言語習得の本当の意義
【アイルランド留学126日目】
ちょっとショックを受けた出来事を書きます。
最近、世界史の勉強にハマっていて今の世界がなぜこのような形になってきているのかということが、少しずつわかってきました。
仕入れた知識は人に話した方が身につくと思うので、さっそくアイルランド人の友達と歴史の話をしてみました。アイルランドとイギリスの関係性も、今なおデリケートな部分も存在していますが、そこも含めて学校ではどういう感じで教えられていたのかということも聞いてみました。具体的な内容はここでは書きませんが、まぁ色々いろんな問題があったり、今も続いていたりするわけです。
そんな中で、「これだけ世界がまだまだ荒れている中で、平和な日本は恵まれているなぁ」みたいなことを何気なく言いました。特に深い意味はなく、素直に思ったことを口にしました。
すると、
「え??」
という顔をされました。何かが引っかかったようです。そして、「恵まれているってどういうこと?」と質問されました。
そこでも私は質問の意図する内容が掴めずに、漠然と頭に浮かんだことを口にしました。
「いや、欧米列強が各地をえげつなく侵略していった中、日本は敗戦したとはいえ今は平和だし、独自の文化や言語も失われていないし、恵まれているなぁと思って。」
「いや、それは日本も侵略する側だったからでしょ。」
その瞬間、私の中でガツーンと衝撃が走りました。
そうなんです。
知識としては、日本がかつて朝鮮半島や東南アジアを占領して、勢力圏を広げていたことは知っていました。ただそのことを無意識に思考から外して、意見を語っていたのです。
このことについては、侵略ではなく、欧米列強からの解放のためであったり、より良い統治を行うためのものだったというような意見もあったりするので、その是非についてはわかりませんし、特にここでは触れるつもりもありません。ただ、少なくとも、利害関係国ではない第三者からみた場合は、日本は侵略する側だったと捉えられていることは事実なのです。
友達も、それが良いのか悪いのかということではなくて、シンプルに「え?そうでしょ?」と、淡々と事実を述べている感じでした。
このとき、自分の中で思考のバイアスがかかっているということを改めて気づいたのです。事実は知っていても、その意味合いや重大さについては、何もわかっていなかったのです。無意識に自分たちを当事者から外して、歴史を語っていたのです。
今回の話題そのものに対してというよりも、自分の傲慢さと無知さにショックを受けました。
これまで、いろんな立場からの本を読んだり、自分の頭で考えたり、実際の生活の中で経験したことを文章にしたりと、私の中では、フラットな意識で世の中を眺めたり、意見をもったりして、あらゆることを「わかっているつもり」になっていました。そして、自分が理解できていないことや依怙贔屓してしまいそうなところも「ここはうまく判断できてないなぁ」と自分の中では認識できているつもりでした。いわゆる「無知の知」もちゃんと持ち合わせているよ!という意識だったのです。なんとも傲慢です。「悟った気になっている自分」ほど恥ずかしいものはありませんね。
そのあと、「たしかに」という感じで私が納得して、それぞれの国で歴史教育を受けるとその国にとってデリケートな部分や少し都合の悪い部分は、事実を捏造するということはなくても、さもなんてことのない事件のように、出来事の名前だけ触れて流されてしまうなんてことは往往にしてあるんだねぇという話になっていきました。これも、それが良いのか悪いのかということではなく、国というものはそういうものだよな、という事実を確認したという感じです。
だからこそ、改めて言語習得の重要性も感じました。結局、何かを学んだり、情報を仕入れる時には、その言語の母国のバイアスがかかってしまうのです。日本語で世界の歴史を学んだら、どれだけ中立に書かれた本であれども、無意識下で日本語話者としてのバイアスがかかってきます。ニュースも新聞も、SNSだってもちろんそうです。いやいや、海外情報も翻訳されて入ってくるよ〜という意見もあると思いますが、まず翻訳者の解釈に多少なりとも左右されますし、日本人にウケなさそうな情報はそもそも翻訳するメリットもないので、目にするチャンスは少なくなります。
日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、東南アジア、など立場が違えば、同じ出来事に対しても、見方が異なります。その国の言語を身につけることで、その国からみた世界の形がわかります。
言語を学ぶということは、「異なる視点」を身につけるということなのです。
これまでは『言語はツールに過ぎない』というような認識をもっていましたが、それだけではないということに今回気づけました。私も、歴史の勉強は日本語でしてましたからね。言語は、単純な情報伝達ツールではなく、人々の思想や価値観を支配するもっともっと奥深いものなのです。
そして、異なる視点や思想を理解、認識することで、初めて「自分の頭で考える」ということができるのではないでしょうか。複数の立場からの考え方に直接触れ、それをフラットに比較することで、特定の何かに左右されない「自分の意見」というものが初めて生まれるのではないでしょうか。
それが何になるんだよ〜と思われる方もいるかもしれませんが、自分の頭で考える、自分の意見を持つということは、自分の人生に誇りをもって生きることと同義だと私は思っています。
仕事とか、収入とか、家族のこととか、政治、経済、世界情勢とか、世の中には自分の力では思うようにいかないことの方が多いと思いますが、自分の頭の中だけは自分でコントロールできます。そこの主導権は誰かに渡したくはありませんよね。「自由」を自分で掴み取るという感じかもしれません。外に求める権利というよりも、自分の内側にある「自由」ですが。
ちょっとテンションが上がって長文になってしまいましたが、それだけ自分の中ではショックを受けた出来事でした。本当に些細なことなんですけどね。
まだまだ知らないことも、気づいていないこともたくさんありますね世の中には!!そして、自分の中にも!!
もうちょっとがんばるか〜!!
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