続けたことで、俺が物心ついたころに天国へと逝ってしまった。父親は母を救えなかったことを悔やみ、母の死後しばらくして姿を消した。父にも何かの考えがあってのことだったのだと思うが、今になって考えると中々ひどい父親である。もう両親の顔も声も思いだせない。でも二人とも優しかったことは確かだった。
 そんな両親が作り上げた書庫を後にし、誰も彼もが俺に無関心な冷たい世界へと足を踏み出す。外に出るのはいつぶりだろうか。俺がいなくても、この村は何も変わらないなと思いながら自宅へ向かっていると、話し声が聞こえてきた。聞き耳を立てる。どうやら来訪者についてのようだ。
 
「自分のこと植物学者?とか言ってるらしいよ」
「洋服を着てないって聞いたわ!」
「目のあたりを黒い何かで覆ってるらしい」
「頭に花が咲いてるんだって!」
 
 ……ただの変人じゃないかと思った。というより植物学者ってなんだ。そんな言葉,聞いたことがない。人は皆「狩人」か「木こり」になるんじゃないのか。
でも彼らの言葉を信じるなら、そいつは俺より確実に植物に詳しいはずだ。会ってみる価値はある。行こう。今すぐにでも行こう。昔からの疑問が解決できるかもしれない。俺は空腹を忘れ、その植物学者とやらを探しまわった。
村がそこまで大きくないこともあり、彼はすぐに見つかった。大きなカバンを背負い、巨木にもたれかかって思案顔で虚空を見つめている、ような気がする。
なにせ、噂通りに目を黒いメガネ状のもので覆い隠しているもんだから、はっきりとしたことが分からない。あれもなんだ。メガネは知っているが、それは目の部分が透明だからレンズとしての機能を果たすのだ。黒く塗りつぶされていては何も見えないではないか。
彼の格好もおかしなものだった。明らかに洋服とは一線を画している濡羽色の上衣。そしてやけに裾が広い、パンツとは少し違う、どちらかというとロングスカートに近いような鼠色の下衣。靴は俺たちと同じ、丈夫そうな洋靴ではあるが、衣服との組み合わせで見ると、かなり異質な雰囲気だ。長旅のせいだろうか、下衣は裾のあたりがボロボロで、靴も汚れが目立つ。
しかし彼は、それを一切気にしていない様子だった。極めつけに、彼の頭から生える一輪の真っ白な花。言葉通り、頭からつま先まで「変」な男だった。
 
 
そんなことをぼんやりと思っていると、突然そいつの顔がこちらを向いた。マズい。バレた。こちらに近づいてくる。すごい真顔じゃん。「お前笑ったことある?」と訊きたくなるくらい表情が変わらない。やめてくれ。真顔でそんなに頭の花を揺らすな。その場の雰囲気などお構いなしに剽軽に軽快なリズムを刻む花に吹き出しそうになりながら、俺は覚悟を決め、尋ねた。
「……お、おっさん、誰?」
するとヤツは俺の頭に手を置き、グイっと顔を近づけてこう言ったんだ。
「なァ、知ってっか? お前さんの周りの植物、実は自然物なんだぜ?」
「……それマジ?」
あまりの衝撃に思わず訊き返してしまったが、すぐに我に返る。そうだ。こいつはどこの馬の骨とも分からない胡散臭い男だ。
「そ、そんなわけないだろ!」
とりあえず普通の反応をしておく。彼はしょうがないなァとか何とか言いながら,大きなカバンをゴソゴソ漁り始めた。冬眠前のクマのように背中を丸めてカバンに頭を突っ込むその姿は,なんだか滑稽だった。
しばらくして、彼はようやく二冊の本を取り出した。とても古そうな本だった。表紙はかすれていてはっきりとは読めないが、『生物基礎』『新詳地理B』と書いてあるように見える。
「なんだそれ」
「見たことないか?一〇〇〇年前の教育機関で使われてた本だよ」
「んなもん見たことある訳ねぇだろ」
「ここに書いてあンだよ昔の様子が。『生物基礎』の方に。ほれ。花、咲いてるだろ? 木もこんなにデッカくねェんだよ。あと人間にも生えねェ」
彼は自分の頭を指さしながら苦笑した。
「こいつのせいで記憶が曖昧でなァ。自分が誰なのか、どういう経緯で放浪してんのか知らねェんだよ。でも安心しろ。植物の知識だけはなぜかばっちり残ってるぜ」
 何をどう安心すれば良いのだろうか。そんなことを言ったら怪しさが増すだけではないかと思ったが、嘘はついていないように見えるので、とりあえずは様子を見ることにした。
彼が持っている本に書かれていた、書庫にこもりっぱなしでも得られなかった情報の数々に目を奪われている俺を見ながら、記憶の無い植物学者はフンと鼻を鳴らし、得意げな顔をしていた。多分。
「な、これで信じる気になったか?」
「あぁ……でもなんだっておっさんがこんな古い本持ってんだよ?」
彼はあからさまに目が泳ぎ始めた。水泳大会があれば良い線はいくだろう。
まあ彼がこの資料をどこから持ってきていようが俺にはかかわりのない話だからどうでも良い。
「お、おもしれェのはここからだ」
男は慌てて話題を逸らすように『新詳地理B』を開いた。
「お前さんたちは世界が植物に覆われてると思ってるみたいだが、それはとんだ間違いだ。この世界には、かつて『砂漠』と呼ばれる場所があった。雨が降らず、植物もほとんどない。一面に砂が広がっているだけだ。じゃあなぜ砂漠だけ植物がねェのか、って話になるよな。俺は砂漠にこの世界を変える秘密があると踏んでる。俺はそこに行ってみてえんだよ」
「なるほどな。それでここまで旅してきたってわけか。その動きにくそうな服で」
「洋服はどうもしっくりこねェ。多少動きにくくてもゆったりしてる方がいいんだよ」
服装といい職業(?)といい、元々いた村では孤立してたんだろうなあ、なんて失礼なことを考えていると、突然、聞いたこともないような低い音が俺の耳に飛び込んできた。ぐぐぐ……。
「なんだ!?」
身構える俺。彼を見ると、照れたように頭をポリポリかきながら言った。
「いやー、やっぱ一週間水だけってのはつれェわ。なんか食わしてくれねェか?」
一気に身体じゅうの力が抜ける。なんだ。おどかさないでくれ。タイミングを見計らっていたかのように、大粒の雨がポツポツと落ちてきた。かと思えば、みるみるうちにバケツの底が抜けたかのような大雨へと変わった。なんだってこんな時に。今日は「雨」は降らないはずだ。
「……っ、マジか……とにかく急ぐぞ!」
「行くあては?」
「俺の家だ! 走ればすぐだ!」
俺たちは植物の陰を利用しながらなるべく濡れないように慎重に、かつ急いで村へと戻った。
 
