海に行くならスマホは置いていけ
どうも。森野鏡です。
インターネットの界隈に身を置いていると必ず一回は聞くセリフがあります。
「こんなインターネットなんかやめて、海を見に行こうよ」
↑これです。最初はよくわからないままに「ほんまそれな〜」とかほざいていたのですが、この言葉について今一度よく考えてみたいと思います。では本編。
歴史
この言説ですが、元ネタを探してみたんですけど、出典が不明です。記憶に新しいのは、にゃるら氏が作詞を担当され、一部で大変な話題になった「INTERNET YAMERO」の歌詞である「こんなSNS抜け出して、二人で海を見に行くぞ」の部分でしょうか。
なんか『AIR』がどうとか言われているみたいですが、その辺りも信憑性が薄く、決め手に欠けていると言わざるを得ません。このミームの主戦場であるTwitterにおいても、派生系が多く、最古のツイートを発見するには至りませんでした。
なんかだんだん芸能人のプロフィールを紹介するクソサイトばりの不確かさを帯びてきましたが、本題はここではないので、次の話題に移りたいと思います。とりあえず、2023年に爆発的に流行し、それ以前は散発的に見られていた、という感じでまとめておこうと思います。
これが持つ意味
このミーム、なぜこんなに流行ったんでしょうか。
端的に言えば、現状に変化を求めている人が多いからだと思います。
思えば我々は、いつしかSNS、ひいてはインターネットに身も心も侵されてしまっています。もう情報を受け取るだけではなく、発信「する側」になることができます。そうだからこそ、私のような何者でもない人物がふと気になったことを適当に文字に起こしたり、ってことが出来ているわけですが。
そういったこともあって、情報の波に常に押し流されているような感覚を覚えます。SNSに動画、文章。どこを見渡しても情報、情報、情報。
インターネットは最悪です。本当に。いいことはないと言ってもいいです。
しかれども、我々はインターネットを手放すことは出来ません。少しでも目を離してしまうと、すぐに置いていかれるからです。流行りの曲、ニュース、などなど。
置いていかれるということはすなわち、孤立を意味します。集団から弾き出されます。これは現代の我々が最も恐れることの一つでしょう。
ただ、潜在的にはこの情報の戦争に我々は疲弊しきっています。さながらWWⅡ終盤の日本のように。だからこそ、静寂を求めて海に向かおうとするのです。多分。
なんで海?
はい。そうなんですよね。なんで海やねんと。別に静かな所であれば山でも良いはずなんですよね。なぜ海なのか。そこをちょこっと考えてみたいと思います。
さて、ではこの文章の研究対象の文章に立ち返りましょう。「こんなインターネットなんかやめて、海を見に行こうよ」
これですね。これはつまり、誰かに語りかけるようなセリフなわけですね。モノローグではなく。
ここからは私の、推理にはなってしまうのですが、誰かと現実から逃げようとしようとする時、山よりも海の方が都合がいいのではないでしょうか。
利便性とか、心理的距離とかの面で。後者は意外と大きいかもしれません。昔から山は神域とされてきたものも多いので、日本人にとっては少し近寄り難い場所、というイメージがついてしまっているのかもしれません。
他には、よっぽど都心に住んでいない限り、周りを見渡せば遠くの山が少し目に入ることと思います。そういう意味では、山は海と比べると日常に寄り添いすぎているという事もあるかもしれません。(海沿いに住んでいる人に関してはちょっと分からないですが、原風景という意味では安心できるのかも?)
あとはそうですね、海の方が開放感、という意味では優れている面があるやもしれません。山は頂上に登るまでは閉塞感の塊です。
みたいな感じで、色々な要因は考えられますが、総括して海の方が現実逃避の場所としては適切なとのだろう、という結論に至りました。
まとめ
長々となんでもない呟きについての考察をしてきましたが、やっぱり、日本人にとっては海はある程度の特別な意味を持ちます。また、その広大な風景から感じられる開放感(解放感)が窮屈な我々の日常からの一時的な逃走を可能にしているのでしょう。
とりあえず、海であれ山であれ、リフレッシュしたかったらインターネット、ひいてはスマホは置いていくのが吉です。一日離れていたとて死にません。孤立もしません。安心して夕日が沈む浜辺に行ってください。情報の奔流は僕が食い止めておきます。