 
かなり濡れてしまったが、何とか家まで辿り着いた。有機物であれば何でも根を張る植物に対抗して、俺たちの家は全てフェンリニウムという特殊な金属でできている。雨に長期間打たれても平気な防錆加工ももちろん施してある。機能性だけを追求した不愛想な家だが、これが俺たちの伝統的な家らしい。五〇〇年以上の歴史があると母から教わった。
家の中は、雨が屋根に当たって弾ける音で埋め尽くされていた。
「懐かしいなァ……」
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもないよ」
彼が何か言ったような気がしたが、雨音にかき消されてよく聞き取れなかった。
彼にタオルを投げながら今まですっかり忘れていたことを訊く。
「そういやアンタ、名前は何だ?」
「名前か……キスケだ。キスケ・ワカタ。本当の名前は分からねェ。とりあえずはこの名前で呼んでくれ」
「俺はベルカント・ゲンチ。呼び方はお好きに」
彼はすぐに、「じゃあベルだな」と笑った。その呼び方をされたのは初めてのはずなのに、なぜかよく耳に馴染んだ。
 
 
雨が下着にまで及んでいたので、俺は手早く着替えを済ませた。彼にも風邪をひくからと着替えるように勧めたのだが、頑として譲らなかった。自然乾燥するのを待つと言っていたが、大丈夫だろうか。念のため、彼の近くで乾燥機の電源を入れておいた。
家に向かうまでの間、彼の腹の虫は絶えず音を奏でていた。空腹が限界に近かったのだろう、俺はすぐに食事の準備に取り掛かる。自分も書庫から出てから何も食べていなかったことを思い出し、少し多めに用意する。と言っても、俺たちの食事は肉類と液体状の栄養食ばかりだ。三人分の食事を持ち、彼が待つリビングへと向かう。
「おー、ありがてェ。遠慮なく頂くぜ」
「ああ。好きなだけ食べてくれ。……なんて言える量でもないが」
最初の数分間はお互いに黙って食事に集中する。リビングに干し肉を咀嚼する音と栄養食を飲む音だけが響く。
しばらくして、キスケがおもむろに話し始めた。
「お前さん、植物は人工物だってこと、疑ってねェか?」
「……っ」
意表を突かれ、俺は言葉に詰まる。なんでこいつがそれを知ってんだ。最近は誰にも言ってないのに。
「なんで、って顔してんな」
キスケはニシシ、といたずらっぽく笑った。
「顔見りゃわかんだよ。しかもお前さん、俺の突拍子もない話をすぐに信じた。食いつきっぷりもそこらの奴らとは違う。そのあと慌てて普通っぽい反応をしたようだが、俺の話を聞いた時のあの目は同志を見つけた目だ」
そこまで見透かされていたとは。思いの外鋭い観察眼を持っているようだ。
「そこで提案なんだが……」
キスケは目を覆っていたものを取った。白銀と青の中間のような、なんとも形容しがたい色をした双眸が俺をじっと見据える。
「俺と、砂漠を探しに行かないか?」
それは思いがけない、というよりもありえない提案だった。
「はぁ? 何言ってんだ」
「でもお前さん、今の生活退屈すぎねェか?」
俺は少し考える。
ここ数年は自分の疑問を解消するために、他人とのかかわりを絶って書庫にこもっていた。村の長からの使いが何度もやって来て、俺を「狩人」か「木こり」のどちらかになるよう迫ってきたが、そのたびにあの手この手を使って躱した。そのうち、村長の方が根負けし、使いも来なくなった。金も両親が遺した分であと数十年は生きていける。ここであえて安定した生活を捨てると言えば、愚か者と笑われるだろう。それでも、最近は書庫の本も古すぎて読めないものが増えてきた。書庫生活もこのあたりでけりをつける時が来たのかもしれない。
それに、彼についていけばきっと面白いことになる。結局俺の疑問が解決されなかったとしても、きっと何かしらの意味を持つに違いない。これは人生のターニングポイントだ。俺の勘がそう告げていた。
「……行くよ」
「ほう?」
キスケは興味深そうな声を出した。
「いいのか? 俺についてきて無事に帰ってこれる保証はないぞ?」
「いいさ。今更俺一人いなくなってもこの村は何も変わらない。むしろ穀潰しが一人減って清々するだろうよ」
キスケは初めて会った時と同じ、ニヤリとした笑みを浮かべた。
「出発は明日の朝だ。しっかり準備しとけよ」
 
 
翌日の朝。辺りは薄暗く、少し肌寒い。俺は出発の準備で忙しくしていた。旅なんて出たことが無いから、何を持って行けば良いのか分からなかった。とりあえず、遠くに出かける時の常識として下着の替えと食糧は要るだろう。旅慣れた人なら他にも細々と持ってゆくのだろうが、俺にはさっぱりなのでこれだけにしておいた。というよりも、これだけで俺が持っている鞄はいっぱいだった。必要なものはキスケが持っているだろう。
準備を終え、玄関へ向かう。そこには一本の傘があった。俺がこの村で移動するときにいつも使っていたものだ。使い古されて持ち手の塗装は剥げている。
「……」
俺はしばらくの間、その傘を見つめていた。
 
 
外に出ると、キスケが待っていた。俺が来たことに気付くと、俺の装いをちらっと見て少し眉を動かしたが、何も言わずに歩き出した。
そうして、俺とキスケは出発した。もちろん見送りなんていない。いらない。この村に帰ってくることはあるかもしれないが、それさえ誰にも知られることはないだろう。俺は躊躇うことなく、村を後にした。
生い茂る植物をかき分けながら、俺とキスケは歩いてゆく。出発から数時間経ち昼間になっても、明るさは明け方とさほど変わらない。万が一の可能性を考えて、家と書庫には鍵をかけてきた。
傘は置いてきた。「雨」が降ればその時は動けなくなる。俺の体感では二日に一度は降るので、旅程はかなりスローペースになりそうだ。それでも、急ぐ旅でもないのだから、進めないときは進めないでそれなりにやることはある。キスケが持っている本を読むとか。これはきっと学術的な旅だ。それに、彼といる限り退屈することはないだろう。
 
 
歩き始めて三日ほどしたある日の昼間、キスケはふとこんなことを訊いてきた。
「時にベル。お前さんはこの世界についてどれくらい知ってる?」
俺は少し考えて話し始める。
「今は西暦三〇二二年。一〇〇〇年くらい前に突然『フレイヤの息吹』って名前の謎の物質が散布されて、そこから植物って呼ばれる、今俺たちの周りを取り囲んでる緑のものが大量発生するようになった。植物は地面に『根』を埋め込んで、どんどん大きくなっていく」
キスケは目を閉じて腕を組み、時折頷きながら俺の話を聞いている。
「あとは雨に当たると人間は病気になったり色々生活に支障をきたすようになる。症状は個人差があるけど、最終的には全員死に至る。でもそれに対して植物は雨が降るたびに大きくなっていく。だから雨は『恵みの雨』って呼ばれてる。そんくらいかな」
書庫にこもって文献を読み漁っていた甲斐があった。キスケは閉じていた眼を開け、頭の花を撫でながら言った。
「八〇点ってとこだな」
「シンプルにうぜぇ」
「まあまあ、お前さんの説明はだいたいあってる。でも少し補足するとしたらこうだ。この間も言ったが、植物はもともと自然のものだ。だから『フレイヤの息吹』が散布されてから突然発生したわけじゃない。俺たち人間が生まれる前から、なんなら動物が生まれる前からずーっと地球に在ったものだ。『フレイヤの息吹』は植物を発生させるもんじゃなくて、植物の成長を急激に進める物質なんだよ」
キスケはここまで説明すると、水を飲んだ。
「おっさん、本当に学者ってやつなんだな……」
するとキスケは不服そうな顔をした。
「だから言ってるだろ。俺は植物学者なんだよ。昔は学者なんてよくある職業だったんだぜ?」
「昔っていつの話だよ」
「うーん、一二〇〇年前くらいから一〇〇〇年前くらいか?」
「昔すぎて参考にならねえ」
俺もそれくらい前の本を読もうとしたことがあったが、文字体系が全く分からず、挿絵や写真からしか情報を得ることができなかった。
キスケは再び話し始めた。
「それでだ。『恵みの雨』についてだが、あれは『フレイヤの息吹』が水に溶けてるんだよ。そして植物が生きるためには水が必要。これは俺たち動物も一緒だ。つまりこの世界の雨ってのは植物からしてみりゃ必要なもんがギュッと濃縮されてるわけだ。植物は基本根からしか栄養を得ることができないんだが、なぜか今の植物は葉や茎に開いた微小な孔からも栄養を吸収できるんだよ。俺たちも液体の栄養食飲むだろ? あれだと思ってくれたらいい。その物質は二酸化窒素って言うんだが、これがまた人体には悪影響だらけでなァ。知覚障害に運動障害、果てには自律神経障害も引き起こしちまうんだよ」
訳の分からない単語を連発され、頭が混乱する。
「つまりどういうことになるんだ?」
「体が動かなくなる。頭もおかしくなる」
最悪じゃねえか。一〇〇〇年前の俺たちの先祖、なんてことしてくれてんだよ。
「ついでにこういうことも起こる」
と言ってキスケは自分の頭を指さした。
「花?」
「そうだ。植物は自分の子種をまき散らす。方法は様々だがな。そんでそれは俺たちが飲む水であったりに混ざりこむわけだ。そして『恵みの雨』で窒素を取り込んだ俺たちは、身体から植物が生えてくるって寸法だな」
「ヤバいじゃん!? 俺も生えてくるの!?」
「いや、これはかなり稀な例なんだが、まあ可能性がないとは言い切れないな」
キスケは真面目半分、俺の反応を楽しんでる半分のような表情をしている。
「ぜっっったいに嫌だ。俺はこれから水も飲まねえし雨にも一滴も打たれねえ」
「水飲まないのは無理だろ……」
キスケは呆れたような表情でボソッとツッコミを入れた。
 
 
それから俺たちは様々な場所を訪れたが、一所に長居することはしなかった。やはり一〇代の若者と五〇代のおっさんという並びはかなり異質だし、しかも自分たちの村から出て放浪するなんて普通は考えない。俺たちは常に「異端者」という扱いを受け、どの村人とも親交を深めることはなかった。
時にオオカミの被り物をした上裸の連中に追い掛け回されたり、植物が生えるというより植物になってる(キスケによると「ツリーマン症候群」というらしい)ヤツらに遭遇したりしたが、自分たち以外の村を見るという体験はどれも初めてのことで、苦労は多かったけれど辛いと感じることはなかった。
そして当然、もう終わりを迎えてしまった村もいくつも通った。村が絶え果ててゆく様は見るに堪えないものばかりだった。人々は地面に倒れ伏し、その死体から色とりどりの花が鮮やかに咲き誇っていた。苔が生えすぎて、周りの地面と同化してしまった人もいた。稀にまだかすかに息がある人もいたが、根が体に深く埋まりすぎているのだろう、激痛のあまり呻き声を上げることしかできないようだった。初めのうちはどうにかして助けようとしたのだが、キスケはそんな俺の腕をつかみ、静かに首を横に振った。
 
 
それでも、どの村でも「狩人」と「木こり」という職業はあったし、「学者」なんて名乗っている奴はいなかった。村から少し外れると数か所からドッ、ドッ、と何かを打ち付ける音や、獣の鳴き声とそれを追っているであろう人々の雄叫びも聞こえた。
そんな中で、特に印象に残っているのはリンという少女だ。いや、正確に言おう。リンは今、俺たちの前を元気に歩いている。
彼女はもう滅んでしまった村の外れで「木こり」として働いていた少女だ。自分の村が滅んでいることに気が付かず、「木を伐ってこい」と言われたから、という理由で食糧だけを持って二ヵ月以上この森で木を伐り続けているらしい。この世界の子供の例にもれず、まともな教育を受けていなかったせいで最初はほとんど何も話せず、感情表現が乏しかった。
「きみ、名前は?」
「……」
ドッ。ドッ。
「どのくらいここにいるの?」
「……」
 ドッ。ドッ。
「どの村から来たの?」
「……こう」
 ドッ。ドッ。
 コミュニケーションを取れる気がしなかった。こちらから呼びかけても返ってくるのは木を打つ音だけ。それでも俺は粘り続けた。それだけの何かを彼女に感じていた。
「何歳?」
「……ぅ一歳」
「木伐るの、楽しい?」
「……普通」
 我ながらとんでもない質問をしてしまった。仕事が楽しいわけない。
「お、お菓子食べるか?」
「うん」
「名前は?」
「……リン」
「リンっていうのか。いい名前だな」
 小声の少女と必死に意思疎通を図ろうとする俺を、キスケは変な目で見つめていた。
  
  
 リンが指し示した方向にある村を訪れ、戻ってきた俺はリンに言った。
「リンちゃん。君の村はもう……」
 もちろん言わないという選択肢もあった。でもこれは言わなければならないだろう。この娘がこれ以降どうするとしても、現状は知っておく必要があると感じた。例えそれがどれほど残酷なものだったとしても。
「……そう」
 ドッ。……ドッ。
 彼女は一瞬目を開いたが、すぐに何事もなかったかのように木を伐り始めた。それでも手が震えて、木を伐るリズムが乱れているところを見るに、それなりに動揺はしているらしい。この日はこれ以上話すような雰囲気でもなかったので、俺はそそくさと拠点へと引き返した。
いつもの通り放って先に進もうとするキスケに俺は頼み込んだ。「食事は俺の分をやるから一緒に連れて行ってやれないか」と。これまでも孤児なんていくらでも見てきたが、彼らは皆感情的に泣き叫ぶだけだった。つまり、自分たちの置かれた状況を正確に理解していないのだ。ただ自分の親がいなくなったから。周りが恐ろしいことになっているから。それだけで泣いているように見えた。
しかしリンは違う。与えられた仕事をただ淡々とこなしていただけなのに、突然見ず知らずの二人組に故郷が終わったことを告げられ、行き場を奪われてしまった。それを告げられてもなお、彼女は泣くこともなく平静に振舞った。その歳ならいくら泣いても許されるのに、そうしなかった。
彼女はこれから、仲間が木を打ち据える音も、仲間に追いかけられる獣の鳴き声も、「仕事はもう十分だ」と村人が呼びに来る経験もしないで、ひたすら木を伐って生きてゆくことになるだろう。両親を失ってしまったという点では俺と同じだが、俺は両親が遺した家と金があった。そうではないリンに現実を突きつけてしまったことに少なからず罪悪感を覚えていたのだろう。あとは、孤独をものともしない彼女の面影に、どこかで自分を重ねていたのかもしれない。いずれにせよ、リンのことは放っておけないと思った。
それでもこの子だけを特別扱いするのは違うと自分に言い聞かせ、リンの元を立ち去ろうとした。その時、何かが俺の歩みを止めた。振り返ると、リンが小さな手で俺の服の袖を掴み、「どこにいくの?」とでも言いたげな目でこちらを見ていた。これで俺は完全にやられてしまった。何としても連れてゆく。そう俺は決心した。
キスケは渋い顔をして頭の真っ白な花弁を触っていたが、表情を見るなり俺が譲る気がないことを悟ったらしい。「……足を引っ張ったらすぐにでも置いていくからな」と言った。このままではリンがかわいそうだという俺のエゴに彼女を付き合わせているだけかもしれない。それでも俺は嬉しくてついリンの手を握ってブンブンと振ってしまった。
「これからよろしくな、リン!」
「……? うん」
リンは状況をいまいち掴めていないのかポカンとしていたが、俺が嬉しそうにして、キスケがそれに呆れているのを見て、少し顔をほころばせた、ような気がした。
 
 
リンが加わってからというもの、歩みを進める速度は確実に低下した。しかし、俺はもちろん全く問題なかったし、キスケもさして気にしていない風だった。むしろ、俺がリンを連れて行きたいと駄々をこねたことに肯定的で、俺たちを見守る保護者になってくれている。
俺たちは歩きながら、リンがちゃんとコミュニケーションを取れるように練習をし続けた。夜には焚火を囲んで最低限の読み書きを教えた。その甲斐あってか、一か月もするとリンは、以前よりもはきはきと喋るようになった。表情も目に見えて豊かになった。生来明るい性格だったのだろう、言葉足らずながらも頻繁に俺たちに話しかけてくるようになったので、旅は賑やかなものになった。
「キスケ、おなかすいた」
「もうちょっとだ。それまで我慢しろ~」
「やだ。おなかすいた」
  リンはぷくっと頬を膨らませる。
「これ以上わがまましたらお昼は抜きだぞ」
「……はぁい」
頬の二つの風船はみるみるうちにしぼんでいった。その様子がおかしくて、俺はつい吹き出してしまう。いつの間にか、駄々をこねることまで覚えていたらしい。
 
 
ある時リンは、二種類の葉を手に持ってこちらにやってきた。
「ベル。この葉っぱ、なに?」
「あぁ、それは確か……ミントだな」
俺はキスケから教わった植物の知識をを手がかりに答える。
「じゃあこれは?」
「それはドクダミ? だったかな」
「へぇ」
彼女はまずミントを鼻に近づける。ミント特有の清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。彼女は顔をほころばせた。続いてドクダミ。こちらはどうだろうかと、ソムリエ気取りのような顔で匂いを嗅ぐ。形容しがたい強烈な独特の匂いが直撃したようで、リンは思い切り顔をしかめ、両方を道に投げ捨ててしまった。あの匂いは確かに好き嫌いがはっきり分かれると思う。正直言って俺も得意ではない。その後もしばらく鼻がおかしくなってしまった様子で鼻を弄っているリンを見て、俺とキスケは腹を抱えて笑った、
俺はリンの成長を親のようにうれしく思う一方で、リンが少しずつ自分から離れていくような寂しさを覚えていた。
 
 
ある日の夜。俺とキスケは焚火を囲んで倒木に腰かけていた。リンは歩き疲れたのだろう、俺の膝を枕にしてぐっすり眠っている。どこからともなく虫や獣、鳥たちの鳴き声が響いている。焚火をしているここだけが明るく、それ以外は飲み込まれてしまいそうなほどの暗闇だ。唯一の明かりに照らし出されたキスケは、普段からは想像もつかないほど浮かない顔をしていた。
「ベル」
キスケは静かな声で俺の名前を呼んだ。
「なんだよ改まって」
嫌な予感を感じつつも、俺は努めていつも通りにふるまった。
「俺、もうあんまり動けそうにないんだよ」
「え……?」
信じられなかった。あのキスケが動けないだなんて。でも、言われてみれば思い当たる節はあった。
リンが加わってから進む速度が遅くなったのはその通りだが、リンとて半年以上森の中で生活していたのだから、人並み以上の体力はあるはずだ。ここ最近、キスケは後ろから俺たちを見守っていることが多いと思っていたが、それは動くのが辛かったからなのか。
「……原因は分かってるのか?」
キスケは悔しそうな、どこか諦めたかのような表情で言う。
「もちろん歳ってものあるんだろうが……おそらくは『フレイヤ』のせいだろう」
そういえば『恵みの雨』の影響に運動障害があったな、と俺は思いだす。
「なんでだよ!? 俺とリンもおっさんと同じくらい雨被ってるじゃん!」
俺はリンを起こさないように声を抑えつつ、キスケに詰め寄った。そうだ。途中から加わったリンはともかく、俺はキスケとずっと行動を共にしているのだから、俺にも被害が出ないとおかしい。
「ベルが俺についてきたのはここ数か月の話だ。旅をしてきた期間が違う。……ってのもあるが、多分お前さんたちくらいの歳で耐性が付いたんだよ。窒素——もっと言うと『恵みの雨』に対するな」
「どういうことだ?」
「生き物ってのは進化するんだ。俺たちも誕生の時から二足歩行で髪の毛があったわけじゃない。最初は尻尾があって今よりもっと小さくて、四足歩行だった。ネズミみたいな生き物だったんだよ。そこから環境や生き方の変化に適応していって今の俺たちの姿に落ち着いたんだ。本来進化は何十万年も必要とするんだが、今回のケースに関しては急激すぎる変化だったからな。身体も急いだんだろう。もちろん俺も一つ上の世代だから耐性はあるんだが、お前さんたちに比べるとちょっとばかし完全じゃないんだな。まあ仕方ない。昔の偉い学者さんも『適者生存』って言葉を残してるんだ。俺は『適者』じゃなかった。それだけの話だよ」
「それだけって……」
俺は言葉に詰まる。何か言おうとしたが、何と言えばよいのかわからず、押し黙ってしまう。
「まあまあそう嘆きなさんな若人よ。別に明日死ぬことが決まったわけじゃねえんだ。そう気を落とすなよ」
キスケは茶化すような口調で俺を宥めたが、ふと真剣な表情になり、続けた。
「ただ、動けないのは本当だからよ、ここからの旅はお前さんたちに任せることになる。必ず砂漠を見つけてくれ。そして秘密を解き明かすんだ。これが俺から唯一の頼みだ。聞いてくれるな?」
俺はこれからの旅にキスケがいないという不安感に圧し潰されそうになりながら、目に溜まった涙をこらえて頷いた。
「それからベル。お前が俺についてきた目的を忘れるな。植物は人工物じゃないって証明するんだろ? 俺は自然物だと話しはしたが、自分の目で確かめるまでは疑い続けろ。そいつが学者の仕事ってやつだ」
キスケはそう言って笑い、しかし声色は真剣なまま続けた。
「自分の目的を忘れた時、人は本当の意味で死ぬ。たとえ肉体が生きていてもな」
そうだ。俺は俺の疑問を解き明かすためにここにいるんだ。でも俺は、キスケについていけばだいたいのことはなんとかなるし、楽しく過ごせると思ってきたのだ。彼がいないとなると俺は目指すべき目標、従うべき道しるべを失ってしまう。
そんな俺の心を見透かしたかのように、キスケはまた笑った。
「お前さん、俺がいなくなるからってとんでもなくビビってるだろ? 顔見りゃわかる。大丈夫だ。俺から一つ手掛かりをやろう。自然のものはいつか必ず終わりを迎える。人工物は壊れねェ。決してな。これだけ覚えときゃあなんとでもなるさ」
キスケはそう言うとごろんと横になり、すぐに寝息を立て始めた。彼が寝てしまった以上、俺が起きている理由もない。とりあえず横になってみたものの、案の定眠れるわけがなかった。
目を瞑って少しでも疲れを取ろうとしたが、キスケの言葉がずっと反芻して全く頭が休まらない。仕方ないので起き上がり、周りを見回すと穏やかな顔で眠るキスケの顔が見える。まるでさっきの話なんてなかったかのようだ。
何の気なしに彼を見ていると、彼の袖口からちらりと鮮やかな緑の何かが覗いていた。俺はぎょっとしてその緑の何かを凝視する。それは案の定、植物だった。どうやら頭の花だけではなかったようだ。この様子だと全身が覆われているかもしれない。彼のことが心配でならないが、心配したところで状況が改善するわけでもない。そう言い聞かせて無理やり目を閉じる。やっぱり眠れなかった。
 
 
翌日、俺はリンに昨夜のことを正直に話すべきか決めかねていた。本当のことを話すべきだというのは分かっているが、リンが悲しむのを見たくない。それはキスケも同じ気持ちだろう。特にキスケはリンのことを自分の愛娘かのように可愛がっていた。スキンシップが過ぎるあまりリンからは時々押し返されていたようだったが。ともかく、「リンを悲しませない」という方針で行くことにした。
いざ出発の段になり、キスケが何の準備もせず、寝ていることにリンが気付く。出発の直前まで居眠りしているのはよくあることだが、準備をしていないことは絶対にない。
「キスケ、なんで、準備してないの?」
リンは不思議そうに俺の方を見る。俺は用意していた答えを口にする。
「おっさんは疲れたんだってよ。すぐに行くから俺らで先に行っとけって」
早口になりすぎただろうか。緊張で手に汗が滲んでいた。
リンは少し考えるそぶりを見せた後、頷いた。俺は胸をなでおろす。
「キスケ、おじさんだもんね」
俺は思わず吹き出しそうになったが、キスケを起こすまいと慌てて口を押える。おっさん、寝ててラッキーだったな。世の中には聞かない方が良いこともあるんだぜ。そんなことを思い、キスケに同情しながら、リンと共にキスケの元を後にした。
 
 
三日後。相変わらず俺とリンは森の中をひたすら歩いている。
俺はキスケとの旅の中で見て学んだ旅の技術をどうにかこうにか使いながら日々をやり過ごしている。相変わらず木々が立ち並ぶばかりだったが、少し前から木と木の間隔が少しずつ広くなり、多少は遠くまで見えるようになった。木々の間から太陽の光が差し込むこともある。その時リンはきまって、明るいところだけを踏んで進んでいく遊びをしている。そんなリンを見ながら、俺は彼女を連れてきたのは間違いではなかったのだと思う。
俺たちはリンの明るさに何度も救われてきた。三日前からの二人旅も、もしリンがいなければ、不安に耐えきれずにキスケを見捨てていたかもしれない。
彼女との他愛無い話、彼女が見せる無邪気な笑顔、まっすぐな瞳。リンといることが俺の心の支えとなっていた。連れてきた側のエゴかもしれないが、リンにとっての俺たちもそうであってほしいと思う。
そんなことを考えながらリンと歩いていると、少し先を走っていたリンが「わぁっ…!」と歓声を上げ立ち尽した。何事かと顔を上げると、木々の連続がぷつりと途切れていた。
 
 
今にも叫びだしたい気分だ。木がないとキスケは言っていた。なら間違いないだろう。やっとだ。ようやく砂漠に着いたんだ。これでキスケを助けられる。俺は思わず走り出す。リンが俺のテンションの高さに一瞬固まるが、すぐに嬉しそうに俺のあとを追ってくる。
そこは白と青が全てを支配していた。半分は白。半分は青。そんな世界だった。ずっと視界を占領していた緑が一つたりとも見当たらない。こんな場所が今まであっただろうか。
俺は世界中の人に自慢したい気分だった。俺が見つけたんだぜ。緑がない世界なんて信じられないだろ。今までは木々に阻まれて隙間からしか見ることは叶わなかった空が、俺の目の前にその全貌を曝け出している。はるか上空には、大きな鳥が翼を広げて悠々と大空を舞っている。この日、俺は本当の意味で自由になれたような気がした。
俺はしばらく、空と砂漠が作り出す解放感に見惚れていたが、リンが俺を呼ぶ声で我に返った。そうだ。なんとかして砂漠が砂漠である理由を探さないと。なんで植物が生えてないんだ。なんでここだけ人の手が及んでいないんだ。俺は必死に「何か」を探す。
唐突に、一陣の風が俺の背後から吹き抜けた。風なんて木々に囲まれているとほとんど感じる機会がないので、俺は訳が分からず目を瞑る。目を開けると、白い結晶が風によって巻き上げられていた。それが砂漠を走っていたリンの方に向かって吹いてゆく。
その時だった。彼女の近くに咲いていた小さな花の葉が瞬く間に黄色へと変色し、花はしおれた。その様子を近くで眺めていたリンは目の前で起きた現象に戸惑っているが、俺は2つのことに気付く。一つ目。あの白いものが何か分からないが、あれに触れると植物は変色し、枯れ果てるということ。二つ目。人工物は壊れない。キスケは確かにそういった。つまり植物は自然物だったのだ。
この二つの事実に同時に気付いた俺は、慌てて用意していた栄養食の空き瓶を取り出す。そして風が吹いたタイミングを見計らって小瓶を風が吹く方向に向ける。するとどうだろう。瓶の中に白い結晶がほんの少し入った。それはわずかな進歩ではあったが、同時に大きな一歩でもあった。遊んでいるリンをすぐに呼び戻し、リンにも小瓶を持たせて白い結晶をたくさん集めた。
日が傾き始めるまでできるだけ多くの結晶を集めた俺たちは、その日は疲れて砂漠の入り口で眠り、そこから再び三日かけてキスケの元へと戻ることにした。
 
 
彼の元へ戻った時、俺は一瞬キスケがどこにいるのか分からなかった。実はもう動けるようになっていて、俺たちとどこかで入れ違いになったのではないか。そんな不安が俺の胸を駆け巡ったが、その心配は無用だった。リンが泣きそうな顔でこちらを見ていた。
急いで飛んでいくと、そこには植物に取り込まれかけたキスケが横たわっていた。頭の花が一際大きくなっていて、身体の方にいくつか蕾を見つけてしまった。まだ完全に取り込まれてはおらず、なんとか表情は読み取ることができる。もはや痛みすら感じていないのか、その顔は最後に見た寝顔と同じ、穏やかなものだった。
俺は顔から一気に血の気が引いてゆくのを感じた。もう手遅れだったのか。俺が砂漠で見つけたことは無駄だったのか。
すぐに俺はその考えを振り払った。自分で確かめるまではまだそうと決まったわけじゃない。それが学者なんだ。キスケから学んだことだ。なら俺がすることは決まっている。
「おい! 大丈夫か! 今戻ったぞ! しっかりしろ!」
俺は必死になって彼に声をかけ続ける。反応はない。くそっ。リンは泣きながらキスケの身体を一生懸命ゆすっている。泣くのは早いぞと思いながら、俺も滲んだ涙を堪えるのが精いっぱいだった。
砂漠で集めた結晶に効果があるのは分かっているが、使い方が分からない。なんせ植物を一瞬で枯らしてしまう物質だ。一歩間違えればキスケを殺しかねない。でもこのまま放っておけば確実にキスケは死ぬ。俺は一か八かの賭けに出ることにした。空き瓶の蓋を開けた俺を見て、リンが不安そうな目でこちらを見る。大丈夫。うまくいく。そう自分に言い聞かせながら、三瓶集めた結晶のうちの一瓶分をまるまるキスケにばらまく。
すると、彼に生えていた植物はみるみるうちに変色し、しおれていった。あとは簡単だ。身体からこいつらを抜いてやればいい。多少の痛みはあるだろうが、死ぬよりはましだ。身体の植物と一緒に頭に咲いていた花もしおれてしまった。自分を蝕んでいるものと知りながらも、キスケはそれなりに気に入っていたようだったが仕方がない。今は一刻を争う非常事態なのだ。
苔を引っこ抜く作業は五分程度で終わった。リンも手伝ってくれたおかげですぐにけりがついた。彼女は嘘をつかれていたことに気付き、ものすごい眼で見てきたが、何も言わずに枯れた植物を抜いてくれた。後で謝っておこう。
植物を抜ききったからと言ってすぐにキスケの意識が戻ることはなかったが、数時間すると彼の瞼がピクリと動き、うっすらと目を覚ました。俺とリンは安心のあまり二人とも腰を抜かしその場にへたり込んだ。起きてすぐに二人が崩れ落ちたもんだから、キスケはかなり慌てたようだったが、俺たちの方を見て優しく微笑んだ。
「おっさん、俺たちちゃんとやったぜ。植物の対処法を見つけたんだ。それに、植物が自然のものだって、俺の目で確かめた。おっさんに言われたこと、全部やり遂げてきたんだぜ」
俺は未だにバクバク鳴っている心臓を抑えながら、砂漠で見た風景、現象を細かく説明した。するとキスケは頭の花に触ろうとした。彼が考え事をするときの癖だ。でももうそれはできない。苔と一緒に枯れてしまっているのだから。キスケは自分の頭の異変に気付き、少し落ち込んだ様子だったが、すぐに気を取り直して今にも消え入りそうなか細い声で言った。
「まず礼を言う。本当にありがとう。正直俺はもう助からないと思っていた。俺は実に優秀な仲間を持ったよ」
そういって彼は震える手で俺とリンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「へへっ、どうだ」
「どっ、どうだ」
俺は誇らしげに、リンは俺の真似をして少し恥ずかしそうに言った。
後の研究で分かったことだが、この白い物質はおそらく水酸化カルシウム、と呼ばれるものらしい。植物が緑色を保ち続けるために、カリウムというものがあり、これが無くなると葉が変色するのだが、この水酸化カルシウムが植物の体内に入ったことでカリウムと結合して水酸化カリウムとなった。この水酸化カリウムというものは、植物に限らず生物の身体を構成するタンパク質に対して強い腐食性を示す。これとカリウムの不足によって植物が枯れたという寸法だそうだ。
学者でも何でもない俺とリンには何が何だかさっぱりだったが、キスケが嬉しそうだからそれだけで十分だった。
 
 
一日の静養期間を経て、俺たち三人は旅を再開した。といってももちろん更に奥に行くわけではなく、帰路だ。その前にキスケが砂漠を見ると言って聞かなかったため、とりあえず砂漠に向かった。彼は初めて見る砂漠にいたく感動していた。学者的には感動ポイントが多かったのだろう、ごにょごにょ独り言を呟いていろいろと書き留めたり採取したりしていた。
そうして三人で水酸化カルシウムの結晶を集め、ようやく帰路に就いた。帰りも数か月かかるかと思っていたが、キスケの体調が万全になったことで、一か月程で村に帰ることができた。
 
 
俺たちが帰ると、村には誰もいなくなっていた。植物が生え散らかした人の形をした何かがそこら中に転がっており、俺たちは唖然とした。確かに帰ってきても誰にも知られることはないとは言ったが、こういうことじゃないだろうと思った。
俺たちは少なからず気が動転していたが、どうにか平静を取り戻して俺の家へと歩みを進めた。家自体は数か月程度では何も変わっていなかった。
家の前に立つと、キスケはしみじみと感慨深そうに確かにこういった。
「懐かしいなァ」と。
確かに旅に出る前にこの家に連れてきたが、一泊ごときでノスタルジーを覚えることもないだろう。そう思っていると、「何年ぶりだろうなァ」と続けて言った。
「……は?」
思わず俺が訊き返すと、キスケはさも当然かのようにこういった。
「いやここ、俺の家だし」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「あぁ、言ってなかったっけ、俺の名前。ウトク。ウトク・ゲンチ。お前の父親だよ、ベルカント。おっきくなったなァ」
俺の中で様々な感情が湧いて出てくる。どれがどの感情か分からない。嬉しさ、怒り、戸惑い。言葉にできない思いが次々に噴出する。
「な、なに言って……」
キスケ、いや、ウトクは得意げに、でも少し気まずそうに続ける。
「お前の家の書庫。何冊か空きがあっただろ?あれ、俺が持ち出したんだよ。あと変にお前の心読むときあっただろ? さすがに息子の気持ちくらいわかるよな~なんつって……」
俺は我慢の限界だった。
「こんのクソ親父ぃぃぃぃ!!」
「まっ、待てベル! 俺も隠してたわけじゃない! 花が枯れてから思い出したんだよ!」
そこから先はよく覚えていない。オヤジが何か言い訳をしていたような気がするが、聞こえていない。なぜこんなに怒っていたのか、自分でも分からない。父親に会えたんだから喜べばいいのに、という声が聞こえてきそうだが、いきなりいなくなったと思っていた父親に会わされても、はいそうですかと手放しに喜べるもんじゃない。しかも小さい俺を置いて行ったってんだからなおさらだ。
突然俺が叫び始めたので、リンは大いにあわあわしていた。とりあえず俺の袖を引っ張ってみたようだが、今の俺はそんなもんじゃ止まらない。十数年ため込んだ想いがあるんだ。そうしてオヤジに説教をかましているうちに、頭に血が上り、俺は倒れてしまった。でもまあ良しとしよう。初対面からなぜかやけに気が合ったのも、ベルという呼び方に懐かしさを覚えたこともこれで説明がつく。
そして、天涯孤独だと思っていた俺に、リンとキスケという、かけがえのない存在ができたことが何よりもうれしかった。
 
 
その後、俺たちは再び旅に出た。水酸化カルシウムを携えて。親父曰く、「母を助けられなかった償い」だそうだ。もう十分だと俺たちは止めたが、さすが俺の親父というべきか、頑として譲らなかった。
親父1人だけを行かせるわけにもいかないので、俺とリンもついてゆくことにした。どうせ村は死んでいる。今度こそここに帰ってくることはないだろう。
 
「さてベル、リン、次はどこへ行こうか」
「海、見てみたい」
「いいねェ。じゃあ海を目指して出発だ!」
「方角分かってんのか?」
「知らん」「知らない」
「おいおい……」
これは俺たちが更なる未知を求めて、更なる時間をかけ、更なる場所を駆け抜けてゆく、巡礼の旅だ。
                                    了

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